賀川豊彦の畏友・村島帰之(115)−村島「アメリカ巡礼」(8)
「雲の柱」昭和7年3月号(第11巻第3号)への寄稿、最終回です。
アメリカ巡礼(8)
村島帰之
(承前)
バーレスキュー見物
夜は大原夫妻の案内で、アポロヘ「バーレスキュー」を見に行く。さすが、エロを賣り物にする見世物だけに、女子は稀れで、男も老人の多いのが目に立つ。かぶりつきの辺に禿頭の多いのを見て「特等席かい」と酒落る。
「特等ではないが、あすこにゐると、ダンサーが禿頭にキッスしてくれるので、キッスをして貰ひたさに、あそこへ頑張ってゐるんだよ」
と大原兄が説明してくれる。
ニワカのやうなヂョークが幾番か演ぜられる。ズロースが飛出したり、スカートの下へ鏡を置いて見たり。サックを出したり、いやはや。
そしてそのジョークの合間々々には、女が出て来て、音楽に合せて、一枚々々着衣をぬいで行く。それも、立てつづけにぬがずに、乳当てをとっては下手へ引込んで、また現れて、スカーㇳをとり、差しさうに引込んで、また現れ、最後には一点を除いた真裸になる。
それを見て、ヤンヤといふ拍手喝釆だ。
女の裸体を見慣れてゐるアメリカの人たちにとっては、真裸体よりも、むしろ着衣形から裸形へ移って行くその課程にエロチックな興奮を感じるのであらう。
大原兄の御馳走になって帰る。
レパブリツクヘ
三十日
ベッドに南京蟲がゐるのにはすっかり弱らせられた。世界一の大都市へ来て南京蟲に悩まされやうとは、お釈迦さまでも御存知なからう。サブの中などには沢山ゐるさうだ。
いよいよニューヨークを立つ日も明日となったので荷物をまとめる。大部分はトランクへ詰めて桑港へ直送するつもりだ。
トランクといへば百貨店から屈けて来たのを、前夜に預った階下の番人は今朝、私の部屋へ届けて来たので今井さんが拾五銭やると「コンナ安いサービスをした事がない」といってつぶやいて行ったさうだ。
夕方から、ひとりで寄席へ行く。六アベニューのジークヒールドヘ行って見たが、マチネーで夜は休演だ。やむなくタイムスケアーまで歩いて行って、レパブリックといふのへ這入る。
前夜のアホロと同じやうに花道があって、裸体の女が、わざわざ肉体を見せに踊り乍らやって来る。白人たちは、下等な好色感を起こすのだらうが、東洋人はその女たちのキメ荒い肌を見せられて、むしろ、嘔吐を催すほどだ。
ジョークも下等なもの揃ひだ。どういふものか、新婚の夫婦を主題としたものが多い。そして、露骨に、第一夜のべッ卜物景を見せたりする。
便器だの、サックだの、バナヽだのと下品な小道具がふんだんに使はれる。ダンスの尻振りも顔敗けだ。
ニューヨーク出発
三十一日
書籍を四つ小包にして内地へ送る。少くとも一弗以上取られると思ったら、四十五仙ですんだ。午前中に武藤さんの嬢ちゃん恭子ちゃん(三つ)と遊んでくらした。日本に残した真理子を思ひ出しながら――。
いざニューヨークを去るとなると、名残り惜しい。近所に住む黒人の顔もなつかしく見る。六時、タクシーを呼んでいよいよ出かけるといふ時、インタナショナルハウスに泊ってゐる佐藤菊重さんから今井さんへ電話だ。到頭會はずに立つ。
グランドセントラルステーションには大原夫妻と松本さんと高田さんと、それに大原夫人の友人の方が見送りに来てゐて下さる。
シカゴヘの電報は大原兄がタイプライターを取出して打ってくれる。松本さんは晩飯は未だだらうからといって「芳の家」の壽し弁当を贈られた。
私はニューヨークを思ひ出す毎に、これ等の親切な人たちを思ひ出す事だらう。
車中で喰ったすしのうまさ。われ等が壽しの美味に舌鼓を打ってゐる間に、汽車は次第にニューヨークの街を離れて行った。
三度シカゴヘ
九月一日
今井さんと協議して、なるべく経済的な汽車に乗ったので、汽車は小駅をも一つ一つ寄って行く。ニューヨーク、シカゴ間で九弗の特急料金(エキストラフェアー)を支払った汽車に比し五時間位は遅いのだが、已むを得ない。尤も寝台はあるが。
眼をさましたのが十時、十一時に朝昼兼用の食事をとる。午後は少し眼る。
夕方、五分停車の駅でサンドウィッチと牛乳を買って、それで晩餐に替へる。汽車の食堂はどんなにしても一食一弗からI弗半はとられるので萬事節約だ。また大多数の客は私たちと同じやうにしてゐるらしい。
八時、シカゴ駅着。今井さんはYWCAへ、私はYMCAへ。
湯に這入って、ぐっすりと寝ることにする。南京虫もゐないから安心して。
二日
YMCAはニューヨークの宿よりも居心地がよいので、十時過ぎまで眠った。朝兼昼飯を近所のカフェーで喰べて、それからは手紙を書いたり、原稿を書き出したりする。そこへ今井さん来訪。頼んでおいた本をシカゴ大學で買って来て下さる。
夕方から一緒に御飯をたべに出る。恰度ラッシュアワーに出會したが、オフィスガールが列を作ってステーションへ繰込む様は物凄い。
盛り湯を歩いたが、余り見たいショーもないので、別れ別れに宿へ帰る。
ハロハウス
三日
午後一時今井さん来訪。シカゴ大學の加藤さんにつれられて、ハロハウスヘ行く。
ハロハウスヘはマグドナルドも来た事があると今井さんが説明してくれる。
建物は最初のに幾度か建増ししたといふが、どっちかといふと貴族的な感じだ。
中へ這入ると「ハロハウス、ㇵズノーガイド」といふ。見せてくれぬのかと思ふと、さにあらで、十四歳になる女の児が各部屋を見せてくれた。つまり、見世物のやうに思はれたくない理事者の心なのだらう。が、少しキザに聞えたのは此方のヒガミだらうか。
時代のついた皿や寫真がデカデカと並んでゐる。何から見ても社會事業の元老で、新鮮昧がないやうな気がする。劇場は立派なもの。こゝもまた宗教教育は一切してゐない。
雨に降られて帰る。私は雨男だと泌々思ふ。しかし、そのおかげで涼しくもあったのだ。
六時から島津岬氏宅で御馳走になる。これで四度目だ。すまなく思ふ。
けふは天ぷらの御馳走だ。おすましもうまかった。
YMCAで講演
八時、私の講演がYMCAで始まる。私は島津さんの作った「ドン底生活」といふ演題に適応するやうに、カフェー、性業者、犯罪、といった風な順序で日本の社会事情を話した。
近く関西學院へ来て教職をとるといふ人などに會ふ。
柳田さんからは米國政府の出版目録を貰ふ。
十一時、タキシーで、大陸横断二千哩の旅に上るべきノーザン・パシフィックのステーションヘ行って、桑港行の汽車に乗る。
シカゴよ、さやうなら。
(この号はここで終わり)