賀川豊彦の畏友・村島帰之(148)−村島「アメリカ巡礼」

  「雲の柱」昭和8年1月号(第12巻第1号)への寄稿分です。

         アメリカ巡礼         羅府の日本小児園を見る
                           村島帰之

   十月六日
 午前十時、渡辺牧師が自動車で迎へに来てくれられたので、これに同乗して同氏の牧して居られる教會に行く。そして約一時間、婦人會の人たちのために、主として賀川夫人の事について話す。

 終って、婦人會の役員たちと午飯を頂いてゐるところへ、高橋さんが、自動車で迎ひに来てくれられた。これから、同氏の案内で、小児院その他を見學に行かうといふのである。

 邦人経営の小児院――その名を「南加小児院」といって、羅府の西端、サンセット・プルバードの丘陵の上に立てられてあった。傾斜を利用して、幾つかのホームが廊下によってつながれて建てられてあったが、いづれも快い日光を全面に吸って、見るからに快い環境だ。

 主事の楠本六一氏が不在なので、助手の白人の婦人が案内してくれられる。
 此處に収容されてゐる児童は最低生後十五箇月から、最長は十二歳までで三十三人、小さい児は、ベッドに寝かされ、保母があいてになっでゐるが、全収容児の半数以上を占める學齢児は、いづれも附近の小學校へ通學してゐるとかで、私たちの行った時には、保育室に数人の幼児がゐただけであった。

 この小児院に収容される児はいふまでもなく在留同胞のこどもたちである。その収容理由を訊くと、最も多いのに、母の死亡と母の病気で、全数の半数以上を占めてゐる。これが内地だったら家族制度が厳として存在して、母がなくとも身寄りのものの世話になることも出来ようが、古里遠く離れた他郷では、母なき後の児の面倒は父が見ねば誰もない。しかもその父親たるや、多くは出稼の無産者だ。児に手をとられてゐては、喰べることが出来ない。殊に、加州同胞は概ね晩婚で、その父は生活力の漸く衰へた老人だ。幼い児供を抱えてどうして生活が出来よう。

 かうした家族制度のないことと、生活難と晩婚の三つの事実が、母なき児を小児院へ送らせて来るのである。
 母の病気以外に、両親の病気、父の病気、それに父の死亡と母の病気、母の死亡と父の病気、の二つ重ったものもあって、兎に角、扶養者の病気のため、児を育てる余裕がなくなって、収容されて来たといふものが九割九分を占めてゐるといふのだ。

 病気の中でも、母の病気が最も多数であることはいふまでもない。母さへ達者だったらどうして児を手放なさうぞ。
 在留邦人の病気といへば、肺結核に決ってゐる。小児園の過去の統計を見ると、収容児の七割五分までは両親或はそのいづれかゞ肺結核で斃れてゐる。そして残りの二割五分の内二割までは母の発狂だ。

 在留同胞の中でも、無産者に属する人たちの受ける災害は、結核と発狂であると聞いて、誰か憮然たらざるものがあらうか。
 故郷を去って遥々と異邦に来て働いた末がこの最期とは! もちろん、それが出稼邦人の全部ではないにしても「海外発展」「人口問題の解決」「富源の開発」等等の華々しい移民奨励の言葉の裏に、この悲劇の潜んでゐることを、内地の同胞は知らねばならね。そして海外に働く同胞のためにその祝福を祈らねばならない。

 案内役の高橋さんはつけ足して説明してくれた。
 「何しろ、在留同胞の結婚年齢は夫五十歳、妻三十歳ぐらゐで、双方の間に二十歳位の隔リがありますが、妻が死んだ場合など男は全て気落ちして了ひます。あと添ひを貰ほうにも、モウ寄る年波だ。寫真結婚は許されないし、それに白人は勿論来てくれませんからね。ただ此の場合、気落ちせずに、踏み止まれるのは、宗教的條養のある人に限ります。この意味からでも在留邦人に信仰を植付けることは、何よりの急務だと思ひます。」
 と、まことに然うだと思った。

 なほ甚だ有難からぬことだが、邦人の中に妻を、或は人妻を酌婦に賣って働かゼてゐゐゴロがゐる。偶々その女が子を生んだ場合、酌婦の稼ぎの邪魔になるので、これを小児院に頼んで来ゐもののあるといふことだ。

 ゴロつきの搾取制度と、私娼の奴隷制度の尻拭ひをさせられることは決して望ましいことではない。がしかし、罪のないコドモを思へば、そうした子供こそ、ここに収容しなければならぬものかも知れない。その子許りではない。その母親の心をも察したら、それらの児を一層不欄に思っていたはってやらねばならないと思ふ。一人の母親が、主事へ送ってよこした手紙を左に掲げて見やう。

 「前略」生かして戴くことが神様り御旨ならば一日も早く子供を育てる母となりたうございます。いつでも子供に會ひたうございますが、叉別れが辛うございますから、在院中は子に會はしていただかない方がよいと思ひます。どうぞ、あの子供達に、母の踏んだ愚かな道を行かず、たゞ愛なる主の御手によりすがりつつ、神の正道に進み行く事が出来るやうにと朝な夕なの祈りです。どうぞ今後とも子供達をよろしくお願ひ申上げます。主にある皆さまから送って戴いた子供の寫真を毎夜抱いて寝ることのみが、せめての慰めとして暮して居ります。抱いては頬ずりした夢など見ました時、夢なるが故に堪えられぬ程残念で、夢遊病者の様に消え行く愛の後を追ひ度くなります。

