賀川豊彦の畏友・村島帰之(69)−村島「太平洋を行くー賀川先生に随伴して」(7)

「雲の柱」昭和6年10月号(第10巻第10号)に寄稿した続きです。


          太平洋を行く(7)
          賀川先生に随伴して
                             村島帰之


    (前承)   
   
   二次十五日

 西緯百五十度を越えたので、十五日が二度繰り返される訳だ。昨日の十五日は日本の十五日だが、今日の十五日はアメリカの十五日だ。
 朝からの荒天!
 船は左、右と大きく揺れる。デッキの風の当る方にはカンバスが張られた。
 朝七時に起きて、、デッキを幾度も歩き廻る。デッキを十一廻りすると一哩になるといふのだ。小川先生とお手々つないでデッキを行く。

 船べりの外は怒濤が白い歯を出して噛みに来るやうだ。そして直ぐ先にもう白い霧に閉ざされて、淡墨色にボカされてゐる。
 高山の上から白雲を瞰下すやうな景色…デッキの板も、沫に濡れてその上を歩くと、靴の裏がくっつくやうな気がする。

 呼吸をすると、白い烟がロから立つのが見える。冬の朝の感じだ。
 スチームの這入った生温い部屋に比べて、冷たい外気にひたるデッキの散歩の快さ……。

 散歩に倦きると輪投げ。
 腹が心持減って朝飯もうまい。
 食後、うとうととする。そして目を覚ましてから、またも腹べらしのためにデッキを散歩する。

 正午の本船の位置、北緯四十九度、西緯百七十五度、横浜を去る二千百六十三哩、晩香坡二千百三十七哩、もうアメリカ大陸の方が日本よりも近い訳だ。気温五十三度。

 昼飯をすませてから、談話室へ行って、健一へ宛てゝ平易な文体で海洋通信を書く。「サンデー毎日」か「子供の世界」へのせるつもりで。

 大島正徳博士とK先生と四人、談話室の卓を囲んで、學校ストライキの話などをする。
 船は可成り揺れるが、もう慣れて何ともない。小川先生に引張り出されて、ピンポンをする。白い玉が風で流される。小川先生は兎の子のやうになって玉を拾はれる。彼(小川先生ではない)の技は拙い上に、風上にゐるからだ。

 ゴルフを四洋人二人と小川先生と彼と四人でする。またしても彼が一等先にホームインをする。少し肩が痛い。なれない運動をするからだ。

 夕飯は薄いスープ(コンサメ)などをとる。
そして食後、隣りのテーブルの一等運転士の山下さんや、船長、機関長と合流して、海 奇談を聞く。

 一、太平洋を帆船で乗切って密航して捕はれた九人の冒険談。
 一、密航の賣淫婦を弄んだ末、発見を怖れて、竃で焼き殺した勝立丸に怨霊が永く残って夜半になると、異様の音がしたといふ怪談
 一、肺を病んで船中で倒れた女の亡霊――実は犬であったが、二人の船員がそのために気絶したといふ話。
 一、船府の怪奇、マンホールの話
 一、笑ふ帽子蟹の話。
 一、死島の怪。
 一、船から海中に墜ちた練習生が助かった話
 一、ライフボートの船
 一、黒潮と凶作の関係等、等、等。

 みんな時の移るのを忘れて傾聴した。そして終わったのは十時過ぎであった。
 K先生はなほも機関長たちと、十二時すぎまで話し込んでゐられたといふ。

     十六日(木曜日)

 依然たる濃霧。水平線がぼかされてゐて見えない。腹すかしのため、小川先生と二人でデッキを散歩する。
 朝飯後、昨夜のオフィサーたちの話の中、山下氏の太平洋横断の話を原稿にする。サンデー毎日へでも載せるつもりで。
 書き絡えたところで、気持を転換するため、米人二人對、此方は三菱の明智氏と組んでデッキゴルフをやり。けふは不幸にして敗けて了った。

