賀川豊彦の畏友・村島帰之(58)−村島「瀕死の丁稚制度」

 今回は「雲の柱」昭和6年7月号(第10巻第7号)に寄稿された次の論稿をテキストにして収めます。


       社会研究
       瀕死の丁稚制度
                         村島帰之

    丁稚さんの都

 大阪市のマークは「みをつくし」であるが、それは、大阪が海に面してゐるといふ事以外に、殆ど何ものをも象徴してはゐない。大阪市の特色を、より適切に物によって象徴しやうとすれば、むしろ「算盤」を以てするにしくはないであらう。

 然らぼ、誰が何といったって、大阪は天下の算盤の都である。政府が金解禁の肚をきめれば、どこよりもまづ大阪へ大蔵大臣閣下が自ら出向いて、諒解を得なければならぬ商業の中心地である。

 胸算用を置いて見るが善い。市内に本店を有すろ會社数四千七百、その公称資本金、勿驚タンク參拾壹億貳千萬圓、持込賢本金貳拾貳億圓、それも五萬圓足らずの小資本の會社は資本金總額から見て、全体の一割にしか過ぎないで、千萬圓以上の大資本の會社六十八社を算し、總資本總額の六割を占めてゐゐといふ豪勢振りだ。

 更にここを中心として集散する貨物は貳千參百萬噸、六拾貳億圓に達し、納税額ぱ國税のみでも六千萬圓を超える。我國のコンマーシャリズムは、この大阪を無視しては、到底存立することが出来ないといっても過言ではあるまい。

 しかし、大阪の衿りは、木材で作られた「算盤」と、鉱物で鋳造された「金」そのものではない。それを運用するとことの「人」――大阪商人になければならない。そして、今後は知らす、今日までの大阪商人は、実に茲に説明しやうとする丁稚制度の下に人となった人々が多いのだ。換言すれば、大阪は丁稚と丁稚上りの町であるのだ。

 若し大阪市のシンボルを物によらす、人によって象徴するとしたら、それはまさしく丁稚でなければならない。

    丁稚とは誰ぞ

 丁稚とは、いふまでもなく、商家に使用される小童の謂であろ。これが語源については宋の宋敏求の春明退朝録に左の如く記されてゐる。
 呉正粛言、律令有丁推、推字不通、少壮之意、当是丁稚、唐以大帝諱避之、損其点畫云
 
 即ち「丁推」から「丁稚」に変ったもので、少壮の者といふ意味に外ならない。なほ丁稚の概念を明瞭にするため大日本百科辞典を要約するならば、丁稚は
 一、将来独立営業をなす目的を持って
 二、若干年月を主家に起臥し
 三、業務に必要なる知識、枝能を修得する
ものである。
 
 これを一般労働者に比較すると、第一、労働者は明かに賃金を取得することが目的であるが、丁稚は技術の習得が目的である。即ちこの点において丁稚は一種の実業敢育機関たる性質をもってゐる。第二に、労働者と資本家とは飽くまで對等契約の雇傭開係上に立ってゐるが、丁稚と主人とは主従関係に置かれてゐる。この二つの特質のために、丁稚の仕事に、一般労働者の如く職分が限定されてゐないで、店の雑用一切は勿論、女のする家事をさへ命ぜられ、夜間に至っては読み書きを教へられるといふのが常であろ。戸外にはデモクラシーの風が吹いてゐても、彼等だけはなほ依然として主従関係の下に立ってゐる。風呂も主人及び家族の這入った後でなけれぼ人浴することを許されない。老人や番頭や、さては主人のこどもの暴戻の鞭にも甘んじなけれぱならない。「酷使は訓練なり」といふ諺に丁稚制度を固守する人々の金科玉條とするところなのだらう。近松の「お夏清十郎」の一節に、手代清十郎の述懐とて、「十一才の弥生の花、いろはとも、ちりぬるとも知らぬ者の、これまで算堪商売読み書きの、硯の海より山よりも、優つたゐ御鴻恩、拳一つあたらぬ身が、如何なる月日か今日の今日、主従の縁切る、如何なろ神の咎めぞや、今一度旦那の顔・・・」とあるのなどは、丁稚の主従関係を最も善く言ひ現はしてゐるといへやう。

