『在家労働牧師を目指してー「番町出合いの家」の記録』(34)第2部「新しい生活の中から」第3章「働くこと・生きること」(「日録・解放」)

夢がかなって、愈々私たちの新しい生活がスタートしたところに進んできました。当時、カメラなども持っていなかったことも影響していますが、写真として記録するなどということは、思ってもみなかったようです。


しかし、毎日の出来事はメモをしておくという習慣は身についていたようで、今回収める、ゴム工場での初日のことなど、よく残っていたものだと思います。


前回も1枚写真を入れましたので、ここにも、新しく自治会を組織して、子ども会もできた頃のものを、1枚取り出して置きます。この写真は、新しい生活を初めて数年が経過しているのではないかと思いますが、ちよっと年代がはっきりいたしません。


私の役割は、いつもこういうときは、かま炊き専門でした。幼いときから、我が家の飯炊き当番で、いつもやってきていましたから。






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        第3章 働くこと・生きること


            「日録・解放」


    (つづき)


1968年4月1日

いよいよ本日より労働者としての生活もはじまった。
朝6時30分起床。7時30分に家を自転車で出て8時前に会社につく。最初であるから、仕事の内容その他を少し詳しく書き留めておく。


まず会社につくと、受付のタイムカードをおす。現場責任者のNさんに案内されて着替え室に入る。工場の二階倉庫の一角である。白粉で部屋全体が真っ白。着ふるした下着類や作業服、てぶくろやぞうり、じかたびなどが散在している。


そのなかで職場の友だちはすでに着替えの最中である。ここでの着替えとは「総がえ」なのである。ぜんぶ脱ぐ。なぜなら仕事ですべてが汗と粉で汚れるからだ。ぼくは着替えとして作業ズボンしか持参していなかったので少々とまどう。


きのうが日曜日、しかもその前日が給料日でもあったらしく、皆マージャンなどで疲労しているようだ。そのために、月曜日は残業なしで定時〔5時〕に終われるように段取りをするらしい。


マージャン疲れで、月はじめから休む人もいる。一日休むと皆勤手当ての楽しみもなくなるから、楽しみを残すためにも休んではいけないと口ぐちにいう。だが、皆勤をするということは、よほど快調なときでなければ不可能に近いらしい。それほど仕事がきついのだろう。


仕事始めである。ぼくの仕事は、ロールから見事に切り出されたラバーをさらに数枚あわせて、それをパレットの上に調える単純な反復作業である。


ほとんどがスポンジ類で、色も紺・緑・赤・黄など多様であり、大きさも多種である。白粉が舞って、すぐに全身が白くなる。この白粉はどの程度の害をおよぼすものか確かめねばならない。


午前中も午後も休憩時間はないのだが、「冷コ」を近くの喫茶店に注文してそれをみんなが飲む。これは会社が出すのではなく、友だち同士が**をして負担するのだ。ぼくは**の仲間に加わらなかったが、うまい冷コにありつけた。


12時15分前に仕事をとめ、顔を洗って昼食。1時まで休み。
会社の周辺を見てまわる。このあたりはどこもかしこもゴム関係の工場ばかりである。そして至るところに「貼工さん」「ロール工」「常傭」の求人の張り紙がはられ、人手不足を訴えている。


30分ほど近くの公園のベンチで寝そべる。公園の近くに神戸市の清掃局があり、黒鉛をむくむくと上げ、暖かい日差しをさえぎってしまう。清掃局のとなりは幼稚園や小学校がつづき住宅もある。これはひどい


午後の4時半には仕事は全部終了。45分に工場内の風呂場へ。5時過ぎに退社。
帰りの夕日は美しい。途中から夕陽を背にして歩き出す。明日はこの前方から太陽は昇る!

晩飯がうまい。岐阜土産をもって相方の姉さんがきた。明日から四時間の残業が始まるかもしれない。また、来週からは夜勤もはじまる予定である。