賀川豊彦の畏友・村島帰之(59)−村島「路傍の行き仆れ」

 今回は「雲の柱」昭和6年8月号(第10巻8号)気寄稿された論稿をテキストにしておきます。


        社会研究
        路傍の行き仆れ                        村島帰之

     都に憧れて

 大阪は風船玉のやうに膨れて行く。終りには、パチンと音を立てて、はち切れるであらう。試みに、梅田駅頭に、川口埠頭に立つならば、汽車の到着する毎に、船の着く毎に、吐き出されて来る夥しき上阪者を見るであらう。彼等の中には数日後、大阪に背を見せて去る旅人もあらうが、その儘大阪に止って、煤煙たなびく街の中に、生計の道を立てやうとする者も多いに違ひない。

 大阪は天下の商工業の中心地だ。大阪へ行きさへすれば、何かしら仕事があるだらう。少なくとも、農村でお粥をすすってゐるよりは、善い『目』が出るに違ひなからう。また、百歩を譲って、一切の善い『目』から見離されやうとも、華やかな都會に生活の出来るといふ事だけでも、生き甲斐があらうではないか……かう考へて、草鞋を繩ふ手にバスケットを提げて大阪へ、大阪へと、憧れて来る男女の、さても多い事よ。

 数年前の調べではあるが、大阪をうしろに、他へ去って行く者が百人を数へる時、一方、他から大阪へ這入って来る者は、五百五十四人を算したといふ。しかし、これ等の『都會へ憧れて来た者』の中の何パーセントが、果して、その目的を達したであらう。否、目的は達せられないまでも、少なくとも、幻滅を感ぜすにすんだらう――。

 都大路に行仆るる者の近年漸増の趨勢にあるといふ事実は右の『都に憧るる者』の末路を語るものではあるまいか。

     餓死線上の人々

 社会主義者はいふ『俺等に残された権利は只一つ、それは餓死するといふ権利だ』と。しかし、権利として行使すろ餓死なら、権利としての生存を主張して、餓死せすに済ますことも出来やう。しかし、生活苦から、必然的に餓死する者は、たとへ見残した夢を追はうとして藻がいて見ても、黒い冷い社會の魔手は、彼を頭から押へて、墓穴深く押し込んで了ふのだ。

 明治五年十月の太政官令によると
 『川に陥りし者、又は道路にて急病人あるを見懸けたる時は、人情として救助の手を尽すべきは当然なれども、他日、煩あらん事を慮り、之を忌みて省みざる者あり、向後、此の如き場合に於て懇ろに救助の途を尽すべきは勿論、人命を助くるは重大の事につき、その事情により屹度褒賞すべし』
 と記されてある。褒美をやらねば、行朴れを救ふ者がないといふ、さもしい人情と世相を、此の法律の一節が何より雄弁に物語ってゐる。然し、人心はその頃よりも更に浮薄の度を加へた。褒美位では行朴れを収容する篤志家がなくなった。之に於てか市町村が是を引きうける事となった。行旅病人取扱法の第二條『行族病人は共の所在地の市町村長これを救護すべし』とあるのがそれである。それならば、一体、行旅病人とは何か。曰く『歩行に堪へざる行族中の病人にして療養の途を有せす、且つ救護者なきものをいふ』−―と、取扱法の第一條が定義を下してくれてゐる。換言すれば、行旅病人は餓死線上にある、よるべなき病める者の謂である。彼は生活苦に疲れ果てて、最早浮世の荒波を乗り切る気力なく、まさに溺れ死なんとしてゐる者である。大阪市内での行仆れは悉く区役所の手を経て、弘済會の慈恵病院に送られる事となってゐるが、今行放病人として同院へ担ぎ込まれた者の数と、そこで死んだ行仆れの数を掲げると左の通り。

       収容入員  内死亡者 
 大正三年   914     217 
   四年   809     168
   五年   742     165
   六年   810     194
   七年   1008     213
   八年   815     116
   九年   827     147
   十年   859     247
  十一年   955     126
  十二年   897     164
  十四年   1137     301
 昭和三年   1141     333

 即ち、毎年行仆れて、慈恵病院に送らるる者の数は千名を越え、しかも、その数は逐年増加の勢ひである。

     早い目の行仆れ

 上山弘済會長の語るところでは、行族病人の増加は、生活苦の深刻化による事勿論であるが、今一つには、数年前の如く労働需要の多くないために、病苦を忍んで働くといふ者が減じ、『同じやうに働けぬのなら、一層、仆込んで病院の世話になる方が……』と、早期に行朴れる者が多い事も確かに一因だらうといふ。この事は、行旅病人の恢復期を早からしめ且つ死亡率を減退せしめる結果となって、甚だ好しい事ではあるが、また以て、生活苦の如何に深刻化しつつあるかを物語る一資料ででもあらう。

