賀川豊彦の畏友・村島帰之(57)−村島「新聞の話」

 今回は「雲の柱」昭和6年6月号(第10巻第6号)に寄稿された以下の論稿を収めます。


         社会研究
         新聞の話
                         村島帰之

 (前号には「スピード」時代の事を書いたから、ついでに本号には、新聞及び新聞記者について記して見る)

 新聞が如何にして作られるか、叉新聞が読者の前に提供せられる迄には如何に多くの苦心が沸はれるものであるか? 其處には読者の想像も及ばぬ事実がある。

 先づ新聞とは如何なるものであるかといふに、禽獣は文字を解せぬ。文字を知るは人間である。然かも人間は社會的動物であって、新しき智識を互に交換することを欲する。此の本能を満足さすために新聞があるのである。

 新聞は何時頃から出来たものであらうか? それは読者の御存知の英雄で且つ埃及の美女王クレヲパトラに惚れたジュリアス・シーザーが紀元前百年頃に発行したアクタ・セトナス及びアクタ・デイウルナである。之は元老院の決議、軍事、出来事をローマ市民に掲示し叉各地の總督に送附せるものである。支那に於ては前唐の玄宗皇帝(六八五〜七六二)の頃に発行された「邸報」で節度使の発行に係るものであると物の本に見えてをる。

 我が日本ではどうかと云ふと四道将軍の置かれてをった時代に初めて出来たのであると云はれてをるが、真偽の点は明らかでない。其後徳川時代の御沙汰書や封廻状の如き新聞に類したものが発行されたが、其等は主として隨筆の如きものや官報、辞令の様なものに過ぎなかったので、真に新聞と云ふ名称を附せらるべきものではない。

 我國において所謂新聞が発行されたのは最近の事であって、明治初年頃からであると云ふのが適当であらう。元禄時代には「お染久松」とか「四十七士」とかの事を一枚刷にした瓦版のビラが発行されたことがあるが、今日の新聞に比すれば頗る幼稚なものであった。

 叉明治維新前にはバタビヤ、ポルトガル等の翻訳をして外國の出来事を報じたものさへあった。然し元治元年には岸田吟香氏が新聞紙を発行するあり、我國の出来事を報じたのである。明治元年五月には絹地梅痴氏の主宰せる江湖新聞は其の考古録に佐幕論を書き発行禁止され、木版の版木は押収されたとの記録がある。之が日本に於ける新聞の発行禁止の嚆矢である。

 此の新聞は活版刷であり規模も大であった。是より現今の新聞が発達したものと解してよからうと思ふ。明治に入ってよりの其の発達史は省略するが、明治初年には一種の新聞交換所が出来たことだけを附記しておく。之は例へば、紀州藩士が其の藩の出来事を印刷して、叉盛岡藩士は同藩の出来事を印刷して相互交換したのである。之は兎に角として現存せる最古の新聞は横浜毎日であらう。

 次ぎに新聞記者で従軍したのは台湾征伐の時に岸田吟香氏、西南戦役には福地桜痴氏で、福地氏は其時に号外を発行したことがある。之は日本最初の号外である。

 新聞発達史の話は是位で止めて、直ちに新聞紙の解剖に移る。

 新聞の使命は新しき事の報知であって、凡て現在のことで決して過去の事ではないのである。然うすると、大菩薩峠とか秀康父子を大毎が掲げてをるのは如何? 是等は新事であるか? と云ふに、決して新事でなく舊事であることは明白である。かかる舊事、舊聞を新聞に載せることは新聞なる性質上好ましいことではない。或る學者の如きは講談小説等の掲載を攻撃してをるが、是は只の新聞社としては読者を繋ぐために載せてをるので、新聞の本質的要素でないのは論を俣たぬ。

 曾て紅蓮白蓮が大毎に掲載されて頗る好評を得たことがあるが、其の小説の終わったその日から四萬の購賣部数が減じたことがある。是は小説のために新聞をとる人があるからである。実際今時の読者は小説がないと続かないので悪く云へば読者を釣るための餌として掲げられてをるのである。何年か後には小説、講談のなくなる時があるであらう。早大教授である田中穂積博士が東京毎日を発刊するに当り、理想的新聞を計企して小説、講談は勿論、殺生、暴行情事等一切を掲載せすに発行した所が、新聞は理想的であったが賣行きが悪く、発行困難に陥り遂には日本に理想的新聞は発行出来ぬと諦めた事実さへある。斯くの如き状態であるために、我國の新聞は新聞の本質たるニュース以外に舊聞をも掲載してをる次第なのである。

