賀川豊彦の畏友・村島帰之(63)−村島「太平洋を行くー賀川先生に随伴して」(1)


 今回は前回と同じく「雲の柱」昭和6年9月号(第10巻第9号)に寄稿された長文の旅の記録を収めます。


        太平洋を行く  
        賀川先生に随伴して
                          村島帰之

    東京駅頭

 一時間といふ時間は、必ずしも、常に同じ時間の内容を持つものではない。たとへぱ、今朝からの自分の動静を考へて見ると、それが朝から午後までの短時間のこととは、どうしても考へられない――。
 彼は今朝からのことを、映画のフィルムのやうに思ひ返し乍ら、さう思った。それは全く慌しい時間だったのだから。

 熱海の伊豆山千人風呂から、スーツケース一つ持って自動車に乗ったむ時、その新調のスーツケースに、NYKのラベルの貼られたのを見て、
 「僕はアメリカヘ船に乗って行くんだっけ」
 と自分で自分にいっては見るが、一向に「海外渡航者」らしい感激と昂奮が湧いて来ないのを、自分でも不思議に思ふほどだった。
 平静といふよりは、不感性なのだ。いゝや未だその気分になる時に至らないのかとも思った。

 平塚、大磯などの湘南地方を走る汽車中で、彼は彼が媒介をして婚約中のN君とS嬢のために、N君の母堂へ宛てて、結婚後、母子が別居しなければ、平和を保ちさうもないことを、鉛筆の走り書で認めた。
 「渡米の直前に、かうして友人のために悠々と手紙の書けることは、まだ自分が平静を失ってゐない証拠だ」
 さういった自己満足が、彼には感ぜられた。

 彼の汽車が横浜に着いても、彼と、前夜、彼を熱海まで訪問した杉山君の二人は、下車しなかった。なぜならK先生と彼の出発を見送るために、多数のイエスの友會員が、東京の駅まで来るので、彼にも是非東京駅まで顔を出してくれとの、イエスの友會員の要求を杉山君が熱海まで出かけて来て、彼に齎したからである。
 「洋行気分には自分でならないでも、周圖がさうさせてくれるんだな」
彼はさう思った。

 「来てゐる来てゐる。あそこにみんなゐますよ」
 東京駅の改札口まで来ゐと、杉山君は逸早くイエスの友會員の一團を見つけ出してさう 叫んだ。
 彼は急いでその方へ寄って行った。そこには小さなテーブルが置かれて「賀川豊彦、村  島帰之、小川清澄見送り受付」といふ紙の札が貼出されてあった。

 見知り越しの顔が、沢山そこには並んでゐた。多くの手が、右から左から堅く彼の手を掴んだ。
 「御機嫌よう。からだを気をつけてね」
 「お目出度う。うらやましいですな」
 「いつお帰りですか」
 「ずうっとK先生と一緒ですか」

 彼の手か掴んだ大勢の人が、口々にそんな事を訊いた。彼は機械的に返事をした。そして誰が何をいったのか、直ぐ後から忘れて了ってゐた。佐竹画伯がニコニコしてゐる。後藤安太郎兄が、いつの間にか彼の靴を持ってゐてくれる。木立義道兄が、彼等の代りになって挨拶を受けてゐてくれる。田井さんがゐる。濤水兄がゐる。等。等、等――

 彼はその群衆の中に、自髪の吉田清太郎先生の和服姿を見出して、つかつかとその方へ走り寄った。そして双方の手が握り合はされた。
 「どうもお見送り有難う存じました」
 彼が挨拶すると、吉田先生は、彼の耳の傍ヘロを持って来た。彼も耳をその方へ寄せて行った。
 「祈りつづけなさい。だが、祈りだけでは寂しい気がします。だから、必ず感謝をしなさい。感謝をすると、心持が開けて来ます」
 「有難う存じます」
 老先生の言葉は短いが、彼の耳にはアトラクケープに響いた。なるほどさうだと思った。
 老先正は、さういって了ふと、直ぐ群衆の後の方へ姿をかくした。

 見送りの挨拶をする人が次から次へと続いた。彼は昂奮した自分を感じた。
 駒ちゃんといふ、以前、元気だったタイピストの方が、二人の子供を連れて、いゝママ振りを見せて送ってくれた。
 浅野博士夫人が、彼が既に忘れてゐるかも知れぬといふので、名刺を差出して挨拶された。
 「もう八年前になります。東山荘でお世話になりましたのは」
 夫人が、彼の講演を聞いた八年前の修養曾を思ひ出して拶拶された。

 タッピング夫人が軽く握手をした。
 「クリープランドでは是非浅野さんとフライデルさんにお逢ひなさい。善い人ですから」といって名刺の紹介状をくれた。
 「結構なことです、どうか御健康で」
 禁酒會の會長の林龍太郎氏が、慣れきった口調で挨拶した。
 「先生、御無事で」
 イエスの友會の青年たちば、とっかけ、ひっかけ元気に手を握りに来た。その中には、彼がその名を忘れてゐる人達も多かった。
 
 「賀川先生はどうしたんだらう」
 一巡彼との握手が済むと、賀川先生の到着の遅いのに気を揉む青年の声が聞えた。
 時計は、汽車の出るまでにもう二十分とはないことを報じてゐたからだ。
 先生を見送るために、本所の家政女學校の生徒の一群が、遠慮勝ちに遠巻に巻いて、たたずんでゐた。
 「グリープランドヘゐらっしったなら公園と社會事業、學校だけは是非見てゐらっしゃい。それから、ニューヨークの児童虐待防止事業も」
 アメリカから帰朝して、東京市大塚市民館長を勤めてゐるU氏ばさういって、彼に注意した。

