『在家労働牧師を目指してー「番町出合いの家」の記録』(32)第2部「新しい生活の中から」第3章「働くこと・生きること」(「日録・解放」)

「日録・解放」は、今回までで「神戸イエス団教会」在任中のものは終わります。新しい生活を始めるまでの大切な準備として、番町の中に住む家を探すことと、もうひとつは働く仕事場を見つけるということがありました。


今回はそれらのことに関連した日録になります。
そこで今回も、「神戸イエス団教会」時代の写真を2枚と、すでに「新しい生活」の先輩格でもあった、延原時行さんの発行していた冊子『BZMBINO』の1968年1・2月号(第18号)の表紙をアップしてみます。


写真の1枚目は、兵庫教区の教師研修会に参加した若手たち(もちろん当時のことデスよ)、そして2枚目は、関西学院で開催された日本旧約学会関西部会の時のものです。私は旧約学会には属していませんでしたが、友人が発表するというので聴きに出掛けていました。懐かしい先生方や同僚たちです。











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          第2部 新しい生活の中から

    
           第3章 働くこと・生きること


              「日録・解放」

    (つづき)


1968年2月2日

わたしたちの生活の場所が見付かる。
番町のなかの2階建ての旧い「文化住宅」で、6畳1間で家賃6000円、敷金5万円。部屋のなかに水道はある。一階の一番奥の部屋で、少し暗い感じがするが、共用の便所がある。お風呂も市場も病院も、そう遠くではない。


家内もここでいいという。早速明日、教区から5万円を借り入れ、契約を済ませたい。


隣保館で出合ったNさんという地域の役員さんが、私の志になぜか共鳴されたらしく、わざわざ知り合いのゴム工場を紹介してくださる。いちおう「履歴書」が要るらしく、正直に「履歴書」を書く。


2月8日

紹介をしていただいたゴム工場をたずねて面接を受ける。
地域のなかにある工場であるが、規模も大きく安定した感じのするところである。面接は、人事と事務を担当している方で、いろいろ尋ねられた。「将来、教会にかえって立派な牧師になるために、しばらくの間ここで働きたいのか」などと。


私は長期にわたって働きたいこと、将来のためではなく「いま・ここ」で生きることが望みであること、履歴書には本当のことを書いたけれど、何の肩書きもなしに生きたいこと、などを答えた。


「給料は手取りで3万円にも満たないが、これでは生活できないのではないか」との問いには、私も少々困惑した。


家族4人が生活するのには、これでは無理であることはよく分かる。しかし、それも覚悟のうえだ。一生懸命に働いて、それでも生活ができないような状態こそが問題なのだ。働きながら、この貧困から脱する道を見出せば良い。


私の面接を評して「前代未聞の珍事・カミサンのような人が来た」と言われたそうである。私ははただ「志」に生きるだけだ。働いて食う。3万円で良いではないか! 妻も子どもたちも喜んで生きておる!


2月9日

滋賀県の仁保教会にいたとき、ワイフは次のようなうたを作った。

 
         おんぼろ牧師の土曜の夜のうた
 
      1 吹けばとぶよな  教会の屋根に
        かけた生命を   笑わばわらえ
        下手な説教も   八百回目
        月も知ってる   おいらの商売

      2 あの手この手の  思案を胸に
        やぶれ会堂に   今夜も暮れた
        ぐちも言わずに  まやかし説教
        作る我が身が   いじらしい

      3 明日はこの地も  日曜なれば
        何が何でも    話さにゃならぬ
        ネタを探して   今夜は徹夜
        おまんま食うため 仕方がないさ


なかなかうまい替え歌である。忘れられない傑作のひとつである。
しかし私はいま「新しいうた」を歌わねばならない。


オープンな部落問題の学習をはじめることができたらいいと思う。
関心のあるものの自由な「夜談会」で、部落の歴史や現状、解決の道を探っていく。まずはふたりで、しっかり研究をすすめること。


