賀川豊彦の畏友・村島帰之(73)−村島「アメリカ大陸を跨ぐ」(3)

 「雲の柱」昭和6年10月号(第10巻第10号)に寄稿の続きです。


        アメリカ大陸を跨ぐ(3)        バンクーバーからシカゴまで
                             村島帰之

    
     (前承)

    牧師團の歓迎會

 去って、バンクーバーのデパート、ハドソンベーヘ行く。此処はバンクーバーの開拓者で、そのために今日でも威力を持ってゐるさうだ。
 開拓当時、無價同様で買った土地を豊富に持ってゐるので、建物も極めて大きい。従って品物の陳列もゆったりとしてゐるし、通路も自動車位通れさうだ。

 賣子ば悉くが女。エレベーターも勿論女、金銭出納係は日本なら不正を防止するため、會計と販売と仕入れと三人が立ち会ってゐるが、こっちでは唯一人だ。信用によって人件費が非常に節約される訳だ。尤も、労銀の廉い日本は却って多くの人を雇った方が善いのかも知れない。賣子の数も日本に比して少いと思った。

 さういへば、客の数も少い。少いのは日本の百貨店のやうに、見物客が多くないからだそうで、客の数の少く見えるに拘らず、賣上はとても日本の百貨店の比ではないといふ。

 五階で牧帥團の歓迎曾が開かれた。出席者はロバートソン、ホブソン、オースター、ハウトの各外人牧師を始め、松本正、鷲本、中山、水野、小穴、赤川、吉岡、清水、下高原、樺山の諸氏で、右の内樺山氏は氏の関学學生時代、賀川氏方へ出入してゐて、私とも奮知であり、また、遇然隣り合った下高原氏は
 「どっかで、お目にかかったやうに思ひますが」
といはれるので、話し合って見ろと、二年前氏が帰朝した際、大林宗嗣氏と同道で私を社へ訪れて見えたことのあったことが判明した。
 「世界って、狭いものですね」
 大林氏とは親戚に当る同氏夫人がしみじみといはれる。

    精神病院視察

 そこを出て、更に自動車を飛ばして、二十哩離れた精紳病院へ行く。
 美しい並木やスロープを縫ふて作られた坦々たる道をフルスピードで走る。
 船を下りる時、小川先生から、
 「米國なりカナダヘ這入ると、道が善いから靴に泥のつくといふことは、殆どありませんよ」
といはれたことを思ひ出す。

 かうした町か遠く離れた處の道路にしてからが、既に鏡のやうに拓かれてあるのだから、精神病院は、さすがに鉄窓ではあるが、樺色の美しい建物だ。
 現在六百の狂人を収容してゐるが、軽症者には美容及び織物の作業を課して、それによって精神状態を沈静させ、治療の目的を達しやうといふのだ。

 廣々とした部屋に、塵一つ止めないで、スペースの割合には余りに少なすぎるほどの軽症患者が、呑気に仕事をしてゐる。憂鬱症の患者だらう。部屋の隅っこに引込んで、縫取りをしては、また考へ込んでゐる。

 美容室の如きは、丸ビルあたりの美容院にも負けないほどの設備と美観をもってゐる。かうした環境に置くといふことが、また患者の精神状態に善い結果を齎すのであらう。

 最後に、治療作業でない一般の狂人の部屋へ行くと、さすがに、患者達も私達一行を袖引きあって噂してゐる。
 「ここには日本人はゐないよ。日本の紳士たちよ」
と呼びかける患者もゐた。
 また参観人の足音などには、てんで気もかけないで、窓辺に立って外を眺めてゐる患者もあった。

 一体が、京都岩倉病院その他の日本の精神病院において見たのと比べて、重症らしい患者が少い。勿論、重症患者は私たち一行に見せなかったのだらうが、少くとも私たちの見た範團の患者は日本に於ては、殆ど精神病院に収容しなくてもよいとされてゐる人々のやうに印象されたほどだった。

 最後に、エレベーターに乗らうとすると、一人の老母が「ハロ、ハロ、ハロー」と叫びながら、われ等に握手しに来た。私たちはこれに応へて、この老狂人の皺くちゃな手を握ったことは勿論だ。
 燥狂症の患者なのだらう。

 外へ出て振りかへると、鉄窓につかまり乍ら、何かしら唄ってゐる女もあった。
 狂人を哀れといふのだらうか。彼等は殆ど何の悩みもなく生きてゐるのだが――。

 女子部精神病院の前には、帰還兵の精神病院があった。最近の新築にかゝるといふが、そこは幾多の戦争の犠牲者−−特に頭部に銃傷を負ひ、体内に毒瓦斯を吸込んで発狂した人々を収容してゐるのだ。
 戦争がなかったら、彼等はかうした處に収容されずに、家庭に団欒することも出来たのだらうに。戦争よ、呪はれてあれ……。

       (つづく)