賀川豊彦の畏友・村島帰之(64)−村島「太平洋を行くー賀川先生に随伴して」(2)

 今回も「雲の柱」昭和6年9月号(第10巻第9号)に寄稿された続きです。


         太平洋を行く(2)  
         賀川先生に随伴して
                         村島帰之


    (前承)

     横 濱 埠 頭

 横浜駅で下車した一行の中、彼と杉山氏とは、桜木町へ行くK先生たちと別れて、駅の外へ出た。予ねて同駅に一時項けしてあった彼の荷物を受取るためであった。

 彼は西宮を出る時、三つの荷物を携えて来た。一つは小型のトランク、一つはズッックの折畳式トランク、一つは抱鞄だった。彼は旅行を容易くしやうとして、三つの入物を二つに縮少する為め、前夜、スーツケースを買って来てあったので、入れ替えを行った。その結果、拘鞄とトランクは節約されて、杉山君の世話で西宮へ送り還されることとなった。そして、スーツケース、折畳式トランク二つがアメリカヘ旅することになった。

 外では糠のやうな雨が降ってゐる。
 二人はタクシーを八拾銭に値切って、平安丸の出る第五突堤へ急いだ。
上屋附近のアスファルトの道が雨で洗はれて鏡のやうに光ってゐた。  フォードではあるが、彼を乗せた自動車は、バツカードのやうに揺れずに辷るやうに走った。

 平安丸は一萬二千噸の巨体を突堤に横づけにしてゐた。K先生見送りの二三の知り合の婦人の顔が彼に会釈した。

 雨に濡れたタラップを、彼は新調のホワイトシースを気にしながら登ると、そこにば義兄の平井大海氏が彼を待ってゐた。そして話してゐると、
 「いよう」
 意外な人の声が彼を捕へた。酒井勇氏といふ早大の先輩だった。
 「どうして知ったんだね」
 「今朝の新聞で知ったさ」
 「へえ、どこに出てゐた?」
 「平安丸乗船者といふ處に出てゐたよ。何しろ、商賣が暇だから、新間は隅々まで読むからね」
 酒井氏は軽く笑った。彼も釣込まれて笑った。彼のために取れてある一等キヤビン二〇三号は、Bデッキの恰度中央に、大理石のやうに白く光ったペンキ塗の壁の通路を三歩ほど脇へ折れた處にあった。入ロには彼の名とそして同室を約束してあった國際排酒聯盟の成瀬才吉氏の名が、ローマ字で記されてあった。

 片側は圓窓を通して海の見える、およそ八畳位の廣さの美しい部屋だ。中央には花模様の絨毯が敷かれて、その両脇に、白い鉄製のベットが置かれてある。頭部には、樺色の笠を被った枕電燈が、マホガニーまがひのチャンバーの上に取りつけられてある。
 ベッドの脚部の方には洗面器と洋服ダンスと電気ヒーターが設備されて、その壁面には円形の鏡がはめ込まれてある。
 彼のものとして取ってあったのは、その二つのベットの中のG――窓側の方だった。
 天井は一丈はあるだらう。白塗の鋼鉄にイボのやうな鋲が、まるで、龍騎兵の制服の釦のやうに打たれてある。そしてその中央に通風孔が三個、乳房のやうに突出してゐて、絶えず涼しい風が通るやうになってゐる。
 出火の場合に、その熱によって、自然にデッキ電気仕掛で報知するやうになってゐゐ、自動式火災報知器も取りつけてある。

 彼は、自分の部屋を一瞥すると、直ぐそこを去り、タラップを降りた。査証を受けるために水上警察署へ行かうとしてである。
 そこで、タラップを登って来るK先生と會った。
 「これから水上警察署へ行って来ます」
 「さう、僕は今来しなに寄って来ましたよ」
 二人はタラップの上と下ヘと別れて行った。
 折よくそこにあった人力車に乗って、幌をさせて雨中を水上署へ。
 署の手続きは簡単だった。只、旅券を見て、それを警官が寫し取るだけだった。

 約十分間で彼は水上署の石段を下りた。タラップの處まで来ると、またもやK先生に会った。
 「上屋で、みんなが祈祷会を開いてくれるさうだから行きませう」
 彼はK先生と一緒に上屋の方へ歩いて行った。
 桑港航路の浅間丸が横付けになってゐる上屋の二階には、既に多くの男女のイエスの友がK先生の来るのを待ってゐる。

 石田友治氏が司會して、會が始められた。讃美歌が歌はれ、聖書が読まれ、吉田源治郎氏の祈りがあった。そして司令者の指名で、吉田清太郎先生が、はなむけの言葉を一行に送るべく前へ出た。
 小声なので、彼は吉田先生の前方へ出た。先生に恰度彼一人に物語るかのように、彼の顔を見乍ら物静かな調子で語りつづけた。
 「西洋人は神性と人性とをハッキリと別のものとして考へてゐる。しかし、東洋人はその二つを一つのものと考へてゐる。そこに各々の特徴はある。けれども、神性と人性を一つと考へるにしても、われ等は常に幼児の如き心持を失ってはならない。われ等は神の前に幼児の如くあらればならない」

