賀川豊彦の畏友・村島帰之(102)−村島「あめりか紀行」(7)

「雲の柱」昭和7年1月号(第11巻第1号)への寄稿の続きです。


          アメリカ紀行(7)     
                            村島帰之

  (承前)
   十六日

 朝七時、三人で食事をする。両先生は名説教家モルガンの説教を聞きに行かれたが、私は睡眠不足を取りかへすために眠る。

 昼食は両先生が帰って来ないので私独りでする。そして食後談話室で手紙を書いてゐると、入代り立替り米人が話しかけに来る。自分の名を日本字で書けといふ婦人やら、歯科医専が日本にもあるかと聞く紳士やら。

 うるさいので外へ出ると、森の緑蔭で多くの人々が寝ころんだり、食べたりしてゐる。いふまでもなく男女の一組だが、半数は老人夫婦だ。美しい光景だと思った。

 午後三時から先生の「十字架の勝利」の説教。十字架を自ら背負ってゐる先生だけに力強い。石井十次氏や芸妓の信仰談などか引例される。終わると同時に出発の仕度だ。
 宿屋の各室には一冊の聖書がある。これにはGideonsと書いてあって、宿屋による傅道をするためだといふ。

 先生を崇拝し六十哩の彼方から来たといふ一牧師のカーでワルソー駅まで送られ、そこからシカゴヘ出る。
 ジカゴヘ着いたのは午後七時だったが、連絡バスで○○○へ出て、八時二十分発の汽車でチヤタカに向ふ。


    チヤタカ

  十七日

 朝ヂェームスタウン着。この附近はスエーデン人の村落ださうで、瀟洒なコッテージが緑蔭に散見する。自動車は四十五哩の速力で走って、約三十分でチヤタカについた。
 
 チヤタカは一八七九年、メソヂスト教会が日曜学校職員の修養のために夏季キャンプ村を設立して以来、同派の一般信者が避暑と修養とを兼ねて毎夏季に集るところで、コンモリ繁った森の彼方此方にはコッテーヂ風の別荘が散在してゐる。

 一方は廣々としたチヤタカ湖が展けて、美しい眺望が一眸の裡に恣にすることが出来る。湖水は巾二十哩といふから相当に廣い。ウイノア湖の比ではない。

 私たちはアテニアホテルといふのに泊る。昼飯に食堂へ出かけると、ピンク――米人の好む色だ――のユニホームを着た給仕人が、どうやら夏季労働の女學生らしいので、賀川先生が「どこの學校の生徒か」と訊くと、果たしてオハイヨのカレーヂの生徒だと答へた。そして此處に働く給仕人がすべてそれだと説明した。

 賀川先生は「僕もかうして給仕をした事があるから。チップは第一回は五拾仙、以後は貳拾五仙宛やる事にしやう」といはれる。小川先生も「最初はチップを貰ふのが、きまり悪い気がしたが、問もなくそれを期待てるやうになりましたよ」と話される。

 聞けば、エレベーターボーイも矢張りハイスクールの生徒だった。「来年はカレーヂへ入るのです」といってゐた。

 食後、三人で湖畔を散歩する。さすが宗教的集會のある場所だけに、数干の人が集ってゐるのにも拘らず少しも騒しくはない。あっちこっちの緑蔭のべンチに上品な老人が憩ふてゐる。
 「ここは要するに善男善女が集って来るアメリカの本願寺だよ。」と賀川先生の説明だ。
 湊に沿ふた小高い丘に、エルサレムの大きな模型が作られてゐる。私ちちはその一つ一つを踏査した。

 午後三時。先生はこのプレジデントからお茶によばれて行かれたが、私は例によって昼寝、小川先生はカチカチとタイプライターで忙しい。

 眼がさめるとタワーのチャイムが讃美歌をならしてゐる。ベッドに横たわり乍ら窓の青 葉を透して見える湖水を眺めつゝ、それに聞入てゐると神聖な心持の外に、やゝセンチメンタルな心持が湧いて来る。

 先生が帰られて一緒に本屋へ行く。先生はグリーブランドと同様、自著の扉にサインをさせられるのだ。

 夜八時から先生の講演が始まる。會場は大地を盆形に堀り下げてスタヂアムのやうに梯段を作ったもので優に五百は這入るといはれる。先生が演壇に現れると、會衆は一斉に立って敬意を表し、さらに先生が司会者の紹介で壇上に立つや、會衆には申合せたやうに白ハンカチを取出して打振り乍ら歓迦する。白ハンカチが、風揺らぐ白い花のやうに美しい。これがここの一つの風習なのだらう。

 先生の話は「生命法則としての愛」だ。愛についての詳しい説明が語られて會衆をうならせた。
 善い説教だった。先生も満足げである。

      (つづく)