『在家労働牧師を目指してー「番町出合いの家」の記録』(31)第2部「新しい生活の中から」第3章「働くこと・生きること」(「日録・解放」)

「日録・解放」には、新しい生活をスタートする直前のことから公開していたようで、「神戸イエス団教会」の時のことも綴っています。


それで前回も、その頃の写真を探し出してアップしてみました。ここでも、1枚目は、賀川記念館の屋上で、2枚目は記念館の中の私の部屋で写した、みな若かった頃の写真を、そして3枚目は、本文で「牧師労働ゼミナール」のことに触れていますので、労ゼミの時の写真(この写真は第1回目の時のものですが)を収めて置きます。









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         第3章 働くこと・生きること


            「日録・解放」
   
   (前回につづく)



1968年1月5日


これから新しく住宅を確保するには、敷金として大体15万円必要である。今、わたしたちの貯金は5万円である。兵庫教区から5万円の借り入れができるようなので、後5万円が不足する。やむなく、我が家の愛蔵本をここで、思い切って処分する。


夜中12時過ぎまでかかって、大体かたずく。長女(満3歳)も次女(満2歳)も遅くまで相手をしてくれ、本を運んでくれた。ぼくの気持ちがわかるのか、長女は言う「お本をなぜ箱に入れるの?」。


新しい出発のためだから、我々にとってこれも案外楽しい作業ではある。これでいくらになるのか知らないけれど、書物を売るのはこれが初めての経験であり、大いにやはり心残りのするものである。


惜しいとは思うけれど、中にはもはや過去のもの、不要のものもある。本からも自由であれ。本たちよ、人の手にわたり、天下をめぐれ。縁あらば、またおいで。


一冊一冊の書物の中に、メシの味がする。学生の頃から、食うものを節約して求めたものばかりである。こうして、私たちは「新しい世界」に歩み出すのである。


1月10日


N牧師より、兵庫教区常置委員会で「番町出合い家」の開設申請が認められた、とのお電話をいただく。


ふつう「伝道所」の開設は、どこかの親教会があり、幾人かの信徒の方がいて、はじめて認められるのであるが、少しく異例のかたちで、我々に宿った新しい歩みが、こうして公的なかたちでも認可されるわけであるから、喜ばしいことである。


もちろん私たちにとって大事なことは、教区・教団からの認可を受けるかどうかにあるのではない。大事なことは、私たちがいま何を支えにして、何を使命に生きていくかにあるのである。そこを、教区も教団もシッカリみて、認可をいただくことができるのでなければならないのであるが、果たしてそこは、どうなのか・・・。


いずれにもあれ、大切に思うことは、道理に外れず、備えられた私たちの道を、いっぽいっぽ、進んでいくことである。


1月21日〜27日


兵庫教区職域伝道委員会主催の2回目の「牧師労働ゼミナール」に参加。
今年のゼミは、私にとって新しい生活を開始する前の、よい準備運動の役割を果たしてくれた。昨年すでにその志は決まっていたのであるが、今回はそれが確定的となり、助走がすでに始まっているごとくである。


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コメント


この「日録」では、N牧師は、兵庫教区の議長をされていたよう書いていますが、いま正式な「伝道所開設申請」と5万円の「借用願い」を取り出して見ると、申請あては、N牧師ではなく教区議長K牧師となっています。私の勘違いだったようです。

どうも、若い時からトンチンカンでもあったようです・・・。