 「中略」誰を怨むこともなく、凡ては犯せし罪のつぐなひでございます。さりながら、幾年も幾年も相別れて居て、若し神様の御恩恵により、母子共に暮す日が參りましても、その時は母子の情愛が薄らぎはしないかと、それのみ心配でなまりません。けれども、どれ程心を痛めても、自分の力でどうすることも出来ませんから、凡ては神に任せて今日一日々々を御旨に添ひ奉りて過し度いと望み希って居ります。(後略)

 文中に、子を思ふ母のこころと、薄幸な母親の断腸の思ひを読むことが出来やう。

 なほ此の小児院の経営には、収容児一人当り三十八弗を要するが、児供の親でも負担能力のある者からは保育料を徴収してゐる。しかし、三十三人の子の親の内、負担金を納めてゐるのは半数で、それも多くは一部分の負担であって全額負担をしてゐる者は四人にしか過ぎない。で、院の経費約一萬六千五百弗の中、七千弗はコミニテイー・チェスㇳから、二千弗は有力な邦人から納める維持會費、二千弗は寄附金、五百弗は興行収益から、そして五千弗を保育料から、と予定してゐるが、なかなかその通りにば行かないといふ。

 羅府には百五十三の社會事業團体があって、内十九団体は児童保護團体としてその中の二団体が日本人の経営になってゐる。即ち当小児院と、そして奮教の童貞によって経営されるメリノール、小児園とだ。

 合同募金は邦人から寄附する額よりも、邦人の團体が貰ふ方が遥かに多いといふ。
 かういふと、邦人は、この小児園に對し、半分ぐらゐしか力を添へてゐないことになるが、必ずしもそうでない。

 面白い事は、この小児園のこどもたちの日々喰べる野菜類が、全部、邦人のお百姓さんたちの寄附になるといふことだ。それも先方から持って来て寄附してくれるのでなく、小児園の人が、空のトラックをもって毎早朝、第七街及び第九街の野菜のマーケットへ出かけて行くのだ。すると、そこで山のやうに野楽を積んで賣りに来てゐる邦人が、小児園の車を見ると、その野菜の幾つかを、その車の中に放り込んで呉れるのだ。

 一々頼むのではない。また一々礼をいふ訳でもない。只、空車をひいて行くと、野菜が天から降って来て、帰って来ると、車の中は野菜で一杯になってゐるといふのだ。

 マナが降ったのだ。これが、邦人のために邦人の降らせるマナであるだけに、余計うれしい気がするではないか。

 野菜ばかりではない。着類や家具や古ミシンなどが邦人から寄附されて来るといふが、異邦においてであるだけに、うれしい限りだ。

 最後に、小児園のニュースの中から、エビソードめいたものを摘記して、園の横顔を偲ぶよすがとしやう。

 母は一昨年死に、病気勝の父もつひに郡立病院に送られて、四人の子弟がR市から来た。第二世の保母は名の知れない奇蟲が彼等の頭髪に棲息して居ることを発見した。さあ大変、早速薬店に走ったか、効能書程はきかない。ボーイは坊主頭にして早速解決をつけたが、娘はさう簡単に片付かない。漸くのことで之ならばと、学校に行かせたが、二三日目に手紙を持って来た。可愛想にまたもや数日學校を休まねばならない。母のない子は憐れだ。

 これも、四人の姉妹のママは去年死んで、パパのKさんも肺を病んで友人の好意で今はクリーニング屋の裏で独り寝て居る。明日は郡立病院に行く。多分之が最後であらうと楠本のパパが子供等を連れて會ひに行かれた。

 ハロー居るか? 居るよ! 暗い處から元気のない声がする。隨分衰弱して居る。クックする人もない。自分は無論出来ない。
 隣りの店でキャンデーをウンと買ふて、四人の子供に与ヘ幾度も幾度もグッドバイをした。三歳のちよ子にキャンデーに気を取られて、パパの最後のグッドバイも聞えぬらしい。一入あわれを催した。

 果してKさんは郡立病院で死んだ。禅宗寺で葬式が営まれた。若い保母の心尽くしで四人の子供等はパパの葬式に相応しい身仕度をして貰って楠本のパパと行った。帰って姉のT子が「私のパパは死んだ。今日からミスタ楠本が私のパパよ……」われ等に真心から彼女等のために祈らねばならない。

 院内の參観を終わって帰らうとしてゐると、楠本主事が帰って来た。事務所でいろいろと経営難を聞かされる。

 テーブルの上に、貯金箱がある。プレゼントがあった時など、これに入れさせるのだといふ。参観者名簿に署名をせよといはれる。武藤千世子夫人の次に悪筆をふるふ。

 帰途、學校から戻って来る院のこどもに出會った。みんな朗らかだ。「グッドバイ」といふと、ニコニコし乍ら「グッドバイ」をかへした。
 自動車に乗ってからも、その児供たちの笑顔がフロントのガラスに映ってゐて消えない。

     (この号はこれで終わる)