 世の中に、行旅病人の死ほど、物の哀れを感じさせられるものはないであらう。肉親者及び故奮の温き看護の中に息を引取るといふのではなく、わが家ならぬ施療室において、さびしく寂滅して行くのだ。それは、たとへ屋根の下で眠るとはいへ、事実は、広野の中の死と殆ど選ぶところがない。その行旅病死者が、早期に収容される事によって、幾分でも減るといふ事はまことに喜ぶべき現象といはねばならぬ。この事実の影には、行族病者の取扱に関し、方面委員が、迅速なる處置を講じつつある事実をも學ばねばなるまい。

 いづれにしても、一日に必ず三人、四人のわが同胞が、大阪のどこかで行朴れてゐるのかと思へば、われ等は感慨を禁じえないものがある。

 行仙れの場所は、さすがに船場、島之内の如き富裕区には稀れで、釜ヶ崎や今宮を控へた南大阪と、長柄のある北大阪が大部分を占めてゐることも当然であらう。

 性別に見ると、さすがに女は少く、八割七分までは男子である。女は行仆れずとも、その以前に何とか救ひの途が講ぜらるるのであらう。

     常習的行旅病者

 なほここに注意を要する事は、これ等の行旅病人中には、職業的の行旅病者のある事である。彼等は働きに倦いた時、物乞ひにうんだ時、救助を予想して自ら行仆れるのである。彼等は常習行旅病者とでもいふべきであらう。彼等は各府県の慈恵病院を渡り歩いて『どの府県は待遇が善いから、倒れるならあそこが善い』などと、その経験を語り合ひ、また互に文通して病院の待遇状況を報じ合ふといはれる。何の事はない、無料放館の選り好みをするのだ。

 また中には同じ病院に二度も三度も収容される事は、さすがに面はゆい心地がするのか(彼等の二割六分までは二回以上り入院患者である)初めは中村信一と称し、次は中村信三郎といひ、三度目には中村信之助と変名した者のある事を、葛野数聞氏の記してゐるのは興味が深い。変名が中村から中井へ、信一から信三郎、信之助へと、小変化をなすだけで、思ひ切った変名の出来ないのも、犯罪者の偽名の場合と同一で、人間性の比較的善なるを証するものであらう。

 なほ行旅病者は、病気が恢復しても、仕事の口の容易に見つからぬ事を知ってゐるので、兎角、退院を喜ばず、医師もたって出て行けとも命ぜられぬので、昨今は、新入の増加と相俟って、慈恵病院は押すな押すなの繁昌。礼拝所や休憩所まで病室にして、一人でも多く収容しやうと努めてゐるのだ――と、上山弘済會長は、商賣の繁昌しすぎる事を微苦笑しながら物語った。

     行仆れのなすり合ひ

 しかし、常習行族病人や、居据り病人の存在は、喜ばしい現象ではないにしても、生活苦の今日にあっては、恕すべき点がないでもない。窮民が救助を受けることは、むしろその権利ともいふべきだからである。

 ところが、ここに恕すべからざる事実がある。それは行仆れに會った開係町村が行仆れに倒れ込まれる事によって生する負担を怖れる余り、行仆れを、ひそかに他町村の管轄へ運ぶ事である。これは啻に町村許りでなく、所轄署の巡査が、手続の煩労を厭ふでこれをやることがある。そのために、脚気衝心その他の行仆れで、手遅れとなり、助かるべき命が、管轄地のなすり合ひのために時間を経過し、つひに助からなかったといふ例は、屡々聞くところである。甚しきに至っては、これに電車賃を与へて『一刻も早くこの土地を出発せよ』と慫慂する向さへあって、電車到着と同時に倒れたといふ例さへある。何といふ冷たい人情であらう。

 行旅病者の年齢は四十以上五十歳以下の者が最も多い。これは労働に疲れ、生活に疲れ、かてて加へて初老の体に病ひを受けて心は如何にはやっても手足が言ふ事を聞かず、見すみす路傍に仆れて了ふ者である。これに次では二十歳以上二十五歳未満、二十五歳以上三十歳未満の働き盛りの連中である。これは都會にあこがれて来は来たものの、仕事はなし、かてて加へて病のために、青雲の志を延ぶるに由なく、あはれにも仆込んで了ふ人々である。今、収容者千人の年齢別を示すと左の通り

    十八歳未満             50
    十八歳以上二十歳未満        44
    二十歳以上二十五歳未満      159
    二十五歳以上三十歳末満      130
    三十歳以上三十五歳末満      106
    三十五歳以上四十歳未満       76
    四十歳以上五十歳未満       197
    五十歳以上六十歳未満       114
    六十歳以上七十歳未満        62
    七十歳以上八十歳未満        48
    八十歳以上             7
       計             1000


     果敢なきI世の夢

 然らばこれ等の行旅病者は一体、何處から、叉何を目的にして来たものであらうか。言ふまでもなく、地元の者が最も多いが、地元の大阪を除いて最も多いのは朝鮮である。これは大に注目に値ひする事ではあるまいか。近時、内地に移住する朝鮮労働者の数は夥しきものがあり、大阪だけでも二萬を超えると云はれてゐるが、折角田地を賣って旅費に代へ故郷をはるばると出稼ぎに来た彼等にして、初志を貫き、幾許かの金を抱いて婦らざるのみか、所持品の悉くを失ひ、薄情な内地人の間に行倒れ、剰へ、空しくなる者があるとは――。

