賀川豊彦の畏友・村島帰之(65)−村島「太平洋を行くー賀川先生に随伴して」(3)

 前回の続きが「雲の柱」昭和6年10月号(第10巻第10号)に「アメリカ号」特集として、さらに長文の記録文章が寄稿されているので、分載していきます。


        太平洋を行く(3)
        賀川先生に随伴して
                             村島帰之

   横浜解纜

 汽笛が鳴った。
 船は突堤を離れた。彼は彼の方を見上げてくれる多くの顔に会釈をした。しかし、誰が何處にゐるのかは殆どよく判らない。只彼の甥が、船の進行とー緒について歩いて来てゐることよリ外は。
 突堤の末端には廣島商業の野球團を見送る學生の一團が見えてゐた。
 船は完全に突堤を離れた。が、見送りの群衆は去らないで、船の方に向って手を振り、帽子を振ってゐる。
 誰が誰だか判らない。只、多数の人間の存在が認められるだけだ。その中で、イエスの友會の赤旗が、同志の存在をハッキリ想像させてくれた。

 船は港外に出た。彼は階下を降りやうとした。彼の白靴の裏が雨に濡れてゐたのと、階段の角に打たれた金具が油で磨きあげてあったので、彼は四つ目の階段から辷り落ちた。彼の失敗の第一課だ。が、彼はこれを以て、彼が陥り易い「お調子に乗る」ことを警告されものとして受取った。

 彼ば、足取りをもっとしっかリせねばならぬと自省した。彼は恰度脊の乳の背面の辺を一撃喰ったのだった。彼は自分の手で揉みながら部屋に帰って、メンソソータムをそこへすり込んだ。
 彼は野戦病院の救護班ほどの薬品を携えて来てゐた。それは、彼が調べたのではなくて、日頃、からだの弱い彼を知ってゐる知友のたちが、特に調製してくれたのだった。

 西宮市診療所長の阿部芳三郎氏は、小型のトランクに薬品を一杯つめて贈られた。その中には、シーシックレメディ(船酔ひ護防薬)を始めとして、消化剤、気つけ薬、うがひ剤、下剤(リチネ)止血薬、睡眠薬、下熱剤、胃痛止薬及び判創膏等等約十数種の薬品に匙までが添へられてあった。

 また慈善團中村三徳氏のすすめで、注射薬ヤトコニン四箱、消化薬千錠をも用意してゐた外に、別に大阪曾根崎の蘆村陸造博士からは、萬一、賂血した場合にといって、粉薬を三十包贈られた。
 薬品ではないが、船よひの護防にとていって、家兄瀧口巌からは昆布、また旧友久留弘三氏からは梅干か贈られてゐた。

 彼はメンソソータムを打身の箇所に塗ると共に、阿部ドタトルから贈られた赤と青のカプセルに這入ったシーシックレメディーを一つづつ一度にのめといふ指圖通りに服用したが、船は殆ご身体に動揺を感じない程だった。

 部屋に這入ると沢山の電報が来てゐた。その中には妻の母から

    おほわだの波路平らに行く船を
       安かれとのみ祈るけふかな
の和歌の電報が、彼を涙ぐませた。

 彼は持込んだ二つの荷物をほどいて、それぞれの場所に入れた。
 彼の所持品は右の薬品の外に、ザッと左の如きものがあった。

   衣類
一、合服上下一着(着用の儘)チョッキ(寒い時の用意)
二、レインコート 一
三、ジャケツ 一 (寒い時の用意)
四、襟巻 一   (同)
五、毛のシャツ上下(同)
六、パジャマ 一 (古川軍医夫妻からの贈物)
七、ガウン 一  (同)
八、腹巻 二 (一つは安東長義氏からの贈物)
九、ワイシャツ 四(一つは出発直前、久留弘三氏よりの贈物)
十、ネクタイ 五(内一つは蝶々)
十一、シャツ 五
十二、猿股 十三、靴下 十四、ハンカチーフ 十五、ブラシ 十六、靴 十七、靴べら

   化粧品類
一、石鹸(船中では全く不用であることを知った)
二、歯磨(チューブ入)
三、楊子
四、タオル(これも殆ど船中では不用)
五、安全かみそり 六、チック 七、櫛、八、爪切り

   書   籍
一、現代米國論(鶴見祐輔著)
二、雲水遍路(賀川豊彦著)
三、米國旅行案内
四、和英、英和ジェム辞典(三省堂編)
五、日英会話篇(小久保氏著)
六、最も実際的な新聞英語の読み方(松村寛著)

   文 房 具
一、ノーㇳ 二、萬年筆 一
三、くり出しペンシル 一 四、鉛筆 一
五、ナイフ 一 六、原稿用紙
七、大毎マーク入便箋 八、同封筒

 最後の二つは実用のためではなく、大毎社員たることの証拠品として所持するもので、前大毎ニューヨーク特派員鈴木三郎氏の忠告に従ったものだ。        以上

 私達はまづK先生の部屋に集まった。その部屋の内容は彼のとは全く同じたが、只、便所と浴室の附属してゐるのが特徴だった。
 彼の便所と浴室は、彼の部屋から六七間行かればならなかった。

 大連の煉乳業者で、矢張りYMCA大會へ行く勝俣喜十郎氏も来合せた。
 「昼飯をまだ食べてゐないので腹が空った」とK先生が言ひ出した。上屋での祈祷会のあとで辨当を食べる筈だったが、時間をとり過ぎたためその儘辨当を持込んであった。その事を思ひ出して一緒に食べやうといふ事になった。
 「しかし、今、食べると折角のDINNERがまづくなるぜ」
 勝俣氏が忠告した。K先生は中止した。彼はまだ夕飯までに三時間あるのを忍んでは却ってからだに悪いと思って、その中の卵焼と野菜だけを食べた。

