賀川豊彦の畏友・村島帰之(48)−村島「賣淫論」(七)

 今回は村島の「賣淫論」第7回です。


      「雲の柱」昭和5年7月号(第9巻第7号)

           賣淫論(七)
                      村島帰之

    公娼の需要

 或る年の事であった。大阪の某警察署へ出頭して、娼妓志願を申出でた上品な娘があった。彼女は、福島市の士族某の二女國子(二一)といって、福島県立高等女學校の辛業生であるが、一家の困窮を救ふために、浮川竹に身を沈めたいといふのであった。高等女學校卒業の、娼妓志願者は、必ずしも珍らしくない。(現に東京五千の娼妓の中には女學校中途退學者が約二百人ゐる)だから警察でもそれを問題とはしなかったが、係官が彼女の志願を、聴許するに躊躇した原囚が只だ一つあった。それは、彼女が處女であったといふ一事である。

 娼妓志願者の前身は下に述べる如く、多くは酌婦上りか然らざれば、淫鄙な農村の娘などで、娼妓志願に来る事前に、既に處女を失ってゐる。曾て、大阪府で調べた處に見ても約五千人の娼妓志願者中、處女は、一人もゐなかったといふ。そしてこの五千の志願者が、處女を失った年齢を訊問した處、早熟な者は、十二、三歳(恐らくは小學生時代か)にして既に異性に接し、然らざるも十七、八歳で大部分男を知ってゐるので、十九歳以後になって始めて異性を知るといふが如き娘は、志願者中僅か、二割弱しかない。それも娼妓志願に出るまでには、既に處女を失って了ってゐるのである。年に娼妓志願者の、始めて異性に触れた年齢を記して見やう。

 12歳  1   13歳  9   14歳  60   15歳  190
 16歳  560  17歳  1335  18歳  1411  19歳  851
 20歳  291  21歳  124   22歳  52   23歳  28
 24歳  10   25歳  8   26歳  1   27歳  1
               計 4932

前記國子が、處女であった事は、全く異例であった事が首肯出来そうだらう。     
 わが國に現存する遊廓五百四十五に、屈辱の生活を送る娼妓五萬三千人、右の中、約一萬八千人について最近調べた處では、彼女たちの身許は百姓の娘が三千五百人(全員の二割)、酌婦上りが三千二百人(一割八分)、女中上りが(二千八百人(一割五分)、女工上りが(千八百人(一割)、芸妓上りが千六百人、以下無職、商業日傭稼、娼妓、漁業、仲居、理髪、裁縫、看護婦其の他といふ順序でいずれも、皆無産階級の娘ならぬはない。開西方面で唄ふ歌に、
 「なぜにおやま(娼妓)は身元をかくす、親爺や立坊で母乞食」
 といふのは、娼妓に対する作者の態度は不快であるが、彼女たちが無産者の娘であるとする点だけは、首肯する事が出来る。殊に農村は古来から、娼妓の供給地として知られてゐる。そこには永年極端なる搾取が行はれて来た。徳川家康の遺訓にも「百姓は死なさぬやう、生き過ぎぬやう」とあって課税、課役のため、生存はせしめておくが、甘やかし過ぎて一揆、その他の反抗運動を起こさしめぬやうにとの用意周到な搾取の原則を残してゐるほどである。それが今日にも及んでゐて、農村から遊廊へ送られて来る娘は依然として多い。現に数年前、熊本県郡築の小作争議の際、筆者の親しく当事者から聞いた話にこんな例かあった。

 郡築の一百姓は小作料滞納のため、娘を博多の遊廓へ賣る約束をした。折柄、田植の時季で農家は猫の手も借りたい際であった。一家の犠牲となって、賣られ行く娘のために、せめて頭附のお膳でも出し度いところだが、その余裕のないのみか、雇手をする金のない彼女の家では今日賣られて行くといふ彼女をも野良に追ひやって、田植をさせねばならなかった。彼女が泥だらけになって、田植をしてゐる恰度その時、博多から娼妓周旋人が到着して、直ぐ博多へ連れて行くといった。今は一刻も猶予がならない。娘は親、兄弟への挨拶もそこそこに泥足の儘、人肉の市場へと連れて行かれて了ったーー。かうした悲劇は、一郡築に止らずして至るところの農村に行はれてゐるに違ひない。

