賀川豊彦の畏友・村島帰之(146)−村島「アメリカ巡礼」(1)

   「雲の柱」昭和7年12月号(第11巻第12号)への寄稿分です。

          アメリカ巡礼(1)          サンフランシスコ
                          村島帰之

    ハロイン
   十月二十日

 買物をしやうと思って、マーケット街を歩く。日本人の手になった菊の花がショーウィンドに匂ってゐる。各種の品物は弗としては安くても日本金に換算して考へると、とても高いので、容易に手が出ない。

唯拾銭ストアだけは、しみじみ安いと思ふ。靴下でも、首飾でも、石鹸でも、皿でも、玩具でも、何でも拾銭であるのだから素敵だ。唯うっかりすると、日本の製品を買ふ事があるので注意を要する。

 恰度、今はㇵロインの前で、ハロイン用の怪奇な紙製品やカード類が均一店の店頭をトキ色に染めてゐる。

 ハロインといふのはクリスマスに先行するアメリカにおける年中行事の一つで、ローマから渡来したものだといはれる。ハローは聖者の意で、各地に散在してゐる聖者の魂が、十月三十日の夜には戻って来るといふ言ひ伝えから、この夜は宵のうちから打ちつどうて一夜をあかすのである。そして會衆は各人思ひ思ひの怪奇な冠物やマスクをかぶり、電灯にも、トキ色の怪奇な絵模様の袋をかぶせて、百パーセント怪奇な空気を醸し出さうといふのだ。

 日本なら、さしづめお盆といふところだ。拾銭店の店頭に並べられたハロイン用の品々を買求める。当夜のパーティーに招くカードにも、黒猫や歎きの猫や、梟や、かぼちゃのお化けが描かれてあった。
 結局、ハロインのカードなどを買ったゞけで手ぶらで帰る。

 夜は秋谷氏から三流ホテルと賣笑の関係などについて話を聞く。ホテルの宿帳を披いて見ると、新渡戸稲造、牛島謹爾などの名が見え、私の知友では新妻莞爾、北尾鐐之助、腰本壽氏等の名が見える。また水谷八重子や東花枝の名もあった。
 東花枝は新劇勃興時代の女優の一人。私も會って知ってゐるのだが、秋谷氏の令妹に聞くと桑港へ来てからは男のために苦労をしつづけて死ぬ前頃は、殊に気の毒な有様だったといふ。

   二十一日
 正午、今井さん来訪、前日、出来なかった買物の案内をして頂く。桑港一のホワイト・ㇵウスヘ行く。こゝは高價だが品物が上等で、しかも善く品種が揃ってゐる。
 地階は主として婦人の衣類だが、今井さんの説明で大分學問をする。去ってメーシーヘ行く。ここは少し柄が落ちる。

 食事をしてから、私がロサンゼルスから携えて来た植松氏寄附の「ロサンゼルスにおける賀川先生」の映画を寫して今井さんにお見せする。再度東部を傅道中だった賀川先生が明日帰桑の電報来る。

    貿川先生の帰桑
   二十二日

 朝七時半起床。珍しく雨降りだ。早速雨具を着てフェーリーヘ賀川先生を出迎えに行く。ラッシュアワーとて、サラリーマンが列を作って下りて来る。半数以上は女だ。

 アメリカは女の威張る國でもあるが、また同時に女の働く國でもある。経済的に独立性があるだけに、威張るのであらう。最初、アメリカが女を威張らせたのは、植民地における両性の需給関係から来たのだが、今ではこれが両性の経済的関係に変わって来たともいへぬ事はあるまい。

 定刻、先生が小川先生と一緒に降りて来られた。半月振りの對面だ。
 「どうでした。イースㇳは」
 「素晴らしい盛會でしたよ、殊にトロントでは總理大臣まで来ました。」
と大元気だ。
 「からだの具合は如何です」
 「大丈夫です」

 いよいよ安心だ。出迎の幸田、玉置両氏とー緒に、日本人教會へ行って、そこから正金銀行へ出かける。私は船賃のため五百圓也を信用状から取出す。
 五百圓は二百四十五弗にしかならない。先生が行員の某氏と話してゐる間、私は白人の守衛さんとブロークンで話す。
 「日本人は勇敢で、しかも謙遜だ」
とほめる。

 次で郵船へ行く。先生は桑港からダラー汽船のリンコルン号で布畦に向ひ、一週間講演して後、浅間丸で帰朝されるのだが、途中で船を替へるため、直行の場合に比し約九十弗ほど余分に要るので、私はその金を節約するため、先生より桑港発を一船を遅らせ、最初から浅間丸に乗込む事に決めた。今井さんもそのやうにする事となった。

 浅間丸桑港横濱間二等賃金百九十弗也を支彿ふ。
 中瀬支店長の紹介で、浅間丸の船長と面会する。

     (つづく)