賀川豊彦の畏友・村島帰之(67)−村島「太平洋を行くー賀川先生に随伴して」(5)

 前回に続いて「雲の柱」昭和6年10月号(第10巻第10号)に寄稿したものを収めます。


         太平洋を行く(5)         賀川先生に随伴して
                             村島帰之


   (前承)

   第三日(十二日)日曜日
 前夜は善く眠ったので、六時過、快く眼を覚ました。彼は寝床の中で静かに祈った。
 此度の渡米は全く聖意の外の何物でもない。すべてが順序よく調べられて行って、殆ど障碍がなかった。それが感謝でなくて何だ。彼はそれを感謝してゐると、涙が頬に流れ落ちるのを感じた。彼はもう大丈夫だといふ確信を得た。
 彼は元気に起き上って、食事にK先生を誘ひに行った。

 朝飯はダレープフルーツとコーンフレークとそしてベーコンだけにした。
 コーンフレークは押しつぶした唐もろこしだが、伊太利の貧民や土人はこれを常食にしてゐるといふ話。
 K先生は旺に菜食論を謳歌し、なほベーコンの製作を日本でやり度いものだといはれる。
 
 最後にホットケーキを喰べる。
 「これはね、日本の菱麦と同じで、あわてものゝ食べゐものですよ。さめて了ふとおいしくないからね。僕がボーイをしてゐた時、冷たくなったホットケーキを持って行って、ひどく叱られた事を覚えてゐるよ。給仕泣かせで、あわてものゝ食べ物さ。アメリカ人の気質が出てゐるね」

 十時から日曜礼拝が始まる。西洋人が二十人ほどと、日本人が十二人。阿部青山學院中學部長の司會。讃美歌は英語の方が勢力があった。K先生と彼の声丈けが日本語では際立ってゐた。

 K先生が説教をすべく立った。彼はそれを筆記した。
 先生の説教の要旨は、いづれ別に書く。
 彼は頭を下げて書いてゐたために、筆記してゐる内に、船酔を感じて来た。しかし、途中でやめゐのは口惜しいので、飽くまで我慢した。そして説教が終わり、祈りが済んだ後、初めて彼は部屋へ帰ってベッドに横たはった。

 DINNERも用心のため部屋の中で海草と野菜をとった。それから間もなく彼は疲れもあったのだらう、短時間ではあったが眠った。

 午後二時から、賀川先生の講演が始まる事になった。その時分には彼もすっかり元気を取り返して、會場へ出た。そして、K先生の講演に先立ってK先生の紹介演説をすることにした。

 彼はまづ賀川先生が多角形の人である事をいった。世人は、先生を、或は詩人、預言者或は社會事業家、労働運動家等々といふ。しかしそのひとつひとつではなく、その全体だといった。それから、先生が全く「私」なき人だといった。数萬圓の印税が、少しも私用にはされなかった事を述べた。そして命がけで働いてゐらるゝ事を説明して、先生が傅道に出られる時、春子夫人を顧みて、「骨になって帰るかも知れね」といはれた事を引用した時、彼は泣いてゐる自分を見出した。

 K先生の講演は「宗教と文化」と題し、宗教の特質である測定、創作、保持、補修の各項に亘って述べられた。

 晩餐には鮎が出た。彼は即座に、
 「アイライクイット」
と、一つ洒落を飛ばした。
 アスパラガスが出た。私は日本式に指でつまんで食べ出したが、小川先生ばそれを制した。
 「矢張りホークで取らぬといけませんよ」
 だが、直ぐあとからフィンガーポットを持って来たので、此處では彼の日本式の通用することが判明して彼は鼻を高くした。

 例によって、デザートにはナットが出た。
 成瀬さんは日本食が恋しい意といふので飯を注文した。
 K先生は、
 「私の母は天保飢饉後の節約令を知ってゐて、食事もつつましくしてゐたので、私は今でも米を沢山食べると胃が悪くなって困る。今日でも米飯はなるべく握飯にして、それを焼いて喰べてゐるが、梅子(お嬢さん)はお握りが熱いといって抗議を申出るんですよ」と言はれる。