 次に話の方面を換へて、新聞が読者の前に出る迄に新聞社員が如何に苦心するか、其の苦心談と合せて新聞記者の話をしやう。

 先づ新聞社及び新聞記者に最も必要なる条件は、

 一、機敏なる事

 是は報道は一刻も早く読者に告げられねばならぬからで、日本の新聞は機敏さの点では世界的に有名である。数年前にワシントンに開催された軍備制限の會議の時の事である。各國の全権は制限比率を絶對秘密にして世界各國の大新聞が聞きに行っても少しも聞かれなかった。處が或る日の事、ロンドン、タイムスの本社から其の特派員にあて電報が来た。それによると日本の時事新報には既に其の制限比率がでてをるが、それは本当であるか否かと問合せて来たのであった。それは時事新報の伊藤正徳氏が、時事に報じた比率を時事が掲載し之をロンドン、タイムスが読み、驚いて自社の特派員に照合した電報で、ロンドン、タイムスの特派員は直ちに英國の全権に面會して尋ねると、全く其の通りの比率であることが判明し、時事の伊藤氏の名声は一時に挙げられたのである。斯様な機敏さが常に新聞記者に必要である。

 叉大毎の名村虎雄君が、バルチザンの尼港事件に生命がけで潜かに水雷艇に隠れて惨状を同胞に報道した如きも亦同様である。或はこのために生命を失ふことさへあるので、斉藤総督が京城に赴任の時、投ぜられた爆弾によって大朝の橘君、大毎の山口君が死んだ如きはその一例である。

 是等は機敏に報道すると云ふ新聞の使命を全うするためであったのである。今日では裁判所の豫審決定書が裁判所で発表される前日に新聞紙で発表されることが往々ある。面白い話の一例を學げると、嘗てポストン市のヘラルド紙が大學出の優等生三名を雇ひ入れた。或る晩火事が起ったので其の學生に火事の記事を取りにやった。所が二十分経っても三十分経っても帰って来ない。漸く二時間後に電話で「午前三時大火、八方に炎々たり、上下挙げて前代未聞の大騒ぎを演じ、目下何事も探知するを得ず」と云って来た。編輯長は怒って其の返事に「一番熱い所を選らんで飛込んで了へ」と云ったさうだ。マヌケな記者は実際何の役にも立たないのである。

 二、記事が適切なること

 淡路沖に潜水艦が沈んだ時の事、新聞社は淡路に出張所を設けて実際を知らんとしたが、現場へ出かけることは記者連にも許されなかった。其處で或る記者は潜水夫に頼んで空気を送る係に雇って貰って現場に往き、海底より上った潜水夫より詳細に其の模様を聞き、仕事を終へて帰ってから直ぐ記者に早代りして其の記事を社に送ったのであった。是は即ち有るが儘の事、法螺でない最も適切なる事を報ぜんがための努力である。

 三、興味のあること

 如何に機敏に適切に報道してもそれが興味がなくては無益なことである。仮令その記事は人を笑はすものでなくても好い。其の記事が政治上、経済上、読者の興味を惹くことが一番の要点である。

 新聞を生かすか殺すかの生殺与奪の権は実に以上の三点であるが、其外に記者たるものは次の如き必要条件を具備しなくてはならない。

 (一)健康。前例のポンプ係となったり、生命掛けで水雷艇に乗込んだりするには、先づ健康でなければならぬ。関東の大震災の時には各新聞社の記者連は東海道五十三次を韋駄天走りに走ったものである。叉其の時東京より逃れて第一の報道をなした大毎の加藤直士氏はトンネル崩壊を冒して中央線を経て帰ったのであった。

 (二)記憶力のよきこと。芝居とか仮装會では紙と鉛筆を持って何かを書きつけてをることを以て新聞記者を表はすものであるが、話の内容等を一々書き留めてをる様では未だ一人前の記者と云ふことが出来ない。それでは数字とか長い談話等は全部暗記してをるかと云ふとさうではない。斯様な場合にはポケットに手を入れておいて鉛筆を握って密かに書きつけて置くのである。