 先生の奨励の意味は大体そのやうだった。それに次でK先生が挨拶された。
 「七年前に、ここからアメリカヘ出立した時は、震災後、間もなかったので、この上屋には硝子もはまってはゐなかった。ところが今日は既に硝子がはまってゐる。しかし諸君よ、日本の硝子、窓には魂の硝子が未だはまってゐない。私は七年前、埠頭を出る時、上屋の硝子を入れておいてくれと叫んだが、今度は魂の硝子を入れてくれと叫ぶ」

 K先生の訣別の辞をききながら、彼は矢張り自分もK先生もー緒に送られるのだといふ気が起こらなかった。K先生の訣別の辞が終わって、みんながお辞儀をした。彼も、誰にともなく機械的におお辞儀をした。
 升崎外彦氏を始めとして、数人の兄弟の祈りがあった。使命を果して無事に帰る日を待つといふ祈りだった。彼はそれを感謝しながらきいた。

 祈祷会が終わって記念撮影がなされる。
 「村島先生、どうか前の方へ願ひます」
 抓み出されるやうにして彼は前へ出て、K先生と小川先生の間に立った。三人の両脇には、家政女學校の女生徒たちが並んだ。

 祈祷会に小一時間を取られたので、船へ帰った時には、もう見送り人の下船を促す銅羅が嗚ってゐた。
 タラップ附近は人で充満してゐた。欄干も客で一杯になってゐた。打揚花火のやうなテープが、突堤の人々との間に色とりどりの線を交錯させてゐた。

 彼が欄によって下を見ろと、そこは東日横浜支局長大森富氏の顔がニコニコして此方を見上げてゐた。その直ぐ傍らには、姻戚の海軍軍医古川譲治氏が手を振ってゐる。さらに彼の眼には、彼の愛してゐる甥の大塚聖太郎がわざわざ東京から見送りに来てゐるのまでを見落しはしなかった。
 これ等の人達は、上屋における祈祷会に彼が出席してゐる間、きっと彼を船室の彼方此方と捜してくれたに違ひない。彼は済まない気持になって、その一人々々にを振った。視線が會ふと笑って見せた。お辞儀をした。聴えないとは知りながらも声を掛けてもみた。 此方がした形に對し、先方もまた同じ形で返した。
 目が、手が、頭が、お互に唇の代用を勤めるのだ。

 イエスの友の一團は、赤字に白く荊冠と十字架をした会旗を中心にして集まってゐた。
 「賀川先生萬歳」
 数百本の手が、カソカン帽が、上に向って、葱坊主のやうに持上った。つヾいて
 「村島先生萬歳」
 集團の一番後にゐる小林バルテマイの音頭だ。彼はその萬歳に向って亀のやうに頭を振って見せた。
 大森東日横浜支局長が、彼に向けてテープを放り上げた。がコントロールを誤って、あらぬ方へそれて行った。そして、三度目に、五六人向ふの人の手に掴まへられて、彼の手に渡された。彼はそれをデッキに結びつけた。彼はそのテープを動かして、大森氏と結びついたことの喜びを示した。先生でも同じやうな表情を見せた。

 二度目の銅羅が鳴った。
 「では、御大切に」
 最後まで踏止まってゐた義兄の乎井氏と、終始、世話をしてくれた杉山氏とがいよいよ降りねばならぬ時間になったので、降りて行った。
 「村島先生」
 後を向くと、金釦折襟の税関吏のユニフォームを着けた大酉源太郎氏がニコニコしながら立ってゐる。
 「上甲板が空いてゐますよ。いらっしゃいませんか、K先生も行っておられますから」
 彼に大西氏の言葉に従って上甲板に出た。なるほど、そこには十人ぐらゐの船客しかゐない。
 彼がK先生と並んで欄干から顔を現すと、また萬歳の声が起った。そして讃美歌が歌ひ出された。

 また逢ふ日まで
 また逢ふ日まで
 神の守り
 汝が身を離れざれ

 船の上と下とのコーラスだ。

 K先生の手許には数個のテープがあった。K先生はテープを放ることを好まないのでその儘になってゐた。
 彼はそのテープを、下へ向かって放った。出来ることなら、彼の可愛い甥か、でなければ義兄にても捨はれたらと思って、その方向を狙った。が、最初の一つはイエスの友の諸君が巧く掴んでくれた。二番目、三番目のは雨でテープが濡れて、中途で切れて了った。

 小川先生の投げ下した一つのテープは、巧くK先生の愛児純基ちゃんの手に届いた。
 K先生と愛児との間に、テープの橋が渡された。
 またしても万歳の渦
 讃美歌の旋風
 手と帽子と旗の乱舞

 K先生に女學生たちの手から贈られて持ってゐた花輪を、その感激の渦巻の中ぺ投げ下した。花輪は色美しい小鳥のやうに。絹糸のやうな雨の中を飛んで、人間の草叢の中にかくれた。
 ワーッといふ喚声。
 東亜キネマの撮影班が台の上に登って、K先生を中心に、小川先生や彼の方にレンズを向けた。
 レンズが下から上へと動くのが見えた。

    (つづく)