賀川豊彦の畏友・村島帰之(145)−村島「アメリカ巡礼」(3)

  「雲の柱」昭和7年11月号(第11巻第11号)への寄稿分です。

        アメリカ巡礼(3)
        香港近郊
                         村島帰之

    (前承)
    フェーリーに乗る
 正午、バークレーから今井よね子さんが訪れて来て下さる。そして、これからオークランドおよびバークレーを案内してやらうといはれる。渡りに船と早速出かける。

 まづマーケット街の端にあるフェーリーへ行く。フェーリーとはいふまでもなく渡船だが、この渡船は船頭が櫓を漕ぐ式の渡船ではなく、たとえば関門の渡船のやうな、千頓級の船が乗客は愚か、汽車や自動車をも渡してくれるのだ。

 毎一週間に、ここをこの渡しで桑港湾を渡って行く客だけでも、百萬人以上からにのぼるといふのだから剛儀だ。正に世界一の大フェーリーである。こゝにはサウザンパシフィック、キーシステム、サンタフィー、ウェスタンパシフィック、ノースウェスタンパシフィックの各鉄道が連絡してゐて、東部から来る客、東部へ行く客は皆こゝを通るのだ。

 フェーリーステーンヨンの建物は桑港の代表建築の一つで、一八九六年工費百萬圓を 費して建てたもの、長さ六五九フィート、幅一五六フィートの大建築だ。中央に高く聳えた時計台はニェーヨークの自由の女神のやうに海路桑港を訪れて来る者が、第一の目標とするところである。

 フェーリーはオークランドヘ行くキー・システムとサウザンパジフィックの二競争線を始めとして、アラメダに行くもの、サウサリトヘ行くものおよび自動車用のものなどに分かれてゐて、殆ど間断なしに動いてゐる。

 私たちはオークランドへ行くフェーリーに乗る。舟の入り口に Save time eat on the boat ! とあって、船中の時間を利用して食事が出来るやうになってゐる。

   サンフランシスコ湾
 船は直ぐ動き出した。
 白い大きな鷗が船と平行して飛ぶ。乗客が喰べあましのパンなどを放ってやるのを知ってゐるからだ。時には欄干の上に翼を休めて、「誰かくれさうなものだ」といふやうな表情で人の顔を見まわす。

 湾内の中央にある孤島ヤーバ、ゲエナ島は米海軍の海兵養成地だ。碇泊してゐる船の内、白いのは軍艦といふ事は判ってゐるが、船体全部を朱色に塗ったのは何かと訊いて見ると、救命船だとの事。

 ここは一八三五年頃、ハワイから野羊を移殖した人があって、一八五〇年頃には千頭以上もゐれたといふ。それに因んで、この一名ゴート島とも呼ばれてゐるが、将来桑港とオークランドの間に一大鉄橋が架設される場合には、この島が中継になる筈である。

 エタバ、バーナ島の背後に、怪奇な巌のやうな島が遠望される。それはアルカトラ島(ぺリカン島の意音ベリカン鳥が棲んでゐたのだ)といって、米陸軍の監獄だ。島の周園は急流で、曾てここを泳いで逃げ終せた者は一人もなかったといはれ、兵士たちからは、「巌」と呼ばれて怖しがられてゐるところだといふ。

 またエルパ、バーナ島の東北方、遥か彼方に見えるのは、わが國民の間にも有名な検疫所のあるエンゼル島だ。今日まで上陸を阻まれ此處に抑留されて、眼前にアメリカ大陸を見ながら、空しく帰還を命ぜられた同胞の数の如何に多かった事よ。

    オークランド

 私たちは約十五分間でオークランドのフェリーシテーションに着く。ここはオークランドの市街から約四哩を離れた海中で、市街との間を専用の桟橋によって電車が連絡してゐゐのだ。

 電車は私たちをのせて天の橋立のやうに海中に突出た桟橋の上を走る。
 フェーリーの賃金は、電車賃と合せて貳拾壹銭也を、この車中で徴収した。
 四哩の桟橋もノーストップで走って直ぐオークランドブロードウェー着。名はニューヨークやシカゴのそれと同じブロードウェーだが、寂しい街だ。トリビューンと呼ばれる新聞社のビルディングが高く屹立してゐる。

 オークランドは人口三十二萬の都市だ。最初は寂しい部落だったが、一八四九年のゴールドラッシュ以後、漸次大きくなって、水運の便利なのを幸ひ、海岸一帯が工場都市として発達するやうになり、桑港の急激か膨脹から、此処が桑港に勤めるサラリーマンの住宅地となった。それは恰度、ニューヨークの膨脹による、對岸のニュージャージーの発達と同じ式だ。私たちは朝夕、ここと桑港との間を、フェーリーによって往来する多くのサラリーマンの群を見ることが出来る。
 彼等の住宅は南加で見るやうなスパニッシュ式が多い。
                   
    佳人の奇遇のメリット湖
 私たちは約十ブロックほど歩いてメリタト畔に出た。不忍池を偲ばせるやうな楕円形の湖水だ。池の東北方は小高い丘になってゐて、そこには一面、美しい館が樹の緑の間に点綴してゐる、いはずと知れた富豪たちの住宅である。

 その中にもこんもりと茂った森のあるのは、ミルスカレッジとそれに隣接する天文台である――と今井さんが説明してくれる。南方には、市のオーデトリアムが池畔に臨んで立ってゐる。ここは一萬三千人の聴衆を容れ得る由。
          