 群衆が波のやうに動いた。K先生が到着したのだ。先生に向って、握手の手がタイプライターのキ―のやウに集まって行く。
 「村島さん、いらっしゃい、一緒に寫真を撮らう」
 K先生の高いペースが、天井の高い駅構内に響く。

 新會社の寫真班がK先生をスナップしやうといふのだ。K先生は彼の右腕を、しっかりと抱えたo
 寫真班員の注文で、二人の両脇には本所の東京家政專修女學校の生徒が並んだ。
 箱形の寫真機が三四台、彼の方を向いて大きい眼玉を光らせてゐる。

 彼は自分が新聞記者であることを忘れて了ってゐた。彼にとっては、アダチーブからパクシーブヘの転換だった。いつもの彼なら、寫真班員に指圖して撮らせる役柄だったからである。
 「萬歳といって手を挙げて下さい」
 寫真班員は女學生達に命令するやうに注文した。女學生たちは従順にその通りにした。フラッシュが焚かれた。萬歳の声はそれでも暫くはやまなかった。

 K先生の夫人が純基ちゃんを連れて見えた。
 「いろいろお世話になります、どうかよろしく」
 「いいえ、こっちがお世話さまになりますので」
 構内の群衆が改札口の方へ引潮のやうに引いて行く。発車時間が近づいたのだ。

 彼もその潮に浚はれて、どこともなく運ばれて行くのだった。彼は手に荷物も持ってゐない。誰かが持ってゐて呉れるのだろう。彼は横濱行の切符も持ってゐない。彼がそれに気づいて躊躇してゐると、群衆を掻きわけて杉山君が切符を持って来てくれた。彼に黙ってその儘。改札口を通った。

 「是非會ひ度かったので、いつもあなたの泊ゐF旅館へ三遍も電話をしたんですよ。「愛の科学」は今、先生からお話しが出たから早速重版します。一つ推賞文を書いて下さい。それから「カフェー」も出したいのだが」
 出版屋の福永重勝君が彼と並んで歩きながら商賣上の話をした。彼は要点丈け返事をした。
 「実は熱海の宿屋で「カフェー」を書直しして一昨日誠文堂へ郵送したばばかしなんですよ。尤も「カフェー」をその儘じゃなくて、盛り場の事を主にしたんですけれど」

 彼は大阪を出発する時、まだ全部整理の出来てゐなかっむ著作を、妻の郷里の熱海伊豆山の旅館で、整理して了ったのだった。
 船は、最初、九日に横濱を出る筈だった。それが、事故のために一日延びて十日となったので、彼にその余裕の時間を静かに休養し乍ら筆をとったのであった。

 「盛り場考現學」(本の名は未だハッキリきまってゐないが、そんな名にするつもりで彼はゐる)の外に、社會科學講座から頼まれた「プロレタリヤ犯罪學」を五十枚書くつもりだったのが、中一日を鎌倉に病臥中の九鬼男を訪れたり、真鶴に義兄平井大海を訪問したり、熱海に奮友久留弘三氏を訪れたりして、到頭牛分しか書上げられなかった。未了の分は已むを得ず船に持込むことにしてあった。
 「そんな訳で「カフェー」の重版は一寸困るから、アメリカから戻ったら何か書きませう」
 彼にあやふやの返事をしてしまった。

 プロットへ行くと「春秋社」に居る横関愛造氏の顔も見えた。彼は氏に對しては兄貴のやうな敬愛を持ってゐる。
 彼が早大の卒業試験の直前に喀血して倒れた時、氏夫妻が親身の世話をしてくれたことは、彼の生涯感銘するところなのである。
 氏は「死線か越えて」を改造此から出版した人である。

 氏も彼に出版の話をした。しかし、それは彼に関したことではなく、K先生が、エール大學で講演する「クリスト伝」の日本訳をその社から出さうといふのだった。

 賀川先生を見送りに来た講談社の辻堯格、根岸元治両氏と、同社「雄弁」の記者岩山行雄氏が
 「お帰りになったら、何か書いて下さい」といって、挨拶した。

 電車に乗り込んだ。各シートは一行の見送りで全く塞がってゐた。
 遅れて乗込んで佇立してゐる彼に、一人の友が席を譲ってくれた。賀川先生と夫人と純ちゃんは彼の背後の席にゐた。
 電車は、プラットホームに多くの顔を残して動き出した。萬歳の声も一緒に残して――。

 そこヘ一人の立派な肉体を持った洋装のレディが現れて来てK先生に挨拶した。
 「あれ、高島愛子さんよ」
 傍にゐる吉本健子さんが、彼に囁いた。みんなの視線がその方に寄って行った。彼も其の方を見た。一時、世にときめいた映画俳優の輝かしさは失せて、その代りに、もっと高雅な淑やかさがこれに代ってゐるやうに思った。
 愛子さんは大崎君に引かれて、彼の前へやって来た。そしてその紹介で彼の前で一揖した。
 「いろいろとお世話様になります。どうかよろしく」

 新聞記者としては、K先生のカムレードとしてか、どっちをいってゐゐのか列らないが、兎も角挨拶を返した。
 大崎君は、彼女が父高島北海の筋を受けて、画の上手なこと、国際画展に入選したこと、その画を大妻タカ子さんか買ってくれたこと、K先生の近刊「ざくろの片割れ」の装丁をしたこと……などを語った。彼女もその間に言葉を挾んだ。
 「出品画を買って頂いたのは、値段が安かったからですわ」
 品川で横関氏は下車した。
 「からだを気をつけるんだよ」
 彼はそれが兄事する横関氏の言葉だけに、しんみり聞いた。

    (つづく)