賀川豊彦の畏友・村島帰之(85)−村島「アメリカ紀行」(5)

「雲の柱」昭和6年12月号(第10巻第12号)に寄稿の続きです。


       アメリカ紀行(5)
       カナダからアメリカに入る
       トロント――ニューヨーク――クリブランド

                            村島帰之

  (前承) 
   ニユーヨーク

  八月一日

 午前七時、ニューヨーク着。巾の狭いプラットホームが気になる。しかし日本のやうに見送人が殺倒しないからこれでいゝんだらう。
 プラットを出ると、大原武夫兄がまっ先に僕の手を握ってくれる。日本にゐる時よりも元気相な顔だ。
 「よく来たね。君はもう来ないんだらうと思ってゐたよ」
と、しみじみといふ。なつかしさと信頼とで胸が一杯だ。

 賀川先生を出迎への教会関係の人々と一緒にニューヨーク日本人教会へ行く。
 「七時着といふんだから今日は六時に起きたよ。ニューヨークヘ来てこんなに早く起きるのは初めてだ」
 「それはすまなかったね」
 「いやすまなかないよ。とても素晴しい発見をしたからなんだ。といふのは、六時過にニューヨークの市中に出て見ると、店も未だ閉ってゐるし、人通りさへ稀なんだ。そこで、ニューヨークは、すべて僕同様寝坊な人種だといふ事を発見したのさ」
 大原兄は面白さうに笑ふ。

 私たちは出迎の牧師さんたちと一緒に食事を済ませてから別れ別れになった。今井さんは自分のアパートヘ、二人の牧師は自分の教會へ。そして賀川、小川、大原、村島の四人がエルで日本財務局出張所へ行く事になった。

 エルといふのは高架鉄道の略称だ。高架の下は地面電車が走ってゐる。そしてその下はまた地下鉄道が走ってゐるのだ。五仙のニックルを改札の金人の穴に入れると、入り口が廻転して一人宛這入れるやうになってゐることは東京の地下鉄と同じだ。

 プラットへ出るとそこにある柱のことごとくに、チョコレート、ピーナッツ、チューインガムの自働販賣器が取りつけてあり、また後の方には自動計量器が置いてある。

 大きな音を立てゝエルが来た。入口に近い處には樅縞のやうな鉄製の靴ぬぐひ(?)がひいてある。日本だったら、早速、下駄をひっかけてころぶところだ。

 多くの外人−―否、自分たちを除いてはみな外人だ―−がゐる。みんな此方を見てゐるやうだ。インデアンだけはわれ等にまで遠慮してゐるやうに見える。

 概して日本に比べて婦人の多いのはどうしたものか。
 後から知った事だが、朝タのラッシュ・アワーを除いては、街頭や乗物は女の世界だ。男はオフィスや工場で働いてゐて、女は家にキーをかけて買物に出かけて来る。外出率はとても日本の女の比ではないらしい。それは御用聞きの少いのと、キー一つで外出が容易に出来る関係だらう。

 ヱルの進行につれて、スカイラインが、指数表の線のやうに引かれて行く。
 「あの高いのがエンパイアビルだよ。今年の五月に完成したので、世界一の建物さ」
 と大原君が説明してくれる。嶄然頭角を抜くといふ言葉が之程当てはまるところはあるまいと思ふ。
 しかし、その頭角を抜かれてゐるといふ小さい建物が、いづれも五十階、百階の大廈高桜なのだ。
 パノラマだ。いや、おもちゃだ。或は蟻り巣かも知れない。

 此の頃、日本のキヤンデー・ストアで賣ってゐる入れまぜ菓子の容器で正方形の穴を無数に穿ったのがあるが、スカイスクレバーは小児がその容器を無数に積重ねて遊んでゐるんだと思った。
 神さまの仕業なら、モット芸術的だらう。これは丈の低い文明人が立体的に伸び上れぬ腹癒せにする積木玩具なのだらう。

 エルを税関の前で下りて、名にし負ふブロードウェーを上る。
 高層建築は両側に聳え立って、空もわづかに長方形に区切られて見えるだけだ。
 「まるで、崖の下に歩いてゐるやうだ」と私がいへば、賀川氏は「いや、谷の底を歩いてゐるやうだ」といはれる。
 これでは通風も換気も探光も遮られて、焦然地獄を現出するのも理の当然だ。
 都会人は、白身、自殺してゐるやうなものだ。都曾は墓場だとルッソーがいったが、この高層建築はその墓碑そのものなのだらう。

 廣い歩道を、よごれた白靴で私はフワフワした気持て歩いて行く。
 「高松宮様のやうな國賓が見えると、この道を市廳まで行かれるので両側は歓迎者で一杯になるんだ」
と大原兄が説明してくれる。
 なるほど、激しい人通りだ。散歩者なんかの影は全く見えないで、用事を持った人が急ぎ足で往き會ふ許りだ。

 やがて、とあるビルディングの何階かにある財務官のオフィスの人となる。
 財務官と賀川先生の間に、独逸の金融恐慌についての對話が交される。

 ついでに、隣りの正金銀行支店へ行って、園田支店長に會見される。私はその間に正金から貳百圓の金を信用状から引出す。弗に換算して九十八弗三十仙(四九弗一五仙換)だ。

 これより先、財務官出張所の所員が、
 「村島さんといはれるのはあなたですか」
 といふ。「左様です」といふと、
 「今のさっき、木村さんといふ方から電話であなたが見えたら國米ホテルへかけてくれといふ事でした」
といふ。木村毅氏かな?

 私のニューヨークヘ来てゐるといふ事を知ってゐるさへ不思議だのに、さらに私の行先まで突止めるとは。
 私は大原兄を煩して正金支店長の卓上電話をかりて電話をかけて貰ふ。いふまでもなく交換手なしの電話器だ。局の名のかしら字、二字とその局を表はす数字を先に出して、それから番号を出すのだ。

 「ハロー」と呼出すとこえも、一寸、耳に新しい。果して木村毅氏だった。電線を傅って聞えて来る氏の太いベースの声のなつかしさよ。
 「二時半からユニオン・スケアーで共産党のデモンストレーションがあるからいらっしゃいな」と言ふ。ユニオン・スケアーは、種々の社會運動のデモの行はれる處ださうだ。

 兎に角、行く事にする。が、その前に、世界一のエンパイア・ビルヘ上って見やうといふので、三三丁目、五アベニュー、ウェストサイドヘタクシーを走らせる。
 タクシーは黄色のと、緑のとがあるがいづれも初めの四分の一哩が拾五銭、それから四分の一哩を増す毎に五仙づつ殖えて行くのだ。メーターの傍らに、車台の番号と、運転手の寫真が貼ってあるのも変ってゐる。車の表側の腹に、料金を大書してあるのは、矢張りアメリカらしい。

 やがて、エンパイアー・ステートビルへ来た。

      (つづく)