賀川豊彦の畏友・村島帰之(68)−村島「太平洋を行くー賀川先生に随伴して」(6)

 「雲の柱」昭和6年10月号(第10巻第10号)に寄稿された続きです。


          太平洋を行く(6)          賀川先生に随伴して
                             村島帰之


    (前承)
   
   十四日(火曜日)

 ひどい濃霧だ。寒流と暖流とが衝突するところに起るのだといふ。
 ジャケツを着た上へさらにレインコートを重ねてデッキヘ出る。水平線が模湖として、まるで墨絵の景色だ。デッキに立って海を見ると、水鳥が二羽、低く海面を飛んでゐる。小鳥も一人では遠く飛んでは来ないものと見える。
 眼下か瞰下すると、黒澄んだ水が、神秘な渦を倦いて流れてゐる。黒潮だ。何十哩の早さで流れてゐる黒潮だ。船はその潮に乗って走ってゐるのだ。

 腹減らしに、輪投げをやって見る。
 食堂その他にはストーヴが這入った。赤い色をしたストーヴは、夏ながらにクリスマスが来たやうな思ひをさせる。
 廣島商業後援會の森本氏が訪れて来て、二等室に西洋人の多い事を話す。
 
 昼飯は小海老のフライやサラダ、アップルパイ等をとる。

 門司、藤井公平氏から無電あり、曰く、
 「サラバ元気であれ、一路御平安を祈る、金もたねば何とかする」
と、海上にあって友情を思ふこと切。

 午後二時から平井六郎氏の「トロント事情」の講演を聞く。

 一、トロントオンタリオ州の首府、黒ん坊がゐない。
 二、市が、街路樹の手入に熱心で、電話を一つかければ、害蟲駆除にも来てくれゝば、枝の延びたのも切ってくれる。
 三、小麦、鍍炭、着類の産業が旺ん。
 四、毎年八月終わりと九月初の二週間宛博覧会が開かれる。そのための永久的ホールがある。
 五、水泳競技に一萬弗を賭けるが、水が冷いから日本人の出場は不可能だ。
 六、夏も四十度位の冷水が水道で出る。
 七、木と水と衛生設備の完備で病人が少く死亡率も低い。
 八、生方スカラーシップ、小林スカラーシップなど日本人の奨學資金もある。

 なほ、氏はアメリカの旅行心得について次の如く語った。

 一、チップ
  A、食べ物はその價の約一割
   汽車なら二割をやる。それ以外は一弗なら十仙
  B、ホテル
   ドアマン十仙(帰る時に十仙)
   ポーター二十五仙(汽車も同様)
   氷水持參の場合 十仙
  C、汽車          一晩
           二十五仙〜五十仙
   黒人(ベッドの上げ下げ、荷物の始末、靴磨)二晩
           五十仙〜七十仙
           七十五仙〜一弗
 二、公會の席上、大声で話すな
 三、お辞儀は余りペコペコするな
 四、婦人には此方から握手を求めるな
 五、直視して話せ
 
 タ食後、デッキでピンポンを米國の紳士と彼と、またデッキゴルフをロシアの青年と小川、成瀬両氏名四人でする。ゴルフは彼にとっては初めての経験だが、四つのホールを一番先にホームインして皆を驚かす。
 朝の輪投げが、少しハードであったのか、右腕が少し痛い。風呂に這入って寝る。

 小川先生が遅くやって来て、アメリカの一弗五十仙、コーター、ダイム、二クルの貨幣か見せてくれる。五銭が拾銭よりも大きい。
 成瀬氏はデッキゴルフを薄着の儘(氏は冬着の用意をしてゐない)したので風邪を引き、彼が久留氏から貰った梅干を顔に貼って寝た。

   十五日(水曜日)
 七時頃小川先生が「グッドモーニング」といって、這入って来たので眼をさます。前夜、成瀬氏が風邪で咳がするのが気になって、二度ぽど眠りを妨げられた為め、今朝ば唾眠不足だ。