    丁稚制度の沿革

 大阪は、その丁稚の都である。丁稚は商業としての大阪の代表者である。その方面の研究の泰斗である八濱徳三郎氏の推定では、市内にある丁稚の数は本町の太物商を筆頭とし、道修町薬種商久宝寺町の小問物商、上町の古銑商、御堂筋の古着商。靫の雑穀商等に七萬人を下らぬだらうといふ。そして在来の大阪商人の大多数はその丁稚上りであるとすれば、大阪における丁稚の努力はまた偉大なりといはればならない。

 大阪の丁稚の沿革について八濱氏の記述を基として、左に記さう。

 天正年間、豊太閣は大阪城を築き天下の覇権を握ると共に、大阪をして、商業上の大都市たらしめんとし、伏見、京、堺の商人を招いてこれに授くるに「株」を以てした。これは一種の商業上の物権であった。降って元和年間、諸藩の御蔵屋敷を大阪に置くに及んで、この株制度は次第に拡張され、魚商、竹商、材木商、米穀商、木綿商、綿商、砂糖商、鉄商、肥料商、両替商、薪炭油商、漆商等は何れも商株に編入せられた。商株には御免株と願株の二種があった。甲は多く公用を辨ずる御用商人で、乙ぱ冥加金を納めて公儀の免許を得た商人であった。そして此株の継承及び加入の條件は、唯株仲間の店舗の奉公人に限るの掟であった。此の商株制度が丁稚制度の起源である。即ち丁稚制度ぼ商株継承に胚胎せる者で、その目的は将来「株」の相続者、若くは仲間を得るが為である。彼等は丁稚の課程さへ修了すれば、直に商株の継承叉は加入を得て、一人前の商人となる事を得た。然し元来商株は独占的のもので、丁稚に對して悉く之を譲ることが不可能なので、其の条件として丁稚の奉公年限を長からしめ、且つ成業後も通番頭として仕へしむることとした。商株仲間の繁昌は多敷の丁稚を使用せしめ、多数の丁稚の使用は其の使用の年月、能力の優劣に依りて待遇を異にさせた。之れ即ち丁稚、手代、番頭、通番頭等の階級を生ぜし所以である。通例丁稚は子飼即ち十歳前後で雇はれ、初めば煙草盆の掃除、庖厨の役使、主人の従僮等専ら家内の雑役に従事し、稍々長ずるに及んで商用の走使を為すの順序で、此の時代は本名か呼ばれず唯「子供」と呼ばれる。次に十五六歳になると半元服となり、額に角を入れ、半人前と見做し、幼名を廃し、本名の頭字に吉或いは松等の実名を附し、長吉叉は長松など呼ぼれ、荷造其他の商務に従事し、手代の事務を手傅ふ。次に二十歳以上になると元服を許し、羽織の着用、酒、煙草、表附下駄を許し、何七何助の実名を以て呼ばれ、番頭の指揮の下に記帳、出納、顧客の応接、賣買等専ら商業上の執務に当らせられる。斯くて手代として数年の勤労を積み、年齢三十歳前後になると、始めて番頭の格に昇進し、主家の商業上の全権を委托せられ、外部に對しては公然主人を代表する。しかし之等に維新前の丁稚制度の状態で、維新後は封建制度の破壊と共に「株」制度も破壊せられ、丁稚養成の目的たる「株」の継承は「資本」の分与と変じ、商業経済の発達と共に丁稚制度も発達し、単に商業見習人たる丁稚は、今や主人のために労力を提供し労銀の為に働く労働者と化さうとしてゐるのだ。