私の生活の場所が、どこでも「出合いの家」であること、零細企業の労働者として生きること、そしてここでの牧師であることを学んでゆく。


午後、番町の「我が家」に出向き、ガスコンロなど買って備え付ける。帰りに、解放同盟のN氏にあって、新居の報告をした。


彼も私たちのために、わざわざほかの場所にあたり、より条件の良いところを探していただいていたようだ。


しかし、条件は悪くてもどうということはないのだから、と御礼を言う。また、どこかの新聞記者が我々に、ぜひ会いたいといわれているらしい。もちろんこれはお断わりする。


2月10日

人のことばは、それがたとえ一言でも、その人の生活経験に即して自ら感動したことばとして語られるとき、はじめて深く聞く人の心を打つものである。


「表現の倫理」というようなものがある。自分のしていること、これからしようとすることを、誰にでも表明してよいというものではない。できることなら秘めごととしておくのが一番である。


これは閉鎖的な態度のように見られるが、開かれた心を養うための前提になるものである。達磨が七年間弧絶して、道を参究したごとくにである。(Kさんの発行する「主と共に」に「口を閉じる」を寄稿)


2月21日

河上民雄氏を支援する「民の会」の機関誌「灯」の「ひろば」に寄稿するためのメモ。
 

「神戸市内にも数多くの不良住宅地区があり、労働問題・教育問題など総合的対策が急がれる場所が存在する。これらの問題を放置しておくことは許されることではない。もちろん、この問題の解決のためには、自らの権利回復のための理論と実践の積み重ねが不可欠であり、マイナスの条件の中にあるものが、正しくその変革の道を探らねばならない。」


3月1日

吾妻地区会(注・賀川記念館のすぐ隣のKさんのお宅で小さな集いがもたれていた)での最後の奨励メモ。


「ここでなごやかに語り会い、多くを学ばせていただいた。この2年間は私にとって、少しゆとりをもって自分の生き方をたずねる時であった。賀川先生が『宗教とは生活の工夫である』と言われたが、これから私たちは、宗教が生活そのもので、生活が宗教であるようなあり方を、ともに学び続けたい。私は、新しい場所に移るが、これまで以上にみなさんを身近に思い続けるに違いない。感謝と御礼。」


3月26日

昨日、神戸職業安定所に出掛け、求人票で見付けた「日生ゴム」を紹介いただく。ちょうど職安には、教会員のOさんの面談だった。
そして今日午前中に工場を訪問。直にその場で、4月1日から働くことがきまる。


学歴も職歴もなにも問題にされず、ただ労働者としての熱意だけを尋ねられた。私にとってこれほど有難いことはない。また、待遇もまずまず。しっかり働こうと思う。出来るだけ静かに働きたいので、自分の働き場を明言しないで、黙々と働きたい。


3月27日

教会における職業的表現(?)は今日で完了。
キリスト教信仰の生命は、自己の相対性の明確な認識にある。自己の不真実をごまかして居直ることなく、真理の生命に連れ戻されて生きることこそ、重大だ。


自分はすでに真理をつかんでいると思い込み、他者を安易に拒否する傾向がつよい。安易な協調と分裂はいずれの場合も有害である。何事もつねに深く検討されねばならない。


深い検討をへた思想および行動は、それなりに自信がある。恐れはない。そこには真理への開放性がある。自立した人間にしてはじめて相互の交流は可能である。


真理をもとめて、探求的人間でなければならない。真理はつねに私を待っている。


働け・仕事せよ・学べ・考え・書け! 


すべての私の生は、真理を探求する生であれ。それ以外のうつろな生は、ぼくの外へ出て行け!


聖書のなかの悪鬼・悪霊とは何だったのか。それは、私をうつろにし、真理から逃避する生に、不当な理由をつけて甘んじさせようとする強力な力ではないか。悪鬼・悪霊は私のなかに強く生きている。イエス・キリストは私の悪鬼・悪霊をおいだし真理へと導く力ではなかったか。
はっきりそれを自覚しなければならない。真理とは何か! これが求めるべき課題である。                       (三ノ宮駅にて)


真理をもとめる探究的・発見的人間は、からだが躍動している。目は光り輝いている。                           (車中にて)