賀川豊彦の畏友・村島帰之(74)−村島「アメリカ大陸を跨ぐ」(4)

 「雲の柱」昭和6年10月号(第10巻第10号)に寄稿の続きです。


         アメリカ大陸を跨ぐ(4)
         バンクーバーからシカゴまで
                            村島帰之

    
   (前承)

   インダストリアル・スクール

 続いて程近い州立保護児童援産學校へ行く。入□に Boys, a Promiss made is a debt unpaidとある。まづ私たらの注意を惹いた。同校には二人の日本児童も収容されてゐるさうなo
 鶏を八千羽も飼ってゐるといふ話も出る。

 不良児たちが、どんな仕事を教へられてゐるのか、審かにしたかったが、既に帰船の時間も迫ったので、遺憾乍らその儘辞さねばならなかった。

 かくて、また二十哩の道を一気に走って、バングーバーに引返し、エハガキ屋へ這入って、小川先生が電報を打って居らるゝ間に、私ば愛児や兄弟に十枚のハガキを立ち乍ら書いて、ポストに入れる。

 船に帰るには少し時間があるといふので、吉岡さんの妹婿樋口さん(古屋洋行バンクーバー支店長)の宅へ行く。
 吉岡さんは彼の牧してゐるBC・州ケロナ(Kelowna)日本人教会から四百哩の道を数千丈の崖道などを突破して、夫人及俊平(八歳)道夫(六歳)の二児と共に十六時間を費して、賀川先生に会ふべくバンクーバーヘ来た話をされる。
 何とかといふメロンを更にスィートにしたやうな果物を頂く。

 七時帰船。八時、船は纜を解いてアメリカに向ふ。



     シ ヤ ト ル
 二十二日朝七時、平安丸は愈々アメリカについた。これより先き、アメリカの検疫官は移民官と一緒にバンクーパーから乗込んで、シヤトル入港に先立って検疫を開始した。
 喫煙室でまづ移民官の訊問を受ける。
 「アメ〜カには何箇月居るか」
 「四箇月」
 「どこから立つか」
 「桑港から」
 たゞそれだけだ。

    検疫
 次は検疫官の前へ出る。眼をじっと見つめて、
「よし」
ただそれだけだ。

 ところが、賀川先生は検閲官の前で引っかゝって了った。先生が十五年間の貧民窟生活 によって得られた慢性の眼疾が――それは実に先生の半生の苦闘の結晶物なのだが――検疫医の見咎めるところとなったからだ。

 サァ、事だ。私たちの胸にあやしく躍った。若しも先生が眼疾のために、此儘空しく日本へ帰らねばならぬ事になったらどうなるといふのだ。待兼ねてゐる米人邦人はどうなるといふのだ。

 小川先生は先生のアメリカにおける日程を見せて説明した。

 移民官と検疫医が私言を交してゐる。どうしやうといふのだ。
 移民官附の日本通訳は、傍から、
 「賀川氏は日本における有名な説教家だ」
 と説明した。

 移民官は賀川先生の職名に「牧師」とあるのを指し乍ら、なほ検疫官との私語をつゞけた。結局移民官は、多少、眼疾があっても通さうといふ事を声明したらしい。
 検疫官は、舌を出して肩をすぼめて苦笑した。
 「オーライ」
 先生のパスポートには、移民官の印が押捺された。
 やれ、やれ。
 私たちはホッと息を吐いた。
 「僕は最初から大丈夫だと思ってゐたよ。尤も、この儘送還されたら、その方が楽だけどね」
 先生は笑はれる。

 軈て船はシヤトルの桟橋に横着けになった。
 私たちの荷物には、予め姓の頭字を書いたレッテルが貼られて、税関の上屋へABC順に並べられた。
 私の荷物は、税関吏が一寸手をつっ込んで見たゞけでオーライといふ事になった。
 成瀬氏の携へた活動寫真と、先生携帯の書籍(先生の拾銭本が組合せで二千冊這入ってゐるのだ)が少し問題となって、未解決のまゝそれだけを残して上陸する。

 フライデール博士、阿部、東海林、岡崎その他大勢の牧師さん達が迎えに来てくれてゐる。私は賀川先生とー緒に、先生の徳島中學時代の先輩寺澤さん御夫婦の自動車に乗る。

 桟橋と離れてシヤトルの街に入ると、間もなくグロッサリーの市場へ出た。そして、そこには處狭きまでに、自動車が並んでゐる。自動車で買物に来てゐるのだ。
 この市場に日本人経営の店が甚だ少くなくて、それが、いづれも邦人のみならす、アメリカ人その他をも顧客としてゐるのだと寺澤さんが説明してくれる。

 「先生、『死線を越えて』に出て来る『鶴子さん』といふのは××さんの事ぢゃないんですの」
 寺澤夫人が、運転手台の脇から振りかヘリ乍ら訊く。
 「驚いたなア、シヤトルヘ来て、昔噺をすっぱぬかれやうとは」
 先生もいささか、たじたじだ。
 「なに、小説は畢竟、小説ですよ」
 「でも、あの方でせう。私はあの方をよく知ってゐるんですもの。でも、あの方は少し勝気の人でしたわね」
 話はだんだん面白くなって行きさうだったが、先生は、
 「小説はつひに小説ですよ」
 一点張りで逃げてしまはれる。
 自動車は急坂を上る。
 「シヤトルは坂ばかり多い町です」
 と、ドライブ役の野村さんがいふ。

 やがて、自動車はジャクソン街の武士ホテルに着いた。私と成瀬さんは隣り合った部屋を常てがはれる。街路に面してゐて、外の雑音がやかましい。これでは眠れさうもないが――と思ってゐると、東海林牧師がそれと察してホテルへ交渉して横町に面した部屋へ替えてくれられる。

 先生は、今夜は演説をすませて、直ぐバンクーバーヘ引返されるので、此處では泊られない。只休憩されるだけだ。

 大阪毎日のシヤトル通信員宮崎氏から電話がかゝって来る。郵船会社支店で船客名簿を見たら、あなたの名があったから、かけて見たといふ。私は誰にも通知して置かなかったのだ。早速、ホテルヘ宮崎氏が顔を見せてくれた。一面識もない人だが、此の関係で、十年の知己のやうに打解ける。

      (つづく)