『在家労働牧師を目指して―「番町出合いの家」の記録』(33)第2部「新しい生活の中から」第3章「働くこと・生きること」(「日録・解放」)

馬齢を重ねてきたいま、こうした作業を進めていて思うことは、何事もほんとうに「一歩一歩」なのだということとですね。


若気の至りで、生意気なアオイことを書きなぐっていて、恥ずかしいことばかりですが、私たちに備えられたこの小さな実験は、試行錯誤のあゆみとはいえ、当時も、何人かの友人たちが、この「日録・解放」を面白がって読んで頂いていましたのと、こうした記録が、あの大地震でも生き伸びていて、ここにあるということと、ブログという思いがけない発表のばを得て、記録に残せて、見知らぬ方にも目に留めていただけることは、何だか不思議なことに思えてなりません。


当時の写真などは、本当に少ないのですが、これまでになかった自治会をつくろうとか、子ども会もつくろうとか、みんなでワイワイやっているところの写真が出来てきましたので、若き日の勇姿(?)を見てやってくださいますか。


これは、1968年の暮れの自治会と子ども会の餅つきの時のものです。懐かしいデスね。






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           第3章 働くこと・生きること



               日録・解放


   (つづき)

1968年3月28日

今日から私たちの新しい生活がはじまった。
「番町出合いの家」(注・公式な名称は日本基督教団番町出合いの家伝道所という)。この家は、隣近所の家となんら変わるところはない。


家賃6000円、6畳1間に一家4人暮らし。道を求めて生き抜こうとする友も訪う。共に生きたもうキリストを発見しようと意欲する小さな家である。


自らがその発見の悦びに促されて生きているものたれ。


3月30日

神戸イエス団教会における仕事のいっさいが完了した。


2年間の経験は、その前の滋賀県の農村教会での2カ年の経験とおなじように、教会というものの現状とその問題点、並びにその変革の道を求めるのに、たいへん有益であった。


その探求の過程のなかで、それまで先輩から教えられて、もっとも大事に保とうとしてきたものを、ひとつひとつ捨てていく作業をしなければならなかった。


いな捨てる行為に先行して、真実のいのちが、私たちに到来したのである、といったほうがいい。


旧い自分のなかに、制度的なキリスト教のなかに、いのちがうせていることを承認せざるを得なくなった。


もはや古い自分を守るために、いのちを失った制度的教会を守るために、これ以上励みつづけることは、不本意なことになってしまった。


真理は断片的なのだが、真理はすべてを要求するのである。
こんにちの教会は、現代人の気休めの場となり、そこには何事も新しいことも起こりえないことが、たびたび指摘されるが、このような現状を変革するためには、まず自らが真理に促され、真理の探求者として、今・ここから生きはじめる以外に、方法はないことを知った。


H氏(注・京都教区部落伝道委員長)から葉書きが来た。そこには、「兵庫教区に部落伝道委員会をつくってはどうか」という提言が書かれている。委員会ができれば、必要な活動資金が、教団及び教区から届くそうだ。


だが、いまの私は「部落伝道委員会」などつくろうなどとは考えてもいない。
「部落への伝道」などは考えていない。


ただ私は、真理の道に連れ戻されて、ここで生きはじめるのである。生きることを学びなおすことなのである。


H氏には、「キリストの仕事場に身をおき、そこで仕事をすること」がぼくの志であることを返事した。


この生活の場からどんなことが起こるかは予測はつかない。口を閉じ、潜行し、ここでの課題を発見して、喜んでそれを担って歩むだけである。


Y氏とI氏から友情あふれる葉書きが来た。うれしい。


長女と銭湯にいく。銭湯はいい。気持ちがいい。出合いの家である! 出合いの家はどんなところでも起こる。長女に話しかけて親しくなったおっさん。ぼくはそのなかに神の栄光をみる思いがする。


ぼくの大事な先輩・延原時行師が、かつて「同一性」を「事実的・作用的・意味的」と三つに区分して、その相互関係を探っていたのを思い出した。


出合いは、「日常性」なのだ。友たちをむかえ、友だちをたずねる、そのときが出合いの恵みのときなのである。


何処にあっても、そのところが、四六時中礼拝なのだ。これには訓練が要るようだ。出合いの家の普遍性。いたるところ栄光は満ちている。われわれの仕事、それは出合いを経験すること。


3月31日

「創文」1968年・58号の秋月龍萊師の「初めに大悲あり」に接する。これは重要である。天地の慟哭! これをわが慟哭に! 


われわれがここで生活をはじめるのも、神の大悲にふれたそのところからである。何のためにと問われるならば、わたしも「一人の要するあり」と答える。


番町ではじめての「主日の出合い」(礼拝!) 朝食から昼食まで。われら2人と子供2人。集中のとき。


  (つづく)