賀川豊彦の畏友・村島帰之(104)−村島「アメリカ紀行」(1)

   『雲の柱』昭和7年2月号(第11巻第2号)への寄稿分です。


           アメリカ紀行(1)
                           村島帰之

   ワナメーカー

  八月十九日

 朝八時半、汽車はニューヨークのグランドセントラルステーションに着いた。今井さんが出迎へに来てくれられる。
 附近のカフェーテリアで簡単な朝飯をとる。カンタローブが何よりもおいしい。

 前回に世話になったと同じモーニングサイドアベニューの今井さんのアパートヘ行く。そして前回と同じ、公園に面した二部屋を借りる事にきめる。

 そこへ電話だ。大原武夫兄(大毎紐育特派員)から、
 「多分今日あたり帰ったらうと思って掛けた。これから訪れる」と、親切な電話だ。持つべきは友だと思ふ。

 やがて大原兄は奥さん(奥さんとも、私は古いお馴染だ)同道で、大原兄自らフォードの新式のをドライブして来訪。何よりも、まづドロドロによごれた洋服(私は日本出発以来、一着の洋服で通して来たのだ)を着替へる必要があるとあって、レデー・メードを買ひに、ワナメーカーヘ自動車を走らせてくれることとなった。

 大原兄のドライブ振りは熱心そのものだ。私は兄と並んでフロント坐を占めてゐたが、途中で兄に話かけて叱られたほどたっだ。

 ワナメーカーは日本に最も善く知られた百貨店だが、今ではマーシー百貨店の方に押されて客も少い。
 レデーメードの洋服(といふのも可笑しいが)を着て見ると、不思議にキチンと合ふ。
 「君のからだはレデーメード向きだね。日本人は、なかなかレデーメードでは合はぬものだが」
と、妙なところへ大原兄が感心して了ふ。

 しかし、キチンと合ふ三十四のサイズのものには沢山の既製品はあっても、青黒い日本人に向く適当な色のがないので、大原夫妻と今井さんと三人の共同見立によって、霜降りのもので、少しサイズの大きいのを直して貰ふことになる。仕立職人に寸法をとらせる。出来上りは明後日の昼だ。値は三十九弗五十仙。

 洋服は兎に角、新調される事になったが、私の頭髪はこれまた日本出発以来、一度も刈った事がなく、唯一度、耳のあたりを小川清澄さんに鋏でつんで貰っただけなので河童のやうだ。

 それを見た大原夫人が、
 「ついでにここで散髪をしてゐらっしゃい」
 と注意される。

 実は私も散髪しやうとは思ってゐたのだが、クリーブランドで、大阪YMCAの某君が散髪に行くと、見る見る内に頂上をわづか許り残して全部坊主のやうに刈って了って「オヤオヤ」と思った時には既に遅く、あたら色男がYMCA大會へ来て入道にされて了った――といふ事実を見てゐるので、私も坊主にされては――と尻込みしてゐる次第であった。

 大原兄に聞けば、頂点だけを残して裾一面を坊主のやうに刈るのはスボーツマン型だといふ。
 「では僕が君を坊主にせぬやう散髪屋にさういって上げるから」
と大原兄がいってくれるので、恐るおそる理髪屋へ這入る。大原兄は理髪師に「余り短く刈らぬやう」と注意をしてくれてゐた。

 なるほど、毛の端を僅か許り鋏でつんでくれただけで坊主にはならずにすんだ。大原兄の注意で、職人に二十五仙チップをやる。

 いよいよ頭も顔もすんで、散髪代の傅票を見ると十弗とあるてはないか、大原兄も私も屹驚仰天した。が、よく質して見ると、ケタ違ひで一弗の間違と判り、漸く安心して、帳場に一弗を払って出る。
 「これで洋服が出来たらゼントルマンだね」
 と、外で待ってゐてくれたみんなが冷かす。

   日本料理を喰べに
 そこで――つまりゼントルマンのなり掛けといふところで、大原夫妻が私と今井さんに日本食を御馳走してやらうとあって「芳の家」といふのへ行く。日本人の経営で、何でもあるといふのだ。

 西洋人も来てゐる。彼等は「スキヤキ」を喰べに来るのだ(マグロの剰身は、よほどの通でないと食べないさうだ)。
 私たちは、寿司、まぐろの刺身、そばなどを御馳走になる。実にうまい。日本でもこれほどおいしく喰べた事は嘗てない。醤油の昧もなつかしい。

 窓から見てゐると、石炭屋のトラックが、鋪道にある穴から石炭を入れてゐる。一々台所へ運び入れる面倒がなくて便利なものだ。唯トラックの圖体が大きくて、兎もすれば往来の自動車の邪魔になるので、パ―キングしてある他の自動車を押しのけやうとするが、錠がかかってゐるから動かない。
 大原兄のカーは、前のガラスがあいてあったので、そこから手を入れて車を動かして、漸く目的を達したやうだった。

     (つづく)