賀川豊彦の畏友・村島帰之(62)−村島「素晴らしい賀川氏の人気―トロントにて」

 今回からは「雲の柱」昭和6年9月号(第10巻第9号)の村島のレポートを取り出します。

  この巻の冒頭に「カナダ・ビー・シー州牧師一同(世界基督教青年会大会開催の日・トロント市にて)」と書かれた一頁分の次の写真が掲げられているので、まずこの写真をUPします。



       素晴らしい賀川氏の人気       トロソトにて七月三十一日
                        村島帰之

 カナダのトロントに開かれたYMCAの世界大會には四十箇國の代表が集まってゐる。そして毎食事時には、各國代表が入交って食事を摂るのだが、隣合った異國人が「お前はどこか」と訊くから「日本だ」と答へると、彼等は殆んど型のやうに「カガワのゐる日本か」と訊き質す。

 実際「賀川豊彦氏の人気ば素晴らしい、おそらくは日本人の誰もが予想しないほどの素晴らしいモテ方だ。

 彼が太平洋の船路を了へて、ジヤトルに上陸しやうとした時、米國の移民官と同伴して来たドクターは、彼の眼を診て「上陸不許可」と宣言した。それは決して無理ではなかっむ。彼は十数年の久しきに亘る貧民窟生活によって、トラホームに感染してゐたからだ。が移民官は「ドクター・カガワ」の名を知ってゐた。彼はその医師に對して「彼は日本で最も有名なる演説家だよ」と説明し、断乎として医師の診断を斥け、上陸を許してしまった。

 シヤトルにおける二回の講演は満員の盛況だった。特に浸礼教会での外人に向っての説教には無慮二千五百の聴衆か集め、満員のために入り切れぬ聴衆が頗る多かった。

 ヴァンクーヴァ―ではただ一回、内外人に向っての英語説教を試みたが、これまた満員で、説教の終わると共に聴衆は期せずして起立してかれに敬意を払った。或る老婦人は感激の余り「私が母から譲られた財産の一部を、お前の事業に使ってほしい」と申じ出た。

 トロントへ着いて、YMCAの大会に出てから後のかれも、各國代表を通じてのの第一の人気者だ。食堂へ出れば、かれを見た同席者が一斉に拍手を以て迎へ、路を歩いてゐるとサインねだりの包囲攻撃だ。七月二十八日夜かれの試みた特別講演「神による青年の冒険」は、朝からの面會者の殺倒で疲れてゐて、決してかれとしては善い出来ではなかったが、三千の聴衆に一大センセーションを起し、翌日の新間は「トロント始まって以来のセソセーションだった」と報じた。彼の説教中記者の背後にゐたスコットランド人は
 「カヤワは現代世界における驚くべき存在だ」といって絶賛した。そしてその後で、
 「カガワの年齢に、二十五歳ぐらゐだらうか」といった。後に隣して坐った司會者のモット博上が六尺を超ゆゐ巨漢であるのと比較して余りにも彼が小さく見えたからであらう。

 各種の會合でば、決ったやうに彼は卓上演説をさせられた。彼は、木綿の貳圓五拾銭の 「賀川服」に短軀を包んで立って、吼えろやうに調子の高いスビ―チを試みた。

 予定以外に彼の説教を依頼して来る向が頗る多い。彼のためにアメリカにおける講演旅行のスケジェールを作りつつあるモット博士は、堆高く積まれた各人學その他からの招聘状を示して「まんべんなくこれ等の招聘に応じるなら、少くも二年間はアメリカに滞在して貰はねばるゐまい」
 といった。しかし、それは決して誇張ではなかった。その中には賀川氏の母校であるプリンストソ大學からのもあった。またモット博士の母校コーネル大學からのもあった。しかし、ごれ等はすべてモット博士によって拒絶された。スケジュールは十月彼の出発までギッシリとつまって一杯だからである。

 それでも、決して少くはなかった。例へばグリーブランドでは急にモット博士と共に、ラヂ才の放送をすることとなった。モット博士といへば米國のクリスチャンのナンバー・ワンだ。これによって見ても、賀川氏が少くともモット博士と同じ程度に價値づけられ、尊敬されてゐることが判るらう。

 各地において試みる彼の説教および講演に決して米國人の耳には愉快なものではないに拘らず、彼等は足を踏みならして喝采した。彼はアメリカの軍備を論じ、日本人が決して、戦ひを好む國民でないことを絶叫した。自由か尊ぶアメリカが、なぜ日本人の移住の自由を蹂躙するかと叫んだ。また彼はアメリカには「天國アメリカ」と「地獄アメリカ」とがあると説いて、地獄アメリカが日本にまで反映して如何に日本を毒しつつあるかを力説した。そして、この行詰った世界を救ふ道は、國際的に魂と魂とが結びつくことであるとし、経済的苦難を打開するためには、各国民が各種の協同組合運動を起こすべきだと説いた。

 「僕はアメリカ人に、おもねることは断じてしないつもりだ。その非は胞くまで糾弾してその反省を促す。それが僕の使命だ」
 と彼はいってゐる。

 賀川氏は七月三十一日にカナダを去り、八、九、十の三箇月に亘ってアメリカ各地で説教を試みるが、恐らくはカナダにおける以上にセンセーションを巻き起すであらう。アメリカ人は、彼とガンヂ―とを對立させ、光はこの二人の哲人を通して来ると信じてゐるからである。