 かうしたものの中に囲まれた湖はあくまで澄んでゐて、美しい周囲の映像を宿してゐる。この湖畔は、明治文学で名高い「佳人の奇遇」のその佳人が奇遇する場所だ。訳者柴四郎氏も曾ては此処に遊んだ事もあるに違ひない。
 全く佳人の会合には相応しい場所である。私たちは暫くそこの芝生に腰をおろして展望した。
 小憩後、電車でバークレーに向ふ。バークレーオークランドは隣接してゐるので、どこからがバークレーか判らずに来て了った。

     バークレー
 バークレーは人口八万の小都市だが、カリフォルニア大学があるので大学都市として有名だ。
 まず最初に太平洋神学校に向ふ。美しい石造建物だ。ここはカレーヂを出た人が学ぶところで、生徒は八十人程しかないが、先生は二十人もゐるさうだ。今井さんも曾て此処にいた事がある。賀川先生は過日此処で講演をせられたことは、さきに記した処だ。

 学校は丘の上に建てられてゐるので、その端に立つと、バークレーオークランドの市街が一望の裡だ。桑港の街も、桑港湾を距てて見えるさうだが、けふは曇ってゐてハッキリしない。

    加州大學

 去って加州大學へ行く。構内は五三〇エーカーの廣さで、到るところにオークの並木やユーカリの樹の森が点綴し、一大公園を形ち作ってゐる。校舎はところどころのその緑蔭に建てられてゐるのだ。

 大學の中心をなすものは高さ三〇二フィートの時計塔だ。この工費二十萬弗。その上のチヤム――十二のベルから成る――二萬五千弗といふ費用を投じたといふ。この時計塔一つの費用があったら、日本なら、大學の一つ位は建つのに――。

 塔の下の方に圖書館がある。優に大阪府立図書館位はある。中へ這入ると、右側がモリンン記念文庫、左は臨時開覧室。二階へ行くと、一般大學生と大學院學生の閲覧室が別々に作られてゐる。

 學生たちは或はAMとか、DBとか、或はその上のPHDを取らうとして一所懸命だ。日本の學生か就職難で困ってゐるのとは少し趣きが違ふ。
 金のある國の學生は物質慾よりも名誉慾に傾くのかも知れない。どちらにしても學問そのものが目的といふより、手段なんだから情けない。

 今井さんは、いろいろと、この学位論文に伴ふ悲喜劇を聞かせてくれた。
 或る青年は同期卒業の婦人と結婚し、夫婦して論文を書いたが、婦人の方は見事にパスして学位を得、児童心理か何かの学者として天晴地位を獲得したが、一方、良人の方はいくらやっても論文が通らない。そのために博士なる夫人は良人に對し、あなたが博士になるまで別れる――と宣言した。良人學士はその後も一所懸命にやってゐるがなほ學位が得られず、そのために復縁も叶はずにゐるといふ。

 この話を聞いて、私はバニティーとプライドの権化ともいふべきアメリカの有識夫人がいよいよ嫌ひになった。私は男性として日本に生れ合せたことを心から感謝するものだ。

 更に丘の上の方へ廻って、グリーキシアターを見る。これは昔のギリシヤのエピドーラスの劇場を倣したもので一萬のコンクリートのシートが作られてある。舞台は弧形をなした無蓋のもので、背後は鬱蒼たる木立だ。嘗ては此處でクライスラーが弦を握り、ホフマソ、シューマン、ハイレが立ったといふ。大學の卒業式なども此処で行はれるとか。

 夏は毎日曜午後、此處で音楽があるが、夜になると、殊に月明の夜など、多くの學生か、異性の級友などと連れ立って月見に来るといふ。アメリカの学生は最も善く学生生活を享楽してゐるものといへやう。

 倶楽部もある。勿論、各種の運動設備もある。殊にスタジアムは百二十五萬弗(邦貨貳百五拾萬圓、驚くじゃないか)を投じて建てたもので七万五千のシートがあるさうだ。金のない日本の大學よ。以て如何となす。

 突然、タワ―のチヤムが鳴り出した。六時だ。夕日が塔の背後からあかあかと照って、塔の影をながながと地上に落す。
 大学生が三々五々帰って行く。男學生は多くは上衣を着ない。帽子のないものが多い。或者は赤ン坊のやうな帽子を申し訳に頭の尖端にのせてゐる。女學生も粗末な服装だ。ストッキングをはいてゐない者さへある。

 日本でいへば一高式だ。わざとしてゐるのでさへなければ、善い事に違ひない。
 幾冊かの書物を、その儘抱えて行くのも面白い。日本の風呂敷は便利だなァと思ふ。
 男女大學生が仲よく並んで行く。日本がさうなるのも遠くはあるまい。

 大學の正門から出る。タクシーを傭はうとするが見つからない。田舎の人は大概ミシンを持ってゐるからだ。ニューヨークなどではガレージの費用だけでも大したものだから、なかなか私用ミシンは持てないんだけれど。

 帰途、山田さんに敬意を表した後、夕飯を共にして、今井さんとお別れする。
 キーシステムの電車に乗ると、フェーリーに連絡して、そのまゝ桑港へ運んでくれた。 フェーリーも夜はさすがに客もまばらだ。

 小川ホテルに帰ったが、その儘寝るのも惜しいので、カビタルヘパーレスクーを見に行く。例により、ジョークと裸踊と唄のカクテルだ。ニューヨークのやうな跳発的なところはない。勿論、裸形の女の素肌を御覧に入れるための花道などもない。また裸の女に対するアンコールの拍手もニューヨークのやうに激しくはない。桑港は応揚な舊家の風がある。

      (この号はこれでおしまい)