 朝飯を済ませてから、談話室へ行くと、K先生を中心に、米國婦人が四人會話中だ。
 先生は直ぐ彼を新聞記者として紹介した。その中のゲリーといふ大きな輪廓のハッキリした婦人が「日本の新聞は公共事業に尽くすからいい」といってお世辞をいふ(いや、いったらしい、と書く方がたしかだらう)彼にはK先生のいふ英語は半以上聴取れるが、スピ―ドのある外人の英語は殆んど聴取れない。K先生と彼女たちの間には、軍教反對問題が論ぜられる。日本の軍教は米國のイミテーシヨンである。

 昼飯には親子丼を食べる。
 正午、本船の所在は北緯四十八度、横濱を去る千七百八十四浬。気温は五十度。

 午後二時から水火夫のためのK先生の講演がある。彼は船長から頼まれて、またもK先生の紹介演説を二十分ほどやらされる。此度は与謝野晶子氏の言葉か引用し、偉大なろ指導者としてのK先生について語った。

 先生の講演は「海洋の征服者」といふので、まづ日本が単一の民族から構成されず、或は韃靻、或は支那、或は朝鮮人の血の交錯せる事実を各地の事実について述べ、右の内、南方海岸の日本人は最も勇敢で海を支配したから、覇権ば常に彼等によって掌握されたと説き、今後、日本人は海に働きかけ、海の経済的富源を開拓せればならぬが、なほその根本としては、海を怖れず、海と親和し、海に自己の使命を発見せねばならぬ。まづその備ヘせよ」と叫んだ。そして最後に「私の子の中の一人は必ず海員か、若くは海員の妻としたい」
 先生の言葉は海員たちに、確かに大きな力を与えたに違ひなかった。 

 注射をする。
 廣島商業野球團後援會正副会長が訪れて来て、二等室にあろ西洋婦人が、日本の羽織を曲げて着て、得意がってゐるのを罵る。
 「西洋人は自ら変な風をしてゐて、日本人に對しては失礼だとも思わないのに、われ等日本人が一寸日本式を出すと、直ぐ、レディに失礼だといふが如きば怪しからん。そういふ風に女を増長さす米國男子が意気地がない」
 會長との、口を極めて罵倒する。

 三時、K先生が、二等の外國婦人四名をティーに招待されたので、彼たちも陪席する。ゲリー嬢はガンヂ―との会見談やドイツの経済界の話など、頭のよいところを示す。
 他のレディ達も、いづれ劣らず政治、経済、育児、何でも来いで議論をするのにば驚かされる。

 K先生の笑ひ話
 「ニュージニアを旅行した時、彼地のこどもは僕を見て、オー、スモールマン! といった。しかし、日本の青年、殊に女は最近丈が高くなった」
 ゲリー嬢は各國の女のこどもの抱き方をヂェスチュア入りで話す。そして、日本の女の抱き方を笑ふので、小川先生は、
 「アメリカではハズバンドが子供を抱くぢやないか」       ’
と一本皮肉ったのは痛快であった。

 けふは緯度の関係で、八時になっても未だ外は明るい。
 明るい窓を仰ぎ乍ら夕飯を終わる。
 この日の夕飯のデザートには、フルーツの王といはれるマンゴスチーンが出た。外は柿のやうなヘタがあって、黒昧のあゐ果物だが、中を割ると血のやうな紅い液汁に包まれて、白い実がある。歯をむき出してゐる土人の顔といったやうな果実だ。
 昧ひはいゝ。上等のミカンのやうだ。だがこれが果物の王とは思へない。日本人には日本の果物が一番だ。
 たゞ、気品のある香気に、果物の気格を認めねばならないだけだ。

 夜はデッキで映画会。成瀬氏の禁酒映画と禁酒アホダラ教(氏はカシコダラ教と呼んでゐる)があったが、後者は大好評であった。

        (つづく)