賀川豊彦の畏友・村島帰之(117)−村島「アメリカ巡礼」(2)

  「雲の柱」昭和7年4月号(第11巻第4号)への寄稿の続きです。

          アメリカ巡礼(2)
           太平洋沿岸
                         村島帰之

    (承前)
    桑 港
 オークランドからフェリーに乗替る。隣りの白人の娘二人も乗替だ。私は彼女たちの好意に酬いるために、紙でカブトを折って与へた。彼女はうれしさうに、それを手にした儘、どこかへ行って了った。

 フェーリーは関門連絡船を少し大きくしたやうなものだった。
 船が進むにつれて、桑港のスカイラインが、まるで蜃気楼のやうに見え出した。日が既に西の方へ傾きかけてゐるので、街はただ一色に薄紫で彩れてゐるのみだ。

 桑港とオークランドとの間には近く大きな橋がかゝるといふ。
 約十五分でフェリーステーションに着。駅に秋谷一郎兄が出迎へに来てくれてゐたのはうれしかった。

    小川ホテルに入る
 早速、秋谷兄の案内で、同兄と父君が経営して居るカリフォルニア街の小川ホテル(桑港の日本人ホテルの首位を占める)に行く。小じんまりした日本式のホテルだ。早速、風呂に這入って五日間の垢を落す。

 夕飯は秋谷兄からすき焼の御馳走になる。お客は今井さん、今井さんを訪れて見えた山田さん及び私の四人。

 秋谷兄は開西學院文科の出身。私とは学生時代からの知己で、学校を中心にして話がはづむ。

 山田さんはバークレーで善く邦友學生のお世話をされる方で、今井さんもそのお世話になった一人だ。そして、山田さんは久しい以前からの「雲の柱」の読者で、殊に、特筆して置きたいことは、神戸イエス團の夏季學校に毎年百弗以上の金を集めて送ってくれらるることだ。今年も百弗を送って下さったといふ。

    賀川先生と合流
 六時からレフォーム教會に開れる賀川先生の講演會へ行く。
 桑港は坂が多い。ホテルから會場までに私たちのミシンは二つ丘を越えた。

 十何日振りかで賀川・小川両先生と手を握る。なつかしさで一杯だ。
 「どうでした。たっしやでしたか。心配してゐましたよ」
と小川先生が私の肩に手をかけ乍ら泌々と聞いて下さる。私は久し振りで兄貴に會ったやうな気持が湧くのだった。

 先生は、けふはこれで六回目の講演だといふ。さすがに疲れられてゐる様子だ。
講演後、例によってサイン攻めに、先生の目は真っ赤に充血してゐるのを見た。
私は先生の健康を祈らずにはゐられなかった。

    沖野岩三郎氏との奇遇
  七 日
 疲れてゐたのでグッスリと寝たが、汽車中の習慣が私を早起きさせた。
賀川・小川両先生は秦牧師の宅で泊られたが、私だけはカリフォルニア街の「小川ホテル」で桑港における第一夜を送ったのだ。

 ホテルの食堂で秋谷兄と一緒に朝飯をとる。食堂には富士山を書いたふすまがはまってゐる欄間もある。私は全く日本へ帰ったやうな気安い心持になった。

 正午、支那入街の「昭和桜」で開かれた賀川先生、沖野先生送別會に出る。
 私はたへて久しい沖野先生の隣りに腰を下した。沖野先生は日本一の座談家だけに、面白い話がつづく。先生が桑港で黒ン坊の女から「カムオンパヽ」と呼ばれた話など。

 先生はそこからまた自動車で説教に行かれる。小川先生は書類の整理のため、私は休養のためお伴しないので、先生独りで行かれる。

 秦さんの教会を一寸覗いて小川ホテルに帰り、小川先生及びシャトルで別れた切りの成瀬さんと三人、ホテルの食堂で夕餐を共にする。

     (つづく)