「賀川豊彦の贈りものーいのち輝いて」(第7回)(未テキスト化分)



賀川豊彦の贈りものーいのち輝いて


 第7回・未テキスト化分


        第一章 賀川豊彦 没後四〇余年


    (前回の続き)


     第二節 賀川豊彦生誕百年―80年代〜90年代―


         1 「賀川豊彦と現代教会」問題の討議


 1970年代と80年代半ばまでは、部落問題解決の歴史の上ではまさに「疾風怒濤」の時代です。


 1969(昭和44)年に10年の時限立法として同和対策の特別措置法が施行され、10年経てさらに3年、加えてさらに5年の延長をみたおよそ18年間は、部落問題をめぐって運動・行政・教育すべての分野にわたる試行錯誤のなかでの混乱と激動の日々でした。


 部落差別問題も基本的に解決の見通しが見えてきた1980年代は、特に神戸市などにおいては、これまで集中的に取り組んできた行政・教育・運動それぞれの分野で、問題解決の到達段階を踏まえながら検討を加えつつ「見直し」作業が積み重ねられていきました。


 しかし他方では、兵庫県内のみならず大阪・京都・奈良はじめ全国の多くの場所においては、部落解放運動の「糾弾行為」は逆にエスカレートし、とりわけ日本の宗教界は、1981(昭和56)年の「同和問題にとりくむ宗教教団連帯会議」(略称「同宗連」)の結成前後から「部落問題フィーバー」をはじめる事態を生んでいきました。(注1)  わたしたちの所属する日本基督教団も、この会議の結成に積極的に参画した教団のひとつでした。


 こうして1984(昭和59)年の教団総会では、「故賀川豊彦氏及び氏に関する諸文書の再検討に関する件」といわれる「建議」が出され、新たな展開が始ました。


 教団常議員会での討議は、「賀川氏の差別文書問題は日本基督教団キリスト教界だけの問題でなくなり、『同宗連』で取り上げられている。今やキリスト教界全体の差別体質の実例として問題にされている」といった論調のもとに、担当委員が選ばれ、1986(昭和61)年2月には『「賀川豊彦と現代教会」問題に関する討議資料』を作成して、教団内各教区・全教会へ、これらの文書が届けられました。


 「賀川豊彦と部落問題」に関する歴史的研究は、既述のように工藤英一氏などによって地道に進められていたにもかかわらず、「討議資料」に示された論点は、あまりに粗雑なものでした。
この「討議資料」に対して、幾人かの異論も提示され、わたしも当時の教団総会議長・後宮俊夫氏宛に「質問と希望・意見」を提出したりもいたしました。


 「賀川豊彦と現代教会」問題として取り上げられた「問題提起」は、教団の内部に向けたもので、外に広がりを持つものではありませんでしたが、後で見るように、賀川を知らない世代を含めて、新たな「賀川ルネッサンス」を呼び起こした側面もあったように思われます。(注2)


 こうして1988(昭和63)年の「賀川豊彦生誕百年記念」を迎えることになります。しかしそこに行く前に、不幸・無惨な出来事であった『賀川豊彦全集』第3版刊行の問題について、言及しておかねばなりません。


           2 「全集」第3版刊行問題


 賀川没後早々に刊行委員会をつくり、全24巻の『賀川豊彦全集』が刊行された経緯はすでに述べました。この作品は、関係者に喜ばれ広く普及を重ね、第2版は初版刊行後11年を経た1973(昭和48)年、従前のかたちで出版されました。


 しかし、既述のように1970年代半ばから80年代にかけての部落問題解決のための集中的な取り組みのなかでの、行き過ぎた「差別糾弾闘争」や多くの試行錯誤は、マスコミ・出版界を含めて、過剰な「自己規制」や「自主規制」をいっそう加熱させていくことになります。


 そうしたただ中の、しかも宗教界が部落問題で大揺れに揺れた1981(昭和56)年の暮れになって、『賀川豊彦全集』第3版の刊行の時期を迎えたのです。


 この時、賀川の良きパートナー・賀川ハルは93歳で健在でしたが、1981(昭和56)年6月の「灘神戸生協60周年記念式」に出席したおり、つぎのように述べていました。(注3)