 部屋へ帰ると、司厨長が「米窪さんからお手紙を頂いてゐます。何なりと御用を仰しゃって下さい」といって来た。背中を打ったことを話すと、ドクターに見て貰ヘといって案内して呉れた。
 ドクターは一応診て「外だけです。内らには何等故障はありません。明日あたりになったら癒るでせう」
と言って、膏薬をはってくれた。

 みんなで喫煙室へ行って見る。大きな暖炉か前にして、高價な椅子が配置されてあった。暖炉の上には日本の甲冑に比すへき決闘用具が装飾してある。
 彼達は一つのテーブルを占領した。
 そこで明智光秀の末裔と称する明智龍朗氏(三菱倉庫社員)及び平井六郎氏(トロント元三井社員)と知り合ひになった。

 明智氏は、K先生に「霊魂不滅」が判らぬといひ出した。K先生は答へた。
 「恰度、電池と電気の関係のやうなものです。電池が死んでも、電気はなくならないんですからね。」

 シロホンのやうな音が廊下の彼方から響いて来た「レーガング」といふ楽器で、夕飯の出来たことを知らせて来たのだ。
 みんなは服装を整へて食堂へ這入って行った。食堂の中央の壁には、船名に因んだ平安神宮の画がかってゐた。

 テーブルが二十内外、ほどよく配置されてあった。
 K先生、小川先生、成瀬氏及び彼の四人は壁際の一つの卓を占領することになった。この席は航海の終るまで変わらぬ習慣だった。
 テーブルの上には、廣重まがひの錦絵を書いてメヌーがのせられてあった。
 彼たちはそのメヌーの中から次々と注文した。スープに次で来たのは、取合せ堅果(ナット)だった。
 堅い実は、ヤットコのやうな砕果機で挾んでも客易に割れない。
 「このナットはアイカンナットだ」
 彼は一流の洒落を飛ばした。
 「出たぞ出たぞMさんの洒落が」
 K先生は愉快げに笑った。

 その次はボイルドサルモン(鮭)、それからヤングラビット(兎)、さらに胡瓜のサラダと鶏肉。
 「アメリ力へ這入ったら、こんなに沢山は喰べられませんぜ、殊にニューヨークでは肉はとても高くってね」
 K先生は、何年振りでかの珍味佳肴に舌鼓を打った。
 K先生にして見れば、かうして悠々閑々とした日を送るといふことは、船の中の外では滅多に得られないこことだ。一日六十七回づつの講演を続けて、日本の果から果まで、次から次へと傅道旅行をつづけられてゐる先生に、海上の十日はせめてもの休息である。

 一等キャビンの客となられたのも、先生がトラホームを貧民窟で感染してゐられるので、二等以下では入國を禁止されるからだ。
 金さへ出せば、國禁の病気でも平気で見逸しにするアメリカは、なるほど弗の國だ。

 K先生はメヌーの順序を空で知ってゐる。それは大正四年、米國へ留學した頃、ボーイをした経験があるからである。
 「その時ね、ボーイになるのにタキシードとドレスとが要るので、セコンドハンドをユダヤ人の商人から四弗で買った事がありますよ。丈が長すぎるので、短く切って着ました。」
 「なぜそんなに安いんです?」
 「ボーイ以外に買ふものはないからですよ」
 「そのタキシードは今もお持ちですか?」
 「えゝ持ってますよ。クリスマスに、貧民窟の子供達を集めて余興をやる時に、それを使ひます」

 話はさらに、K先生の初渡米の時のことに及んだ。
 K先生は丹波丸(五千噸)の三等で行ったのだが、賃銀ば僅か六拾圓であった。勿論、三等船客の検疫は今以上にやかましくって、K先生はトラホームのために、もう少しで内地へ送還されるところだった。
 「處が、私は一人の船員に助けられたんです。それは私が英語が出来るのを幸ひ、船中で通訳をして、その船員を助けておいたので、形勢の危くなった時、その男がHe is a good fellow!と一言証明してくれたので助かったのです。何しろ懐中にわずか四百圓持って、留學に出かけたんですから。そり時は心配で必配で……」
 米國諸大學の招聘で、堂々とアメリカヘ乗込む今日のK先生としては、感慨の無量なるものがあるに相違ない。

 DINNERはアイスクリームとマンゴーで終って、喫煙室(といっても煙草を吸ふ訳ではない)へ引揚げた。
 そこには計量器があった。O先生は逸早くそれを見つけて、それに乗った。つづいてK先生も彼も乗って見た。正直な計量器は次のやうな数字に針を指した。

  賀 川  一五〇ポンド
  小 川  一二一ポンド
  村 島  一一五ポンド
  成 瀬  一一二ポンド

 彼たちは船に乗ってゐることを忘れて打興じた。

 金子船長がやって来て、
 「村島さんのことを米窪さんから御依頼を受けてゐます。何なりと御用かありましたら仰しやって頂きますやうに」
と挨拶した。
 坂本勝君から送別の辞の無電が届く。
 船長にきくと、この航海と、もう一回前の航海とが、最も平穏な航海だといふ。なるほどさうだらう。十一日間の航海中、最も動揺が激しいといって教へられて来れ初日がこの穏やかさでは――。
 彼にさう思って、すっかり船よひの懸念を一掃して了った。
 「しかし、疲れたね、もう寝やう」

 九時すぎ、四人はそれぞれの部屋に引取った。成瀬氏は直ぐに寝入ったが、彼は容易くは寝つかれぬので、阿部先生から贈られた睡眠剤「ヂアール」の世話になることにした。
で、十時すぎには、彼もまた太平洋上に、内地の夢を夢見始めた。

     (つづく)