賀川豊彦の畏友・村島帰之(147)−村島「アメリカ巡礼」(2)

   「雲の柱」昭和7年12月号(第11巻第12号)への寄稿分です。

          アメリカ巡礼(2)          サンフランシスコ
                           村島帰之

    (前承)
    友遠きより来る

 正午、小川ホテルに帰って、スキ焼を賀川、小川、今井、秋谷、村島の五人でする。賀川先生が煮き役だ。そこへ、ロサンゼルスから徳、鵜浦、古谷、高橋の四氏が自動車で馳けつける。

 「今朝三時にロサンゼルスを出たのですよ」
との事。友遠くより来る、また楽しからずや。早速、スキ焼會を拡張する。聞けば四人が交互でドライでして夜を徹してやって来たのだといふ。

 私が出発を一週間延期したといふと、
 「じゃ、僕たちの自動車に乗せてロサンゼルスヘ帰らう」
 といふ。うれしい冗談だ。もう一度ロサンゼルスへ帰りたいといふ気持を禁じ得ない。唯「金さへあれば」だ。

 食事が済むと、先生と徳、小川、今井、村島の五人はタクシーで雨を衝いて金門公園へ聖者ダミエンの銅像を見に行く。
 が、いくら探してもダミエンの銅像は見つからない。博物館で訊いても判らない。
 ついでに博物館を一巡する。私には二度目の経験だ。

 小川ホテルヘ戻った。「羅府における賀川先生」の十六ミリ映書を私の部屋で映して見る。私はしきりと映画撮影機が欲しくなった。布哇行を変更して浮いた九十弗を利用して、買はうかと思ふ。

 晩餐は正金銀行員某氏から賀川、小川両氏と共に私も招かれたが、ロサンゼルスの兄弟たちと一緒に食事をしたいので、私だけ断る。先生は小川ホテルの食堂でその銀行員の夫妻と會食される。

 私たちは加州通リの海魚専門のレストランへ行く。古谷さんの健啖なる、昼も飯櫃一杯一人であけたが、晩もコーヒーを二杯平げた。古谷さんは「野の英雄」だと思ふ。その粗野にして、而も信仰の堅いのを思ひ合せて。
 食後、私の部屋で、先生たちの會食の終わるのを今か今かと待ち乍ら、久し振りで愉快な時間を羅府の兄弟たちと共に持つ。

 九時になって、漸く先生は私たちの部屋へ顔を出した。早速、ロサンゼルスの残りの揮毫をして貰ふ。余り沢山の依頼なので、大きい絹地は小さく縮めて書いて貰ふ事にする。十時過ぎまでに半数ほど書上げたが、先生の眼が赤くなって来たので止める。そして先生は教會へ。ロサンゼルスの徳、高橋、古谷の三氏は私と同じ小川ホテルに泊。

    二十三日
 七時過、目がさめたが、早すぎると思って寝床にゐると、ドアを敲く音がする。這入って来たのは古谷さんだ。
 「百姓をしてると、朝はきまったやうに五時頃から目がさめてしまふのんや」
 そこで私も起きる。顔を洗ってゐると、徳さんも、高橋さんも起きて見える。

 八時、一緒に食堂で朝飯を取る。賀川先生が農民福音學校やセツルメントのため活動寫真機を欲しがって居られる話が出る。すると、古谷さんが、
 「今は金がないが、出来るやうになったら買って寄附するよ」
 と言ふ。徳さんが、
 「君一人で寄附せんでも善い。同志を募らう」
 といふ。先生の希望を、直ぐそのまヽ容れて具体化させやうといふ羅府の兄弟たちは、まことに賀川先生の知己であり、同志だといへやう。

    オート・フェリー

 九時から、古谷さんの自動車を高橋さんがドライプして、賀川先生のアメリカにおける最後の講演を聞くためオークランドに向ふ。途中、教會に立寄って鷲山二三郎氏を迎へ入れ、雨の中をフェリーヘ行く。

 オート・フェリーは紐育でも乗ったが、桑港では最初だ。自動車を船へ乗り入れると、問もなく船が動き出した。車を下に置いて、フェーリーの階上へあがる。雨中の桑港湾の景色はまた格別だ。白い鴎が飛ぶ。フェリーが行交ふ。
 島々は雨で霞んでぼんやりとしか見えない。淡絵の景色だ。
 オークランドの街は一種の野趣を帯びてゐる。スパニッシュ風邪のミッションスタイルの家と、桑港のやうなコロニースタイルが混ってゐる。