 「学問の世界で論じられることならば、ありのままに出版して、正確に批判を受けることが当然のことではありませんか。賀川のこの二七歳の時の書物は、その後72歳の逝去の日までの永い活動そのものを通じて、訂正し償ってきたことが明らかになることが、大切ではないでしょうか。」(注4)


 しかしその時、出版元である「キリスト新聞社」が賀川ハルから版権を得ていたこともあって、全集第8巻の問題箇所として指摘されていたところなどを、「キリスト新聞社」は「自己規制」するかたちで「削除」措置をとって刊行してしまったのです。したがって、現在の全集第八巻は、「削除」された「欠本」として残ることになるのです。


 そしてこの「欠本」が刊行されて半年余り後(1982年7月)、日本基督教団「部落解放センター」と「部落解放キリスト者協議会」(注5) が、この第8巻そのものを「差別文書」と断じた上で、出版元である関係者とのあいだで、長期間にわたる断続的な「話し合い」が、延々とおよそ10年間も継続されることになるのです。


 そしてわたしには、その10年間の「無残な記録」としか受け取ることのできない「成果」が、キリスト新聞社編『資料集「賀川豊彦全集と部落差別」』(キリスト新聞社、1991年)です。(注6)


          3 解決に向けた小さな試み


 既述のとおり1980年代は、これまでの「部落解放運動」「同和行政」「同和教育」などの試行錯誤の取り組みを反省・吟味し、問題解決の目標をあらためて見極め、到達段階の実態を科学的に調査する作業を積み重ねていく重要な時を迎えていました。


 こうしたときに、わたくしも初めての論文集(ノート)を1985(昭和60)年11月に『部落解放の基調―宗教と部落問題』と題して福岡・創言社から出版し、問題解決に向けた試論を提示しましたが、その時点ではまだ、公表すべき賀川豊彦に関する論攷を用意することができていませんでした。


 しかし前記のとおり、わたしの属する日本基督教団でまとめた賀川に関する乱暴な「討議資料」が「番町出合いの家」にも届き、地元「兵庫教区」でも公開討議が始められました。


 そこでは多少の意見交換がなされましたが、問題が問題であるだけに、「番町出合いの家・牧師」の名で、前記のように当時の教団総会議長宛の「質問と希望・意見」を届けたのでした。1986(昭和61)年5月のことです。


 そのとき望んだことは、「討議資料」の問題性をひとつひとつ指摘・検討するだけでなく、一人のひとの思想(思惟)と実践(行為)、「考え方」と「生き方」をトータルに把握すると共に、その両極面を独自に区別して捉えることのできる基本的な「方法的視座」を提示して、そこから事柄を積極的に「歴史的」かつ「本質的」に、この課題を解明・理解して見たいということでした。


 この意欲を暖めて、簡潔に仕上げて書き下ろしたのが『賀川豊彦と現代』(兵庫部落問題研究所刊、1988年)でした。


 まことに不十分なものですが、本書は結果的に、1920年代半ばまでの、神戸における賀川豊彦の青壮年期を扱ったドキュメントとなりました。
 

 本書は、なぜか出版のあと口伝てに広がり、幅広い読者を得ていきました。


 共同通信社の若い記者がこれに興味を示し、北海道から沖縄まで本書の記事が配信されたり、毎日新聞や地元の神戸新聞などまでもが、筆者の意図を正確な記事にして報道・紹介いたしました。そして各種雑誌や研究機関の紀要などにも、拙著に共感する論調で幅広く取り上げられたりもいたしました。


 しかしこうした反響とは対照的に、「賀川問題」を提起する人々からの具体的応答がほとんど届かなかったことは、いささか期待はずれでもありました。(注7)


       4 「賀川豊彦生誕百年記念」(1988年)


 キリスト教界に跋扈した上記のような「差別者・賀川」と断罪する乱暴な見方は、通常の「常識」からほど遠いものでした。そのことを明らかにして見せたのが、1988(昭和63)年の「賀川豊彦生誕百年」の多彩な記念イベントの盛り上がりです。


