『在家労働牧師を目指してー「番町出合いの家」の記録』(29)第2部「新しい生活の中から」第3章「働くこと・生きること」(「日録・解放」)

第3章に収めるこの「日録・解放」は、鉄筆を持ってガリ版にカリコリ書きながら、謄写印刷も自分で一枚一枚仕上げたもので、パソコン時代のいまからみると、まったく時代ものですね。


「日録」は、1967年の8月から、自覚的(?)に書き始めていましたが、どういうわけか、「日録・解放」の書き始めは、「番町出合いの家」がスタートしたその時からではなく、「神戸イエス団教会」在任中の時のものとなっています。


これはおそらく、その段階から書き始めなければ、新しい生活を綴るには、あまりに唐突になり、こういう繋ぎがどうしても必要であると、考えたからなのでしょう。


ともあれ,1967年12月末、大晦日のまえから、これはスタートしています。


実際の「日録」では、公開することなど考えていませんから、みな実名で書き込んでいますが、ガリ版で綴るこのときには、人名はイニシャルになっていたり、いくらか読みやすく補正しながら、進めていたのではないかと思います。原文は、その時々の思いついたことなどを、もっとたくさん落書きをしていた筈ですから。


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本文に進む前に、当時の新聞記事をひとつアップして置きます。


当時はまだ、同和対策事業特別措置法が施行される前でもあり、全国の幅広い世論に押されて、神戸の地元でも神戸新聞はもちろん、朝日新聞そのほか新聞各紙が、部落問題の解決を求める小さな動向でも積極的に取り上げていたように思います。NHKテレビなども次々と地域の中に入って、地道な取材を重ねていました。


ここに収めて置くのは、1969(昭和44)年5月4日付の朝日新聞で「神戸版」に掲載されたものです。文字が小さくて読めませんが、生活環境、中でも住宅の劣悪な実態を取り上げて記事です。






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           第3章 働くこと・生きること


               『日録 解放』

   
             1967・12〜1968・5


1967年12月30日 


U君とともに、部落解放同盟番町支部の書記長であるNさんと出合う。長屋の一角を借りてできた事務所で、1時間ばかり語りあう。


Nさんの話では、地域の働く人たちが、自動車の運転免許を取得するための新しい組織である「車友会」というものをつくって、自動車学校に入学する下準備として「識字学級」に取り組んでいるので、そこでの学習指導などの手伝いをして欲しい、とのことである。少しずつ現実にふれながら、自分にできることを発見して、いっぽいっぽ歩んでいきたい。


教区議長のN牧師より電話をいただく。はじめて先生の教会をお訪ねして、3時間ばかり話し合う。N牧師は、牧師たちの移動などの相談に乗るなどされているが、先生のお話は、ぼくの新しい仕事場を紹介する話であった。ぼくから何も、そういう相談をしていたわけではないのだが。


ひとつは、滋賀県の教会、ほかひとつは、九州の炭鉱の町の教会であるが、どうか、という話である。その話をお聞きしたあと、そのような移動の意志はないことと、労働牧師をめざして、新しい歩みを始めようとしていることについて、ぼくの志を、先生に伝えた。


N氏はなかなかワカイ! ぼくのの志に、いたく共鳴しておられるようだ。志が与えられれば、何者をも恐れるものはない。人は、その固有の使命で動くものだということを、先生は解っておられる。そして、その使命もそれぞれ違っているということも、わかっておられるようである。


 ――しかし、話していて思ったことは、牧師の人事で、あくまでも個人的でマル秘的なものまで、あらいざらいに話されるの良くない。ぼくには、そんなことは全く興味はない。人の志こそが重大なのだ。


それにしても、N氏と話をしていて、実に楽しかった。それは互いに、率直に語り合うことができたからだ。なにか、新しい世界が開かれてきたような気がする。


 ――牧師となること、教会の真実を表現し、行動すること。これを自分の仕事とせよ。「イエスと共に生きる」 これがわたしたちの楽しみだ。そこに備えられているものがある! 仕事が待っている! 


延原さんから『BAMBINO』の12月号が来た。ぼくも彼のように、自分自身のなかで、新しい「私」を受け入れ、それに従って生きるところで、生きた認識を与えられ、喜んで歩もう! 何という喜ばしいことであるか!


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コメント


今回ブログでこれを掲載するに当たり、必要に応じて、自由にコメントを付して置きたいと思います。


N牧師は、わざわざ匿名にしなくてもよいと思いますが、実際に私たちが、新しい生活を始めた時に、兵庫教区の常置委員会において「番町出合いの家」の正式な公認手続きを済ませて頂いた後、一度我が家にまでお越しいただいたことがあります。


夏が近いときではなかったかと思いますが、焼肉など食べながら、狭い部屋での歓談をしたことを記憶しています。上下白の立派な背広姿でこられてびっくりしましたが、そのときのことを先生はえらく喜んで頂き、後々までもあの日の事を話題にされました。


歴代の教区議長のなかで、「番町出合いの家」に足を運んでこられたのは、N牧師ただひとりでしたが、先生は晩年にまで、私たちの歩みに対しては、気がかりだったのか、ずっと興味をもって、励ましていただきました。