 今、行仆れ千名中、最も多いものをあげると、大阪の一三四名を筆頭とし、朝鮮の七三名これに次ぎ、以下東京、兵庫、京都、奈良、愛媛、廣島、鹿児島、石川、高知、和歌山、三重、香川、徳島の順である。

 彼等は朝鮮から、近畿から、四國から、何を目的に大阪へ来たのであらうか。中には「四國巡礼の途次」といふものもあるにはあるが、それは九牛の一毛に過ぎない。大部分は成金を夢み、立身出世を空想して、飛出して来たものである。

 来阪の目的は左の通り。

            男      女      計
求職のため     125      39      164
労働のため     156      −      156
徒弟職工       78      5      83
商業見習       42      −      42
旅行の途中      31      5      36
工業見習のため    25      4      29
営業のため      23      −      23
不詳         214     28      242    
本籍及永住者     156     37      193
親戚知人を頼りて   24      11      35
    計       874     192     1003
  
     職業、教育、病気 
 彼等の職業は多種多様ではあるが、要するに凡べてこれ社会のドン底において営まれる筋肉労働ならぬはなく、就中、職工手傅、日傭労働か多い。即ち職工を筆頭に仲仕、馬子、日傭、大工、左官、商業、農業、僕婢、按摩、行商、船員、料理人、車夫、店員、遊芸人、手内職、仲居、理髪業、易者、工業、運転手、僧侶、三助等である。

 彼等の教育程度は四割までは尋常卒業以上で、文盲は一割四分である。
 宗教は一般に第四階級の人に最も多い真宗が三割八分を占め、これに次いでは浄土、真言禅宗、法華の順。基督教は千人中十二人しかない。

 次に彼等が直接行仆れの原因をなした病気の内容は如何といふに、最も多いのは脚気である。これは地方からの出稼人が所謂『土になれぬため』『水になれぬため』にかかるところのもので今主なる病名を記すと左の通り。

脚気     144      肺結核     132
胃腸     99      脳神経系統   97
皮膚骨関節  78      気管支     40
肋膜     33      心臓      32
脊髄     28      梅毒      23
生殖器    22      精神異常    22
腎臓     18      眼       13
喘息     11      モルヒネアルコール中毒  9
腫瘍      9      下疳横?     8
老衰      7      癲癇       7
                   (以下略)

    酒とモヒ中毒

 彼等の中には、酒呑みが少くない。昭和三年度の収容人員二百三十名中(重症患者を除く)百二十六人までは酒を嗜む、つまり、彼等の半数以上は酒を吞むので、行族病人として収容されてゐる間は、一杯の洒と雖も与へられない事は勿論だが中にはその禁を犯して潜かに外出し、酒を呑もものもあるといふ。或時は五十過ぎの行旅病女が、女だてらに白昼、病院を脱出して附近で酒を呑み、へべれけとなって、病院門前の溝に落ち込んで大騒ぎを演じたといふエピソードさへあるといふ。

 尤も、さうした極端な例は別として、大体は毎日二合ぐらゐの見当である。彼等にとっては、酒をグイとやる事によって、一日の労苦を忘れるといふのであらう。

 酒以上に問題となるのは、モヒ中毒患者である。大阪には三千名に近いモヒ患者がゐるといはれるが(そしてその大多数は朝鮮人)ヨボヨボの中毒者をすき好んで雇ふ者もなく、窮すれば掻ツ払ひを働いてモヒに換え、モヒが切れれば生ける屍の如くに街頭に横ってゐる。

 これ等の患者にして行旅病人として慈恵病院に送られて来る者も相当の数に上る。病院では抵抗療法により、モヒ量及注射回数を漸減して中毒を治癒する方法をとってゐるが、彼等はモヒ減量の苦痛に耐えかねて暴れ出し、医師が已むなく定量を注射してやると、直ぐに脱走するといふ始末である。殊に、その脱出に当っては院若くは入院患者の金品を窃取して行くのが常で、病院としては強制治療の設備でもするのでなければ、モヒ中毒者の撲滅は望まれないといって嗟嘆してゐる現状である。

 これ等の行旅病人中、幸ひにして治癒して退院する者は幸ひであるが、不幸、既に手遅れで、冷たい病院のベッドで永眠する者は全く悲惨である。彼等の内の約半数は本籍不明若しくは仮令判明してゐても引取人なきために親戚の懇ろな弔ひも受くる事なく、市町村役場の手で、仮埋葬に附せられるのである。嘗ては青雲の志を抱き、多くの知人に送られ、郷関を辞したものが、その骨をさへ拾ふ者なく、異郷の土に葬らるるとは。
 まことに、都會は人生の墓場である。