 たとえば、この記念の年の早々、賀川が生前関わった40を越える団体の代表が東京に集まり、全国規模の「賀川豊彦生誕100年記念実行委員会」(委員長・隅谷三喜男)が組織され、関西でも、神戸の賀川記念館に事務局を置き、30近くの幅広い関係団体が「関西実行委員会」(委員長・今井鎮雄)を立ち上げました。


 そして「記念式典」「講演会」「シンポジウム」「劇団徳島『炎は消えず』公演」「資料展」など、同年四月から年末まで、多彩な行事が企画・実施されていきます。


 とりわけ「記念映画」として製作された山田典吾監督作品「死線を越えて賀川豊彦物語」は好評を得て、多くの市民に「賀川豊彦」をよみがえらせる機会となりました。(注8)


 実行委員会以外にも、たとえば神戸では「生誕百年」にちなんで「国際協同組合デー記念講演会」(灘神戸生協生活文化センター)、「全国生協大会」(神戸ワールド記念ホール)、「イエス団」「イエスの友」全国集会などが開催され、京都でも「新島会」主催で「京都の集い」が新島会館でおこなわれ、田畑忍・嶋田啓一郎・深田未来生各氏ほかの講演が行われました。(注9) そして尼崎・大阪・徳島などでも、もちろん海外(主に米国)でも、賀川豊彦を記念する同様の「集い」が持たれました。
 

 さらにまた「生誕100年記念事業」として、『賀川豊彦写真集・KAGAWA TOYOHIKO』(東京堂出版)、『人物書誌大系・賀川豊彦』(日外アソシエーツ)、『歩もうともに手を繋いで』(PHP研究所)、『劇画・賀川豊彦物語』(灘神戸生協)などが刊行され話題を呼ぶとともに、「記念碑」建立の募金も行われ、神戸の賀川記念館近くにある公園の一角に完成しました。


 その他、NHKテレビでも、隅谷三喜男大江健三郎両氏の対話を交えた内容の「賀川豊彦って知っていますか」という45分番組が7月20日に放映され、これにはわたくしも部落問題に関わって製作に協力いたしました。


 さらに「賀川豊彦生誕100年記念ドラマプロジェクト作品」として、東京俳優生活協同組合企画・製作「エキサイティング」(監督・吉田憲二、製作協力・こぶしプロダクション)も準備され、大詰めのところまで進んでいましたが惜しくも完成には至りませんでした。(注10)

        
           5 「賀川豊彦研究」


 こうした「生誕百年」の盛り上がりの背景として、賀川没後20年ほど経過するころから始まった学際的な「賀川豊彦研究」の深まりが指摘されなければなりません。


 賀川が生前に書き残した膨大な著作や蔵書類の大半は、没後彼が学んだ明治学院に寄贈されていましたが、賀川の関係資料を集中的に蒐集・保存・整理し、研究活動に寄与できる施設として、財団法人・雲柱社のある東京・世田谷区に本格的な「賀川豊彦記念・松沢資料館」建設の取り組みが、1980年代初頭に開始されました。


 多額の寄付が寄せられ1982(昭和57)年10月には開館し、賀川の蔵書類もここに移管されました。翌年秋には、賀川純基氏が編集兼発行人となり、研究紀要『雲の柱』も創刊されていきます。(注11)


 また時を同じくして、東京の財団法人「本所賀川記念館」から雨宮延幸氏が発行人となり『賀川豊彦研究』の第1号が発行され、ここでも意欲的に年2回の定期的な研究報告が発表されています。(注12)


 さらに特筆すべきことは、1985(昭和60)年4月に東京で「賀川豊彦学会」の創設を見たことです。賀川の活動分野が広範囲にわたることから、研究者も必然的に学際的なものとなり、毎月の「定例研究会」と年1度の「学会大会」が開催され、その研究成果が学会誌『賀川豊彦学会論叢』として刊行されていきました。創刊号は1985(昭和60)年11月です。(注13)


