賀川豊彦の畏友・村島帰之(149)−村島「アメリカ巡礼」(1)

   「雲の柱」昭和8年3月号(第12巻第3号)への掲載分です。

         アメリカ巡礼(1)
         ベェニスの盛り場
                         村島帰之

   二十五年病臥の奥住夫人
 南加小児院に程近い小丘の上に、奥住夫人を訪ふ。夫人は今から二十五年前、電車に轢かれ両足を失ひ、爾来、今日まで四半世紀の久しきに亘って病臥の儘である。しかし肉体は損はれても、夫人の魂は、この大きな不幸のために、却って光を添へ、訪れて来る在留邦人に對し病床から福音を述べ傅へてゐる。これがためミセス・リーチは女史の一家の家計をヘルプして夫人をして安んじて病臥伝道に精進させてゐるといふ。

 二十五年の病臥! わたしたちは、わづか一週間の病臥でさえ退屈と焦燥とを感ずるのに、ましてや、二十五年の久しきに亘って、ただ仰向けになって臥てゐるといふのは、何といふ辛気くさいことだらうと思ふ。しかも、夫人はその状態を、何の不平もなく受取って、却って、訪れて来る壮健な人々に慰めの言葉を与ヘてゐるのだ。

 夫人の枕頭には聖書があった。それから、手細工ものの材料と。
 「いいえ、少しも苦しいなんて思ひませぬ。かうにて静かに聖書を読ませて頂けることを神様に感謝してゐる許りです。」

 さういふ夫人の顔は、健康そのもののやうに血色の善さと、幸福そのもののやうな笑顔のよさとを見せゐた。

   ハリウッド郊外
 奥住さんの家を出て、ついでにハリウッド見物と洒落る。高橋さんのドライブで、釜安さんが同道だ。

 ブルバートの大通りに出ると、音に聞こえたグローマーの映画館の支那建築が、スマートな洋館の中に異彩を放ってゐるのが目に這入る。「工費百萬弗を要したんですからね」
と高橋さんが、自分のもののやうに話される。

 ハリウッド・ホテルといふのがある。何でもカウボーイをやってゐた男がこれを経営してゐたとかで、その男がハリウッドの草分けだといふ。そして、今ではハリウッドの大地主となってゐるといふ。

 道傍に消防の火見櫓のやうなものが見える。それが油井戸だ。世界の虚栄の市ハリウッドの真ん中に、油が湧くなんて、むしろナンセンスである。

 やがて、自動車は美しいブルーバードの大通りを外れて、羅府の街を一眸の裡に瞰下す丘の上に出た。アメリカにおける金持の別荘と世界に聞えた映画人の立ち並ぶビパリーヒルである。丘の上には白や茶色の壁の美しい邸宅が、ポツンポツンと並んでゐる。それらがみな世に聞えた何某・何嬢の邸宅なのだ。

 自動車はその邸宅を抱いた丘の裾をめぐる廣いドライブ・ウエーをまっしぐらに走る。
 少し行くと、道の中央に馬場が作られてあった。タグラス、フェヤーバンクスなどが、朝々、ここで乗馬の練習をやるのだといふ。

 ㇵリウツドを離れて州立カリフォルニア大學を見に行く。廣い広い野原の中に、赤味かゝった建物が夢のやうに建ち並んでゐる。前面には数百台の自動車が待ってゐる。學生たちの乗りすてたミシンなのだ。ここは、バークレーの加州大學の分校なのだが、今では本校をも凌駕しさうになってゐるので、いづれは独立することになるだらうといふ。

    古谷兄とチキン

   十日 
 正午からエルモンテの古谷福松氏のところへ御馳走になりに行く。同行者は徳牧師夫妻と高橋さん。

 古谷さんの事は前にも書いた。氏は郷里紀州南部の傳道を賀川先生に依頼し、その費用を負担してゐる人、見るからにガッシリとした、映画のカウボーイを思はせるやうな偉丈夫だ。夫人もたつつけ袴のやうなものをはいて、野良仕事にいそしんでゐる。