    番頭、手代、丁稚
 それならば、現在における丁稚の実情はどうであるか。大阪市社会部調査課では昭和二年末市内呉服店員約五千名について調査し、また続いて昭和三年九月、市内薬種店員約二千名について調査したが、主として、その報告書に基いて丁稚の現況を記して見る。

 店員は普通番頭、手代、丁稚の三階段に区分されて、その昇進課程や仕事にそれぞれ一定の規準のあることは、さきに沿革において述べたと略々同様であるが、その三階段は更にその附帯條件によって多くの名称がある。今、これを分別すると左の如くである。

 番頭 I 通ひ番頭――店に通勤すろもの(妻帯を許さる)
    2 住込番頭――店に住込むもの      
    3 親類並 ――別家を許され若くは功労により
 親類並待遇を受くるもの
 手代 1 子飼手代――丁稚からその店で敲き上げたもの
    2 中年者 ――子飼でなく中年から手代格として
 雇われて来たもの
 丁稚 1 普代子飼――別家の家族から採用したもの
    2 一般子飼――一般から採用したもの
 
 以上は店員の名称であるが、更に店員制度としては左の三つに区分することが出来る。

 一、仕着別家制――主家に起臥し四季の仕着を貰ひ、商業の見習を唯一の目的として、見習期間を経過して退店するに当り相当の資本叉は暖簾を受け別家するもの――本格式の丁稚制度によるもの
 二、通勤給料制――自宅より通勤し給料を受けることを主たる目的とするもの――現代的の商業使用人
 三、折衷制――主家に起臥するも別家を目的とせず、給料を受くるを目的とするもの

 この三制度の下にある呉服店員の数を示すと左の如くである。

       丁稚    手代  番頭       計  
      普代 一般     通 住み込み
仕着別家制 11  1748  1007 272  828     3866
住込給料制 1   267  187  92  828     602
通勤給料制 −   −  −  −   −      −
  小計  12  2015  1194 364  883 
  合計   2027    1194  1247       4468

 即ち約四千五百の呉服店員の中、約三千八百人はなほ奮来の仕着別家制の下にあるのだ。特にこれを丁稚のみに見るに、二千の丁稚の中、現代式に給料を目的として住込んでゐるものはわづか二百七十人足らずで残リの千七百名は、仕着制度の下にあって、他日の別家暖簾別を夢見てゐるのもある。彼等の夢の幾割が果して実現するであらうか。

 またこれを薬種商に見ると

         丁稚    手代    番頭    計
仕着別家制    450     188    105    743
通勤給料制    27     232    224    483
住込給料制    371     216    109    696
    計    848     636    438    1922

 仕着別家制が筆頭を占めてゐることは呉服店と同様であるが、住込給料制との差は僅か五十名にしかすぎない。丁稚のみについて見ても、仕着制四百五十に對し給料制三百七十でその差も甚しくない。これは薬種店中、近代式の商業組織をとる者の比較的早いことを示すものであらう

     仕着せ別家制度
 丁稚制度の根本は、技術の修行とそれに伴ふ将来の独立開業にありとすれば、丁稚、手代、番頭といふ三階段を経た者に對しては、その家主人は彼に店を開く道を開いてやる責任があるのである。これを「別家制度」と呼び、「暖簾分け」ともいふ。

 別家には二種あってその一つは主家営業の出資者たる資格を与ヘられ、給料と利盆配当の報酬を目的として主家に通勤するもの。二は若干の資本を与へられ、同業を営む場合には地方を限りて顧客を分与せられ、銀行叉ば仕入先に對して主家の保証を受くるもの。而して主家と主従的関係を維持し、主家の吉弔禍福の際は奔走の労に任じ、月の一日十五日には機嫌伺ひをなす等両者同一である。なほ此の別家の中には主家と同一の営業を禁ずる所少くない。之等の場合には勤務中より特殊の営業を見習はせるか、叉は類似の商業を営ましむる場合が多い。昔ば子飼丁稚で勤続二十年に達すれば、兎も角、別家を許さるるを原則とした。然し今日にあってはその可能性は頗る稀薄になった。