 食後、機関長その他と卓を同じくして語り合ふ。チーフオフィサーの山下さんは特に気焔家だ。ここで聞いた話を列挙して見る。

 一、デーゼルエンヂンはみな丁抹から輸入する。日本でも玉その他の造船工場で作リつゝあるが、部分品ば依然として丁抹から輸入してゐる現状だ。
 二、各船室のベンチレーターは五十尺ぐらゐの高度の取入口から、外気をとってゐるのだから、寝ながらにして大洋の空気を吸ってゐる事になる。喘息なんぞは此の空気療法で癒るだらう。
 三、デーゼルエンヂンとなってからは船のスペースが著しく節約されるやうになった。それだけ水などを沢山積めるので、船客は水飢饉を感ぜずにすむ。本船の如きは四十噸の水を積んでゐる。
 四、日本の海を怖れるのには一つの原因がある。それはその近海に低気圧の風が吹くからだ。二百十日のあるのも日本だけだ。難航は小笠原島が見えてから、台湾海峡からといはれるのでも判らう。

 これに對して、K先生もまたいろいろの話をされたが、日本が海國であるにも拘らず、國立公園を選ぶに当っても、山のみに限ったことを批難し、海の勇士たちの共鳴を得た。
 
 九時入浴して寝る。

   十三日(月曜日)

 北緯四十度まで来た。大分寒い。ジャケツを着る。朝飯は恰度タワシのようなシュレツデットホイートなどを喰べる。これはオートミル、火を通す開係上、高價でたべられない人達が、これのみに牛乳をかけて食べるものだといふ。舌にくっついて、余り甘い食物ではない。

 食事中、またK先生の在米苦學時代の話が出る。
 「僕はウォール街の銅商人ニコルソンの家に厨部ボーイとして働いてゐたが、主人の外に七人の女中がゐて、それ等の悉くに飯をたべさせねばならぬので大変忙しかった。が、女中たち(彼等の中には元オペラ女優と称する者もゐた)は、學生である僕を尊敬してくれて、夜八時すぎになって、身体があくと、唄などを唄ってきかせてくれたものだった。
 苦しいことも勿論あった。二百五十種ある酒を混合することには、慣れないために落弟した。サラダを作ることも六ケ敷かった。銀のスプーン、ナイフ、フォークを磨くこともなかなか容易ではなかった。
 朝九時になると、主人の部屋ヘコーヒーを運んで行くのだが、或る日、砂糖とソーダを間違へて運んで叱られたことを今も覚えてゐる。
 着物のことは前にも述べたが、朝は黒い服、昼はタキシード、夜は燕尾服と、三度も更衣をしなければならなかった。
 でも収入は可成りよくて、夏三ヶ月で百九十弗になった。學校の月謝だけは出来た訳だ。」

 小川先生もこれに和して、「私は庭園の手人師や靴の売り子をしたが、十一時から六時頃まで働いて七弗にはなった。」といふ。

 食堂を出て、大連の煉乳商勝俣氏を訪ふて、牛ペストの話やホルンスタインの話を聞く。 

 第二回の注射をして貰ふ。 
 CINNERにば久し振りでマグロの刺身と吸物が出た。吸物の蛤を見て彼は、
 「よう、御機嫌よう蛤!」
と声を掛けて、みんなを笑はせた。

 DINNERがすんでから、K先生、O先生と彼の三人ば船長、機関長、チーフオフィサーの案内で船内の見學に出る。

 一、下級船員の人達が、旺んに読書してゐるらしいことの見られたのはうれこい事だった。
 二、その部屋もサッパリしてゐて、通風換気も善い。
 三、食堂に「性病予防」のポスターの掲げられてゐるのを見て、まじめに海員の性問題を考へさせられた。
 四、暑い司厨部の仕事場(台所)を見てゐると、食って遊んで食ってまたデッキで遊んでゐるのが勿体ない気がした。
 五、船尾は洗濯部になってゐて、、船体の動揺につれて、上下左右に揺れるので、余程海に慣れねば迚も勤まるまひと思はせられた。

 海の美しさ、廣重の紺青その儘だ。或は光淋の紺青といふのかも知れない。
 黒田乙吉、小笠原秀碰両氏から「サヨナラ」といふ無電が屈いた。

        (つづく)