 午餐。K先生に成瀬氏を「梅ちゃん」と綽名をつけた。けだし、彼が梅干を顔に貼って熱を下げたその形貌が珍奇だったからだ。
 二時からは講演。小川先生の親切な紹介のあった後、彼は立って「新聞小説」の話をした。みんなニコニコして聞いてゐてくれたやうだった。疲れたので、十五分ほど眠る。
 体量を測ったが、彼だけは少しホンの心持殖えたやうなので、K先生、叉しても、
 「奥さんに奢って貰はにや」といふ。
 巌兄上から贈られた船酔除けのコブがすっかり無くなった。

 夕飯のメヌーには栄昌の浮世絵の美人がついて来た。外人には悦ばれるだらう。
 腹こなしに、機関長その他とゴルフをやる機関長及び成瀬氏のコントロールは百%で、われ等はアウトサイドヘ追はれて、アップにつぐアップだ。果然、敗北。

 入浴後、三田谷啓氏贈るところの「山路越えて」を読了。
 K先生は海洋小説の材料を仕入れに機関長たちを訪れて歩いてゐる。
 この夜、少し早く眠りに就いたが、同室の成瀬氏ば遅くまで仕事をして居られて、十一時すぎふと眼がめてから少しも眠られず、夜半、ゴロゴロといふ音がするので、耳を澄ますと、何の事だ。成瀬氏齎すところの西瓜が、船のローリングにつれて室内を旅行するのだった。
 ナンセンス西瓜の旅!
 あまり西瓜の旅が激しいので、彼は已むなく起き出でて、これをベッドの下へ検束處分に處した。いづれ、死刑に処して腹中に葬るつもり。

   十七日(金曜日)
 だんだんカナダに近づいたので故國へのたよりを書く。一気にハガキを二十枚ほど書いた。

 午餐、例によって山下一等運転士の海洋談を聞く。
 欧洲戦乱の時、独逸の潜航艇のために撃沈された船は隨分多くて、印度洋を航海してゐると、蠶を流すやうに人間のサナギがつながって流れて来るのを見て、云ひ知れぬ哀愁を覚えたものだ。郵船では平野、宮崎八阪の三船であったが、八阪はボートセッドにもう一足といふところでやられたものだ。当時、僕たちは、水平線上に舟の煙が見えると、ソレ敵艇だ、サア逃げろと一目散に航路も何も無視して只逃けたものだ。そして港へ入って間もなく、僚船が入港して「何だ、君だったのか」と僚船同志で逃げ合ってゐたことを発見して笑ふことも多かった。

 一、八阪丸の金塊引上の苦心の中には、引上の外に海賊にやられることの警戒も含まってゐた。で、金塊が発見されても一時にあげないで、一応、水面に並べて、時を見計らって上げたといふ。
 金塊が発見された時、一人の潜水夫は、余りの嬉しさに水上の信号をも無視して、永く水にゐたため死んで了った。
一、彼等は全身、潜水具を着るのではなく、ただ顔だけを潜水具に包むのだった。従って水温に慣れるに適度があって、一時に水底に達せず、幾段階にも下りて圧力に慣らしてから水底に達するのだといふ。
 一、潜水夫の多くは沖縄県人で、裸体で潜水することの出来るやう、練磨するものださうだ。
 一、近ごろの繋船の多いには驚く。天洋なども長崎に繋がってゐるが、大概の船は外部を 釘にする位の用にしかたたない。敏馬沖を通る時など、われ等は繋船オン・パレードを見て、思はず顔をそむけさせられる。

 夕飯に「すき焼」といふものをとって見たが、鍋に入れてなくて、普通の皿にのっかってくるのだから、すき焼の気分はしない。
 食後、映画會を見る。大毎ライブラリーの少年美談を見る。一寸センチになって、家郷を想ふの情切。
 アメリカの嬶天下を主題としたウーピー映画「戸外スポーツ」は、只痛快。終わってK先生の部屋で、バンクーバーヘ行く早大出身の青年夫妻と映画の話などをする。

        (つづく)