 然らばこの等の制度の下における待遇ば如何。まづ最も割合の多い仕着別家制の呉服店の丁稚の給与について見ると、四百二十三軒の中で毎月平均拾圓の定給を支給してゐる店は二十一軒(五分)、五圓以上のものは二百三十軒、他の二百軒(四割)近くは五圓以下である。大体においては仕着別家制の丁稚の定給は參圓乃至五圓と見ることが出来やう。尤も店によっては人店後一箇年乃至一箇年半は雑役に従事させてわづかの小遣銭以外、全然無給といふところもある。

 薬種店の仕着別家制丁稚は稍善くて、七十三人中二十三名(三割)は拾圓以上で、拾圓以下十九名、五圓以下三十一名といふ割合、矢張り參圓乃至五圓といふ處である。

 なほ右の定給も、全部現金で丁稚に手渡しされず、店主において積立或は貯金することになってゐる向が多いのだから、丁稚さんたちの懐具合は押して知ろべしである。尤も仕込給料制の丁稚も大体七圓乃至拾圓といふから大して善くはない。但し、大きな店となると拾圓から拾五圓も支給するところがあるとはいふが――。

 番頭は仕着制で貳拾圓乃至参拾圓、通ひ番頭で同じく七八拾同程度、住込給料制で四拾圓乃至六拾圓、通ひ番頭で百圓乃至百參拾圓程度、手代ば仕着制で拾圓乃至貳拾圓、住込給料制で貳拾圓乃至四十圓程度である。これを一般銀行會社員に比すれぼ、生活のミニマムを保証されてゐる強昧はあっても條件としては甚だ不一艮だといはねばならね。

 なほ以上の外に、店員待遇の一方法として歩合制度や賞与金制度を用してゐる向もあるが、殆んどいふに足らね。

    小遣、仕着、藪入

 それともう一つは、小遣がある。これは主として丁稚に支給せらるゝもので、業務見習中は給料を支給せす、その代りに小遣銭を与へるといふのである。呉服店の丁稚四百何十名の中、百五十七名は此種の小遣銭を受けてゐるが、その金額は六割まで貳圓乃至參圓で、前記の定給と変わりはない。

 しかし、仕着制ば元来、無給の代り、少額の小遣と身廻り品を支給して、一定期間後、別家独立せしめるといふので、その名があるのだが今日においては、給料を以て、これに代え、唯年少の丁稚に對してのみ仕着を支給してゐる向が多い。即ち約一千の呉服店中、八百七十二までは丁稚のみに仕着を支給し、百四十二ば丁稚と手代に、そしてわづか二十五店だけが名実共に全部に仕着を支給してゐるのである。

 仕着は普通年二回支給する者が多く、品目は着物、袢纏、帯、シャツ、足袋、下駄その他で、羽織は手代以上の者に限られてゐる。

 かうした待遇で、果して、丁稚さんたちは満足してゐるかどうか。のみならす、受くるところの薄い反面に、労働ば決して軽くはない。

 勤務時間は殆どきまりがなく、季節叉は業務の繁閑によって伸縮するが、大体小賣商では一日平均十五時間、卸商では十時間が普通である。

 定休は大体月二回で、月一回のものがこれに次いでゐる。サラリーマン同様、日曜祭日を休みとする處は少く、六百余の調査呉服商の中、僅か二十三軒(四分)にしかすぎない。

 丁稚の唯一の放生會であった藪入は、時勢と共に改って盆正月の藪入を廃し、業務の閑散な八月中に交替で五日乃至七日位の休暇を与ヘ、自由に帰郷せしめる向が多くなった。

 店の食事の粗悪な事は言をまたない。某職業紹介所のいふ處では、彼等の一日の食費は貳拾七銭(朝參銭、昼拾四銭、夕拾銭)を出でない店もあるといふ。そして船場の真ん中の商店で、今日なほお粥に黒豆に麩といふ献立を踏襲したり、味噌汁一点張りのところさへあるといはれる。店員の居室に至っては、燈がないぐらゐは善い部類で、独立した部屋を与ヘられず、仕事場を寝室とするものが多い有様である。