 この学会には、国の同和対策審議会関係で長期にわたってトップの責任を担ってきた磯村英一氏が、1988(昭和63)年の大会より代表理事に就任し、高齢を押して生前最後まで、この学会トップの任を果たしました。磯村氏の賀川との生前の関係は浅からぬものがあったからです。(注14)



                 


1  「部落問題フィーバー」という言葉を用いたのは藤谷俊雄氏である。『宗教と部落問題』(部落問題研究所、1982年)参照。


2  1988年3月、先の「討議資料」に対する「意見」を承けて、『「賀川豊彦と現代教会」問題に関する討議資料』(第2部)が発行されたが、これ以後ほとんど討議は進まなかった。


3  賀川豊彦のよきパートナー・賀川ハルの克明な評伝は、加藤重『わが妻恋し―賀川豊彦の妻・ハルの生涯』として1999年に晩聲社より刊行された。


4  賀川豊彦学会『賀川豊彦学会論叢』創刊号(1985年)所収の嶋田啓一郎賀川豊彦は私達にとって何を意味するか」参照。


5  この組織「部落解放キリスト教協議会」は、初版の時の問題提起の中心であった「キリスト者部落対策協議会」が、1978年に名称変更したもので、個人有志から成る超教派の自主組織。後にこの「話し合い」には、「部落問題と取り組むキリスト教連帯会議」も参加。


6  拙著『賀川豊彦と現代』(兵庫部落問題研究所、1988年)第六章「キリスト教の『賀川問題』」参照。


7  震災後避難先で書き上げた拙著『「対話の時代」のはじまり−宗教・人権・部落問題』(兵庫部落問題研究所、1997年)59頁以下でも少し「賀川問題」に触れた。


8  「賀川豊彦生誕百年記念」の時とその後10年間に行われた講演(大江健三郎武者小路公秀・三宅廉・坂本義和など)を収めて、1999年に『賀川豊彦から見た現代』(教文館)が刊行されている。本書の紹介は「本のひろば」1999年8月号で短く行ったが、2001年1月発行の『大原社会問題研究所雑誌』五〇六号には横関至氏の適切な「書評」が収められている。


9  雑誌『部落』(部落問題研究所)1989年2月号に寄稿した「賀川豊彦と部落問題」でこの「京都の集い」について触れ、其の時点での問題の整理をした。この稿は創言社・2002年刊行の拙著『賀川豊彦再発見』に収めた。


10  同年4月、「生誕100年記念実行委員会」宛に日本基督教団部落解放センターから二項目の『要望』―『賀川豊彦の部落差別を委員会の主体性のもとに公式に明らかにすること」「賀川豊彦の賛美や無批判な継承に終わることなく、その部落差別を十分に踏まえて記念行事を実施すること」―が提出されていたようであるが、その顛末は承知していない。


11  賀川豊彦記念松沢資料館機関誌『雲の柱』は現在まで17号を数える。開館20周年着年号(17号)では「賀川豊彦の二一世紀への継承」が特集され小稿「21世紀を生きる賀川豊彦」を寄稿した。(補記・『雲の柱』は2006年3月までに20号を数える。)


12  (財)本所賀川記念館発行『賀川豊彦研究』は、2004年11月までに48号を数える。当館では、「賀川豊彦著作読書会」「賀川豊彦研究会」「賀川豊彦研究講演会」「賀川豊彦シンポジウム」など220回ほどの取り組みを積み重ねてきている。(補記=『賀川豊彦研究』は、2006年8月までに51号まで刊行されている。)


13  「賀川豊彦学会」は1996年3月の『賀川豊彦学会論叢』(第10・11合併号)発行後、活動が止まっていたが、2003年7月には「研究大会」が開催され、近く『論叢』一二号も刊行される。(補記・2005年12月までに14号を数える)


14  磯村英一「賀川豊彦死線を越えて』」(『私の魂をゆさぶった一冊の本』一光社・昭和50年10月)及び「賀川豊彦と間島福(ゆたか)との出会い」(『私の昭和史』中央法規出版・昭和60年5月)など参照。