賀川豊彦の畏友・村島帰之(105)−村島「アメリカ紀行」(2)

   『雲の柱』昭和7年2月号(第11巻第2号)への寄稿の続きです。


           アメリカ紀行(2)                           村島帰之
  (前承)
   ハドソン河の底をくぐる

 「芳の家」を出て、ついでにハドソンの地下道を通ってニューヂャージーを案内してやらうとあって、まづハドソン河の方へ出る。

 ホーランド・ベヒキュラー・トンネルといって、ハドソン河の底にトンネルを作って在って、自動車はそこを快速力で通り抜けることが出来るのだ。

 通行税を五十仙払って、自動車は六十五フイートの間隔を保って走る。
 トンネルはワンウェーなので、衝突の怖れはないから飛ばす事飛ばすこと。トラックは右側を遠慮深さうに走ってゐる。両側は歩道のやうになってゐて、何哩毎かに警官の立ってゐるのが見える。何の事はない。鉄管の中を突っばしってゐるのだ。走ること何哩かで、陽の下へ出る。そこがニューヨークの對岸、ニェージャージーの街だ。

    ニュージャージー

 一つ川を隔てただけだが、建物もさう建てつんではゐないで、郊外気分だ。
 「ここからニューヨークへ通ったらいゝになア」
と、田舎漢がいふと、
 「でも、君、通行税を毎日一弗づつ支彿ってゐちゃ耐るまい。それに、時間が大変だ」
 と大原兄が説明してくれる。なるほどと感心する。

 大原兄は、眺望のいいところを求めて、あちこちと自動車を走らせてくれる。で、時にはニューヨークとは全く反対の方向へ行くので、
「ここを行くとカリフォルニヤへ出てしまやしないか」
とヂョークを飛ばす。

 やがて川岸へ出た。戦役記念碑のある處で降り立つと、ニューヨークの魔天楼が衝立のやうに見える。遥か下流の方には、世界一のエンパイア・ステート・ビルヂングが小人の交った大人のやうに首を出してゐる。

 ビルヂングは主として赤だ。でなければ黄だ。四角な窓が、辨天縞のやうに見える。
 折柄、雨。
 ニューヨークが煙って見える。まるでキネオラマだ。そこには人が住んでゐるとも思へないやうに静かに立ってゐる。コンクリートの衝立は延々として川に臨んで立て連ねられて、殆どはてしがない。

 二十世紀の萬里の長城だ。これでは外敵は防げずとも、風は十分に遮ってくれるに違ひない。炎熱灼くが如きニューヨークの夏も故あるかなだ。

 雨が大降りになりかけて来た。急いで車内へ這入る。
 ニュージャージーの街はバンクーバーの上町を思はせるやうな美しい街だ。立木も多くて、街路樹が雨にぬれてゐる。葉が低く下ってゐるので、自動車が行くと葉にすれてしぶきが飛ぶ。

 私たちは並木道で小二十分ほどを止めて休息する。雨は降ってゐても、車内は雨に洗れた景色を観賞するに都合がいゝだけで、ぬれる気遣ひもない。

 暫くして、砂糖工場のあるところへ行くと、下水道の鉄管に故障を生じたらしく、道路一面に水の氾濫だ。私たちはその水の中をつき切って走る。

 夕方になって、帰途につく。此の度はトンネルに依らずにフェーリー(渡船)に拠る。渡船といっても、関門連絡船のやうに自動車がそのまゝ乗る大渡船だ。

 渡賃を五十仙払ふと、自動車はそのまゝ船へすべるやうにして乗込んだ。人間は両側のべンチに腰かけた儘渡して貰ふ。尤も、自動車上の人間は、自動車内に残ったままだ。

 やがてフェリーは動き出した。向ふからもフェリーが来て行き違ふ。そして間もなく、ニューヨークの岸へついて、自動車は直ぐその儘地上へ走り上る。

 ニューヨークは雨の中に夜となってゐた。フェリーから程遠からぬところのチャプスイに這入って、再び大原兄の饗応を受ける。そして宿まで自動車で送り届けて貰ふ。

 九時過ぎ、寝やうと思ってゐると、大原夫人が見えて、ユニオンシャーツを三枚持って来てくださる。日本から持って来たシャツや猿股では、洗濯へもやれまいとの心遣りからである。有難くこの差入れを頂く。

      (つづく)