    丁稚のサボタージュ

 いづれにもせよ、丁稚の待遇は他に比して、粗悪である。故に彼等は努めてサボタージュをやらうとする。千日前その他の活動寫配館や公園の運動場などは彼等の絶好の油賣り場所で、これがため、盛り場の活動寫真館では、丁稚の自転車を預かる設備さへ出来てゐて、合札を渡し、安心して寫真を見せてゐる。中には人目に立たぬやうにと、館内の庭深く自転車を持込ませる處もある。

 公園の遊動圓木などには、常に彼等の姿を受けるが、夏季ば商店街に近い南北御堂の空地に彼等の午睡姿を見ることが少くない。

 しかし、彼等のサポタージュが単なろ油賣りに止まゐ場合は未だ善いが、それが更らに『息抜き』に及ぶと結果は怖しい。大阪市社會部調査の呉服店員失敗の原因を見ると「息抜き」が数字の上に現れてゐる。

酒色に耽けること  24・0%  カフェ通ひ   17・0%
出張先での使ひ込み 11・0%  活動寫員寄席等 11・0%
両親の呼び戻し   8・0%  独立を急ぐため  6・0%
1 悪友の誘惑   5・0%  忍耐力の欠乏   4・0%
店務執行上の失敗  4・0%  思想上の変化   4・0%
買喰ひ       2・0%  身体の虚弱    2・0%
集金の使ひ込み   0・5%  玉突き      0・5%
入浴に出る事    0・5%  盗癖       0・5%
     計   100・0%

 即ち酒色に沈って失敗すゐ者が最も多いのだが、これは、店員が粗悪なる労働条件の下に、しかも時間的にも、性的にも全く拘束された状態にある反動と見ろことが出来やう。両親の呼戻しが失敗の因をなすものも畢竟、見習期間の長くして、而も余暇の少き結果と見ゐが至当であらう。

    勤続年数の短縮
 なほ失敗はしなくとも、仕着小遣制度の苦痛にたへずして中途で退店する者や、徴兵のため勤務を中断されて横にそれる者や、または経済界の激変のため主家が破産して退店の已むなきに至る者や、更らに悪店主にして、暖簾別けの負担を免れるために、別家前の番頭に使ひ込み横領などの悪名を着せて追放すろ者もあって、店員の勤続年数は、漸次短かくなって行く傾向がある。

 薬種店の調べでば總店員の一割が一年間に人替る勘定であるといふ。しかし、さうはいっても、なほ丁稚制度の名残りとして今日なほ十年、二十年以上の永年勤続者が決して少くはない。即ち四千八百の呉服店員中、二十年以上の勤続者百八十人、十年以上二十年未満六百三十一人といふ数を算してゐる。しかし、この中の幾人が果して入店当初からの目的であるところの別家を達成し得るであらうか。

 丁稚制度――特に仕着別家制度ぱ最早昨日の制度である。丁稚志願者が漸次減少して行く事、殊に小學校の成績の善い者は他の職業に走って、頭の悪いこどもが「他へはやられぬから丁稚にでも」と親につれられて店に来る現状から見ても、また店主自身、十数年の年月を要して一人の丁稚を仕上げるよりむしろ學校出身者を雇入るゝを便とするに至った事実に見ても、更らに奴隷制度に近い丁稚制度そのものゝ望ましからね点や、所期の目的たる別家の望みの薄くなった仕着別家制度が寧ろ詐欺行為に近いものである点を考へ、商業制度の駸運に鑑みても、此の制度ば既に没落に瀕してゐるといはねばならない。

 大阪の人的シンボルである丁稚の余命は最早幾許もないといへやう。