賀川豊彦の畏友・村島帰之(66)−村島「太平洋を行くー賀川先生に随伴して(4)」

  「雲の柱」昭和6年10月号(第10巻第10号)に掲載の続きです。


         太平洋を行く(4)
         賀川先生に随伴して
                             村島帰之


    (前承)

   第二日(十一日、土曜日、曇)

 K、O先生は昨夜は善く眠ったといはれる。彼は早く眠りに落ちたが夜半二度、目をさました。寝床の変わったのと、はばかりの関係だ。
 「はばかりなら、このチヤンバーにすればいいんだ。そのためここに入れてあるじゃないか。アメリカの寄宿舎の朝は、小便の音で部屋の中が雨のやうに響くんだよ」

 K先生は説明したが、彼は他人の尿器を運ぶボーイの姿を想像すると、済まぬ気がして、たとへ夜半でもそれに放尿する気にはなれない。
 
 朝飯は林檎とグレープ・ナッツとチキンリバーとスクランブルド・エッグとをとる。
 「レッスンのつもりでいろいろ食べやうよ」
 K先生の発案で――。
 だが、彼は少し食べすぎたやうだ。

 K先生はアメリカの青年が欧洲戦争に出征してフランスの淫賣婦を買ってから、純潔を失って、教会に寄りつかなくなったことを述べた。アメリカの宗教衰微の一因は、確かにそこにあるのだらうと思へる。

 食後暫らくしてドクターか訪れてヤトコニンの注射をして貰ふ。出発前から隔日に既に十三四回注射をしてゐるので、それを継続するためだ。

 助手の武本清次郎氏が野球狂でボールの話が出る。古い早大の選手の噂に小半時間を過した。

 船中は内外人の船酔も多いが、デッキや廊下が辷るので、船員で辷って怪我をする人も多いといふ事だ。辷ったのは、彼のみではないらしいので安心した。

 時計を三十分進ませる。何だか誤算をしてゐるやうな気もする。

 K先生と一緒に三等室へ廣商選手一行を訪れろ。ㇳモに大分ひどい。一行十人の中で、三人は寝込んでゐるといってゐる。

 灰山主将は元気だ。
 「ごろごろ寝てゐては悪いだらう。キャッチボールの稽古でもしては?」
 「え々」
 「一緒にデッキの方へ行きませう。サアサアいらっしゃいいらっしゃい」
 K先生が先頭に立つ。

 船は差別待遇がひどい。三等船客はデッキヘも登れないのだ。
 船長が来たので、彼は選手の練習のためにキャッチボールをさせてやってほしいと申し出た。船長ぽ快く承諾した。Aデッキは一等船客がデッキゴルフをしているので、キャッチボールはあぶない。で、上甲板でするやうにといって、特にネットまで張ってくれた。
 白い球が大空の下を梭のやうに飛びかふ、若い人たちの筋肉が跳ねる。
 聞けぼ船長はボクシングのファン、事務長は元慶大のラグビーの選手ださうで、運動に理解のある筈だ。
 K先生も一緒になって選手相手に腕相撲などに興じる。

 昼飯のレーガングが鳴った。
 船は日本沿岸の黒潮に乗ってゐで、大分にうねりがひどい。食堂の客も前日より減った。
 「村島さんは偉いね。初航海だのに、二日も皆勤してさ。二日間が最もエライのにね」
 K先生もO先生もロ揃へて彼をほめた。
 「だって僕は百%用心Jしてゐるんですものなあ。朝起きると、梅干を食べる事にしてゐます。食後は必ず消化剤を用ゐてゐます。それから船に酔わぬやうにといって、兄がくれた昆布を喰べて、自重の上にも自重してゐるんですから」
 「それにしても元気でいゝよ。僕は安心した。屹度肥って帰りますよ。奥さんに奢って貰はなきゃア」
 とK先生は快げに笑靨を拵へながら笑った。

 成瀬氏は少し気分が悪いといって、デザート前に部屋へ引き上げた。
 食事は、朝食を多くとりすぎたのでオニオン(葱)サラダとパイだけにしておく。
 食事は少いが、彼の洒落がやたらに飛んで彼の食卓が一番賑やかだ。食堂の客がみな去った後も、なほ残って談論風発の有様である。前日に引続いてアメリカの宗教蒸発の話が出る。

 K先生は語る。
 「一体、戦争の後には、いつでも宗教の衰微が来るものです。ただ例外は南北戦争の時だけです。これに宗数的の意味があって、むしろ緊張した方でせう。が、その他の戦争の場合には、まず昨日いったやうに、出征兵が純潔を失ふし、内地にゐる者も成金になってこれまた教会から遠ざかる結果となるのです。日本でも大正九年の好況時代には有力な信者が教会を離れて、教會が活動力を失ったのです」

 食後、日記を書いてゐると、午後二時半からお茶が始まった。その席で明智氏と賀川先生の間に宗教問答が行はれる。
 明智氏は全くの未信者だ。

 明智氏「僕たちは信じられない。疑ふばかりです」
 K先生「でば、あなたは自分の生きてゐる事を疑ひますか。疑ふこともよいのです。進歩は懐疑から来るんですから。だが、疑へないものゝあるといふことも、あなたは疑ひますか。疑はないでせう。それを信ずるのが信仰ですよ。」
 明「信仰に這入れば、ヤレ酒をのむな、女を買ふな、など、といろいろ制肘するのはなぜです。」
 K「宇宙進化のためには、悪いものを捨てて行かねばならぬのです。私たちは宇宙及び人類の進化のために使命を感じてゐるのですからネ。そこに信仰の道があるのです」
 明「宿命論をどう見ますか」
 K「自由意志の世界を撤去すれば宿命が残るのです。自殺は自由意志に基くものですから宿命ではありません。が、他殺は宿命かも知れませんね。われ等基督教信者は、その宿命をも自由意志で突き破って行かうとするのです。」

 部屋へ戻って日記を続ける。山路貞三氏から無電が届く。久留君に貰った梅干をK先生の部屋へもわける。

 晩飯はワイルド・ダッグのロースとアイスクリームその他の軽いものを摂る。食後八時から映画会が食堂で開かれた。コロンブスと題する喜劇の外に大毎ニュース六月号が映寫され、最後に「賀川先生経営事業」のフィルムが寫された。その一番終わり、瓦木村農民福音學校のシーンには、彼も出て来た。自分の姿を自分で客観するのは、妙にくすぐったい感じのするものだ。そして自分はあんな男なのかなあと疑って見たい気もした。あんな自分が本当に存在するのかと不思議にさへ思へた。

 映書會が終わって彼の部屋でK先生も一緒に映画評をする。彼はK先生が六十数珊の自己の著書の前に佇んで嬉し相に笑ってゐるのは、Kといふものを小さくするものだとして,カットを主張した。成瀬氏は反對したが、K先生はそれを容れた。

 さすがに、黒潮に乗ってゐるだけあって、船はやや揺れる。だが、ベットに横はると、別にそんなに感じない。尤も、船の中央に位置した一等キャビンであればこそだが。

    (つづく)