『在家労働牧師を目指してー「番町出合いの家」の記録』(30)第2部「新しい生活の中から」第3章「働くこと・生きること」(「日録・解放」)

前回から第2部「新しい生活の中から」に進んでいますが、当時私たちはカメラというものを持っていなかったのではないかと思います。もちろん、テレビもありませんでした。


前回と同様に今回も、まだ「神戸イエス団教会」在任中の「日録」ですから、その頃の写真を探して、ここに収めて置きます。


1枚目は、教会学校の先生方と撮したもの、もう一枚は、新潟に敬和学園高校の開校準備を進めておられた頃(?)の太田俊雄先生をお迎えした礼拝の後に撮られたものです。いずれも、私にとって、大事な写真です。







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          第二部 新しい生活の中から



            第3章 働くこと・生きること


                『日録 解放』

              
               1967・12〜1968・5



1968年1月5日

これから新しく住宅を確保するには、敷金として大体15万円必要である。今、わたしたちの貯金は5万円である。教区から5万円の借り入れができるから、後5万円が不足する。やむなく、我が家の愛蔵本をここで処分する。


夜中12時過ぎまでかかって、大体かたずく。長女(満3歳)も次女(満2歳)も遅くまで相手をしてくれ、本を運んでくれた。長女は言う「お本をなぜ箱に入れるの?」。


新しい出発のためだから、我々にとって案外楽しい作業である。これでいくらになるのか知らないけれど、書物を売るのはこれが初めてであり、大いに心残りのするものである。


惜しいとは思うけれど、中にはもはや過去のもの、不要のものもある。本からも自由であれ。本たちよ、人の手にわたり、天下をめぐれ。縁あらばまたおいで。


一冊一冊の書物の中に、メシの味がする。学生の頃から、食うものを節約して求めたものばかりである。こうして、私たちは「新しい世界」に歩み出す。


1月10日

N牧師より、兵庫教区常置委員会で「番町出合い家」の開設申請が認められた、との電話をうける。


ふつう「伝道所」の開設は、幾人かの信徒がいて、はじめて認められるのであるが、我々に宿った新しい歩みが、こうして公的なかたちでも認可されるわけであるから、喜ばしいことである。


もちろん私たちにとって大事なことは、教区・教団からの認可を受けるかどうかではない。大事なことは、私たちが何を支えにして、何を使命に生きていくかにあるのである。そこを、教区も教団もシッカリ踏まえて、認可をいただくことができるのであればいいのであるが・・・。


大切に思うことは、道理にはずれないで、備えられた私たちの道を、いっぽいっぽ進んでいくことである。


1月21日〜27日

兵庫教区の2回目の「牧師労働ゼミナール」に参加。
今年のゼミは、私にとって新しい生活を開始する前の準備運動の役割を果たしてくれた。昨年すでにその志は決まっていたのであるが、今回はそれが確定的となり、助走がすでに始まっているごとくである。


2月2日

わたしたちの生活の場所が見付かる。
地域のなかの2階建ての旧い「文化住宅」で、6畳1間で家賃6000円、敷金5万円。部屋のなかに水道はある。一階の一番奥の部屋で、すこし暗い感じがするが、共用の便所がある。お風呂も市場も病院もそう遠くではない。
家内もここでいいという。早速明日、教区から5万円を借り入れ、契約を済ませたい。


地域の隣保館で出合ったNさんという地域の役員さんが、わたしの志に共鳴されたらしく、わざわざ知り合いのゴム工場を紹介してくださる。いちおう「履歴書」が要るらしく、正直に書く。