 けふは私たちのため、沢山のチキンをほふっての大饗宴だ。
 「賀川さんがアメリカヘ来るといふことが判ってから御馳走用にチキンを飼って置いたんや。そのつもり十分、餌もやって置いたから、よ〜太っとるぜ。」
 飾りつけ一つない言葉に、真情がにじみ出る。

 食事のあとで、私が話をすることになって、ハイスクールへ行ってゐる令嬢たづ子さんをも向ひに行く。私は賀川夫人の話をした。

 しかし、考へて見ると、古谷夫人もまた一人の「賀川夫人」だと思ふ。なぜなら、夫君が賀川先生に私淑してその郷里の伝道を託し、その費用を負担すると申し出た後は、夫人もまた夫君の片棒を荷負はねばならぬからである。

    アメリカの百姓
 アメリカの百姓はもちろん、日本の百姓の如く小規模ではないにしても、換言すれば、鋤鍬で一土づつを耕すのではなく、トラクターを使って一ッツに何エーカーかを耕して行くのだとしても、所詮は同じ労力一つで稼ぐのだ。

 地主の如くノホホンで、小作米の這入って来るのを待つのとは訳が違ふ。古谷氏の耕地は日本でなら何町歩に当るか、兎に角廣いものだが、氏夫妻と、郷里から来てゐる親娘の四人を中心にして、この耕地全部の耕作が営まれるのだ。

 生産の規模が大きいだけに思惑が外れた場合、例へば去年トメトが高かったのでトメㇳを主として作ったら、今年は反對に安かったといふやうな場合、結局骨折損となって借金を背負ふことが少なくないのだ。

 賀川先生はこの投機的農業経営の危険を説いて、立体的農業経営を提唱されたのはこのためだ。尤も人間誰しも一攫千金の夢を見たがるもの、ましてや内地から遥かにアメリカ三界まで出稼ぎに来てゐる人々が、果して先生の説を遵守するかどうかは甚だ疑問ではあるが、それだけに先生のこの忠言は邦人の耳に痛かったことと思ふ。

 古谷氏だって、ありあまる金がある訳ではなく、収益の中から割いて、母國へ送金しやうといふのだから、少しでも収益を多くしやうとして、何かボロい儲けはないか――と思案した末が、思惑の耕作をやるに何の不思議もない。

 「賀川さんへの送金も、此の頃は思惑が外れどうしなので、切れてばかりゐて済まんと思ふとるのでな。」と古谷氏は述懐した。

     あわや自動車衝突!

 夕方近くなって、帰途につく。坦々たるㇵイウェーを私たちは二台の自動車に分乗して、まっしぐらに走ってゐた。自動車の外に殆んど人一人、犬一匹、通らない道だ。もちろん、自転車などの一台も見つからない郊外の大道だ。私たちは五十哩ぐらひのスピードを出してゐたらう。私は高橋さんの運転してくれられる自動車のフロントに高橋さんと並んで席を占めた。うしろのお客の席には斉藤夫人が乗ってゐた。徳牧師夫妻はあとの車だった。私の前には、どこかの車が、これも素晴しい速力を出してゐる。

 と、前の車が何の信号も前触れもなく、突然、真に突然、急カーブをとらうとして停車した。無信号だから、当然、直進して行くものと信じて、スピードを出してゐた私たちの車は、速力かゆるめる暇もなく前車に追突! 

 と、うしろで斉藤夫人がキャツと悲鳴をあげた。が、当然衝突すべきだったわたしたちの車は、熟練せる高橋さんが、とっさに急回転の処置に出てくれたため、車体は道のない田圃に突入して行ったけれど転覆もせず、むろん衝突もしなかった。斉藤夫人が悲鳴をあげたのは、アワヤと肝を潰したのである。

 私は不思議にも、平然としてゐた。肝っ玉が坐ってゐたのではない。高橋さんか信じ切ってゐたからである。高橋さんも「本当に、命を縮めました」といって居られたが、私は口では「全く!」と相槌を打ちはしたものの、実際はさうではなかった。

    (つづく)