賀川豊彦の畏友・村島帰之(103)−村島「アメリカ紀行」(8)

 「雲の柱」昭和7年1月号(第11巻第1号)への寄稿の最後です。


          アメリカ紀行(8)     
                            村島帰之

  (承前)
   十八日
 小川先生の元気の善い大砲のやうな声に眼をさます。

 午後二時半から先生の「日本における神の國運動」の講演かある。
 資本主義は個人主義だから駄目だ。協同組合で行かねばならぬとの主張を力強く叫ばれた。終わって先生は牧師達のティーパーテーヘ行かれる。

 チヤタカに涼しくて善い處だが、モウ出発しなければならない。殊に今夜の出発は、渡米以来、殆ど一日以上別になった事のない賀川先生と別れて、私ひとりは東へ向ふのだ。何だか、自分が旅をしてゐるといふよりか、他力で引っぱり廻されてゐるやうな感じだ。トウマル龍にのせられて五十三次を護送されて行く囚人のやうだ、とも思ふ。

 夕飯後、音楽會が開かれる。私は今晩の出立が気になって落ついて音楽を聞く気になれない。小川先生は「ナアニ未だ早い、未だ未だ」といってゐる。

 小川先生がホテルの男に訊かれた處では、九時二十分ウェストサイド発の汽車にのれば善いといふのだが、何だか心元ない気がする。

 八時四十分、漸く白動車が来たので、暗い田舎道を走って、ウェストサイドに着いたのが九時十分、駅員に聞くと、ニューヨーク行は八時五十分とやらで、今のさっき出た處だといふ。私の予感が当たったのだった。

 私は途中の自動車の中でも何だか心配で、賀川先生が「何をそんなに沈んでるのです」と訊かれたので、「何だか汽車に遅れる気がしてならぬのです」と答へたほどだった。

 そこヘバファロ行の汽車が来た。私はそれに乗って乗り換へるのだといふ。太狼狽にあわて、私は先生たちへの挨拶もそこそこに飛乗った。

 一人旅はアメリカヘ着いて以来最初の経験だ。殊に、予定の時間とは違ふ時間の汽車に飛のったのだから、不安は一層甚しい。切符を改めに来た車掌に「バファロヘは何時につくのか」と訊いたのだが、「萬事呑込んでゐる」といった風を見せるだけで、ハッキリ答へてくれない。

 小駅についた。「バフアロか」と訊く。「ノー」といふので一安心。そして「ネキスト?」と訊いて見ると「イエス」といふ。十一時過ぎバフアロでミルウオーキー線に乗替へる。

 プルマンカーの寝台も上しかない。黒のボーイに五十仙を奮発して与ヘて萬事頼む。
 寝台も上と下とは大変な違ひだ。動揺がとても甚くて、身軽な私のからだは動きどうしだ。これでは眠れさうもないと思ったので、デアールを一服呑む。
 眼がさめたらニューヨークヘ着いてゐる筈だ。

    (この号はここで終わる)