 (三)忍耐強きこと。或る内閣が更迭するとの噂のあった時の事、各新聞社員が徹宵して政変に備へてをった所が、一週間と経ち十日と経ったが一向にそれらしい事もないので、或る社の記者が今夜も大丈夫だらうと、十日間の不眠不休の疲労を癒しに?吉原へ出掛けた。運命の神の戯れか何うかは知らぬが、其の夜政変があって、翌朝の各新聞には其の事が掲載されたが、其の新聞のみは之を載せる事ができなかったのである。叉馬鹿げた様な話であるが芳川鎌子が夜遅く自動車で何處かに乗出さうとした時、各社の記者は其の後から同じく自動車で追跡した。鎌子の自動車は之を知ってマカうとしたが、どうしてもマケなくて、遂に何處へも行けなく一夜を走り廻して家に帰ったことがあった。

 (四)機略を要すること。即ち智慧を絞って策略を樹てることが必要である。例へば大隈侯が外務大臣であって脚を失った時の事である。外務省では混雑を避けるために門を閉ぢて其の中で傷の手当をした。記者連は其の様子を知り度いのだが入ることが出来ないのであった。当時報知の記者であった某氏は直ちに福沢諭吉氏を訪ね、氏より馬車とフロック、シルクハットを借用して其の馬車に乗り、フロックにシルクハット大意張りで出かけた。其の時分は馬車の数も少なかったし、馬車でシルクハット高貴の方に相違ないと思った門衛は門を開いて呉れて難なく省内に入り、大隈侯の傷がどう處分されたかと云ふ事等を一番に報道したのであった。

 (五)大胆でなければならぬ。重大犯人等の護送の時は深網笠で額を隠して行くのであるが、此の笠に隠れた犯人の姿を寫した所で間が抜けてをって、読者の興味を大いに減するものであるから、其處で顔を寫す苦心をするのである。其のために寫真班の者が喋し合せて一人が笠を後からヒョイと捲り上げて、其の間にレンズに収め刑事に怒られると、どうも済みませんとか云って済ましてしまふのである。

 (六)緻密であること。即ち犬の如き敏感さが肝要である。例へば裁判所前に自動車が止まってをると直ぐ其の番号を見て、それに依って此の自動車は警察のものか、県廳のものか等を判断して其處から絲ロを得て取調べを進めるのである。

 (七)常識的であること。或る文士が新聞記者を評して「何んでも知ってをって何にも知らぬもの」であると云ったが、廣くて浅いのが記者である。何事にでも通じてをる事が必要である。故に新聞社の入社試験には、常識試験をして、タコ配金肥、水平社、大徳寺と云った様なことを質問するのも是がためである。

 現今では各新聞社は盛に競争するので勢ひ報道を早くしたり、他社に負けない様に力を注いだりするのである。其處で馬鹿げた事ではあるが、交通、通信機開の奪ひ合ひさへ演ぜられるに至る。軍艦関東の沈没の時は、新聞記者が自動車を独占したために他の人々は之を利用することができなかったのである。叉但馬の地震の折は第一報が報ぜられてから、四十五分後には大毎大朝の飛行機は現場の上空を飛んでをったのである。

 数年前生野銀山ストライキがあって私は社から派遣されて生野に往ったが、先づ郵便局に出かけ電話十七八の通話を申込んでおいて、銀山に行き夕刊締切が二時なのだから、各社のものと一緒に夕刊に間に合ふ様に郵便局に往き、ストライキの報告は二通話位で済んだのであるが、他の話等して時間を取り、他社のものが夕刊に問に合ふことを出来なくさした事があった。
 
 斯様な掛引が記者の間に一般に行はれるのである。叉新聞記者が好んで用ふる言葉は「何にもないよ」と云ふことで、是は事件があっても「何もないよ」と云って知らさないためである。叉「口止め」と云ふことが行はれる。是は先に行って或る事を聞いた記者が、「他の社のものにお話になると御迷惑を受けるかも知れません」とか云って、他社の者に云はぬ様口止めすることである。私が生野でやった様な他社の邪魔をする事の中に、次の様な例もある。

 淡路沖の潜水艦の沈んだ時のこと、一人の記者が現場に行き、死骸が一つ上ると赤旗を一つ振る。さうすると陸にをる記者が本社に通報する手筈を定めておいた。所が他社のものが之を感知して、偽の赤旗を作って無茶に振ったものだから、死骸の数が誤報されたことがあった。

 以上に述べた様な各種の苦心を経て新聞の記事が作られるのである。