    おけいの話
 車中で鷲山さんから「佳人の奇遇」の話や「おけい」の話を聞く。
 おけいといふのは北米へ移民した最初の日本の女、明治四年に十九歳の妙齢でサクラメント近郊のブラサヴィルにおいて死んだのだが、今そこには「おけいの墓」なるものが残ってゐるといふ。

 おけいは最初の日本移民の監督スネルの妻の従者として渡来したものである。一行はいづれも會津の者であった。「佳人の奇遇」の筆者柴四郎氏も會津の人だ。同氏もおけいを知ってゐたに違ひない。鷲山さんは文學者(牧師でもあるが)らしい空想を描いて、面白い話をしてくれた。

    ミルス・カレーヂ
 間もなく、森の中のミルス・カレーヂに着く。スペイン風の講堂で、今しも賀川先生の講演が始まってゐる最中だ。

 「この講堂はサンタバーバラのオールドミッションそのままだ」
 と私がいふと、鷲山さんも同意して、
 「ミッションスタイルがこの辺には似合ひますよ。ビザンチン式の建物は確かに善い」
 といはれる。
 ここのカレーヂは女ばかりの學校で、男女同學のアメリカとしては一異彩たるを失はない。

 講堂は満員なので、私たちは外で立って聞く。一日一回の講演なので、落ついた調子で話される。とても聞き善い。

 講演が終わってから天文台を見に行く。これは一八八四年、一般及び一般學校のために――といってキヤボット氏から市へ寄附したもので、二十インチと九インチの二つの望遠鏡が据えられてある。小學生たちが毎晩團体を組んで押しかけてくるといふ。

 所長が案外してくれる。所長の夫人の姉に当る人が賀川先生の「愛の科學」の翻訳をこの天文台の一室でなされたのださうだ。

 観測室にはワシントンから直通の時報のラヂオが据付てある。小學生のためにレクチュアをする講堂には、地球の回転する状況の模型などが並べられて興を惹いた。
 雨は全く止んだ。高台なので、全市が一目に見下される。
 自動車で再びフェリーヘ、そして小川ホテルヘ。

    賀川先生の出発
 いよいよ賀川先生がアメリカ大陸を去る時間が迫った。遠方からわざわざ見送りに来てくれられた羅府の兄弟達と、鷲山牧師、オークランドのイエスの友山田さんとわれ等、私の部屋に集って祈りを共にする。
 病身の先生を支えてくれられた感謝、アメリカにリバイバルを起してくれられた感謝。加州に起こりつつある神の國運動に對する祈り…
 一同の祈りはそれだった。

 食事を共にする。楽しい食事を。
 かくて四時、いよいよ先生は出発だ。一同、埠頭に見送る。

 乗船はダラー汽船のリンカーン号。この船は日本汽船のやうな二等がなく、三等はとてもひどいとの事で一等をとられた。一室に二人だ。ボーイはみんな支那人である。桑港の牧師團から川島、幸田、相浦、小田、藤井、玉置、鷲山氏が送って来られた。羅府の連中は勿論。

 四時、船は動き出した。賀川、小川両先生がデッキの窓から首を出して手を振る。テープの嫌ひな先生は唯手を振るだけだ。
 雨は晴れて快晴だ。船路の平安を祈りつつ、帰途につく。

 羅府の兄弟たちは、波止場から直ぐに自動車を羅府へ向けられる。羅府へつくのは夜も大分遅くなるであらう。
 賀川先生を一足先へ太平洋に送った私は、次の瞬間に、また羅府の兄弟たちとも別れを告げねばならない。賀川先生とは数日後にまた逢へるが、羅府の兄弟と此の次に逢へるのは果していつだらう。センチが胸に湧き上る。

 「また羅府へいらっしゃい」
 「ええ、是非、あなた方も日本へ、ね」
 堅い握手を交す間もなく、兄弟たちは急いで自動車上の人となった。全く、あわたゞしく。

    二十四日

 いよいよ一入ぼっちだ。食べものゝ関係で腹具合が善くない。おじやを喰べる。ひけつすることは盲腸の惧れがあるが、ゆゐむ方は安心だ。アメリカヘ来た最初は、肉食のためひけつして盲腸を起す者が多いと聞いてゐる。

 昼間は部屋で一日書き残しの日記を書いてゐたが、晩九時になって、秋谷兄とー緒にミッドナイトショーを見にフォックスヘ行く。ここへは二度目だ。
 タップダンスを巧みにとり入れてあやつり人形の振りを地で行くのや、ローラ―スケートを利用した水兵ダンスなどが面白かった。映画はフアレーの戦争映画。例によって歌のコーチがあり、會衆一同が唱和した。

     (この号は此処までで終わる)