 酌婦から娼妓になるのは、酌婦生活中の追借、また追借がかさんで、首が廻らなくなり、まとまった金を工面しなければならぬ必要に迫られて、意を決して娼婦となるのであらう。その他、各職業とも殆ど同一で、その直接原因はいづれも生活難からならぬはない。(此の点は屡々論ぜられてゐるから、此處には述べない)私娼には自堕落からなるものもあるが、娼妓には殆どこれがないといって善い。なほ特に注意を要する事は、娼妓志願者の中、嘗て結婚生活を送ったものや、母の経験を持ってゐる者の、少くない事である。嘗て大阪府下で、娼妓を志願した二千人の女について調べた處では、三百人―−一割五分――は嘗て結婚せし事のある女であった。そして、その中六十三人は教員、軍人、会社員、官吏等の自由業に属する者の妻であり、五十八人は商家の女房であり、七十人は工業、三十九人は農家の妻であった。それならば、さうした夫を持ってゐたのに何故離別したかといふと、半数は家庭不和の為めで、これに次ぐものは夫の放埓であった。

 また右の三百二人の結婚者の中で、百七十七人即ち結婚者の五割七分は妊娠分娩の経験を持った「母」である。叉、上村行彰氏の調査では娼妓志願者五千六百四十七人中、子を産んだ者(婚姻と否とに拘らず)は千三百二十一人、即ち全員の約二割五分であった。しかし、これ等の母の腹から生れた子供は、母が娼妓に身を沈めた後はどうなってゐるだらう。上村氏の記す處では、その大半が死亡してゐるとの事である。母としての、愛育の足りない結果に外ならない。叉、幸にも現存してゐる子供でも半数以上は私生児叉は庶子として入籍され、日蔭者の生活を送ってゐるのだ。父の籍へ這人ってゐる者は、六百七十五人中僅か六十八人(一割)にしか過ぎない。

 娼妓になる以前、かくの如く妊娠の可能性ありし婦人も娼妓生活に入ると、過房や洗滌 やその他の原囚で妊娠しなくなって、所謂石婦(うまずめ)になるが、併しそれは絶對の石婦ではなく、。千人中八人乃至十人は、妊娠をするのである。その妊娠が大なる悲劇である事はいふまでもない。

   公娼の需要者
 次に然らば、これ等の憐れな人の娘を弄ぶ者は抑もいづこの誰であるのか。
 「近代的の賣淫は乞食と同じく文明の所産である」ともいひ叉「Curilisation(文明)はSydhilisation(黴毒化)である」とさへいはれるほど、文明と賣淫とは密接不離の開係にあって、賣淫の需要は文明の華咲きほこるる都市ほど多い事はいふまでもない。地方と違って、都市には若き出稼人が群をなしてゐて、独身者の数が頗る多い。

 大正十三年の東京市勢統計によれば、同市男子人口の三割四分は有配偶者。六割一分は未婚者(死別、離別を含まず)だといふ。右の中性的能力のない老幼男子を除くとしても、独身者の如何に多いかゞ想像に難くはないであらう。加之、近時の生活難は可婚年齢の男子をして、結婚期を遅延せしめる結果を生み、人口統計に見ても、明治三十二年頃はその平均結婚年齢は、二十七歳半であったものが、明治四十三年には二十八歳半に延ぴてゐる。僅々十年間に、一歳だけ遅れて来てゐるのである。

 若し、この趣勢が今日もなほ続いてゐると仮定すれば、昨今は男子も結婚年齢は、三十歳にもなってゐるであらう。思春期に入って以来、十有余年の久しきに亘り、彼等は克く性の抑制をなし得たであらうか。しかも若い一般男女の自由結合は巌重に阻止されてゐる。彼等の体内に鬱屈したその積気は、賣淫になる外そのはけ口を知らぬのである。聖トマス・アクヰスの如きも「都市に於ける賣淫の必要な事は、恰も宮殿に便所が必要であるやうなものだ。若し、便所が穢たらしいといって取除けるなら宮殿はつひに悪臭鼻をつく所となるであらう」として「都會」に特に重点を置いてゐるが、これを、各都市について見ると、大阪(奮)は男子約百五十人に娼妓一人、東京は三百人に一人、最も高率な都市は宇治山田市で、男子四十七人に對し娼妓一人といふ割合を示してゐる。

 尚、この五萬の娼妓の許へ登桜して来る遊客の数は、遊廓側の内輪な申告に依って見ても、二千六百萬人、日本男子の半数近くが必ず年に一度は登桜するのといふ勘定である。然し、此處で一考を要する事は、独身者のみが、遊興者であるかといふ点である。筆者の恥づべき過去の経験に徴するも、妻帯者の遊客の数は決して少くはないのである。

 現に、大正三年より同六年に至る四箇年問の和歌山県下の遊客、十六萬六千余人に就ての年齢調査によれば、遊客十六萬六千余人中、二十歳未満の登楼者は〇・二八で、二十一歳以上、二十五歳未満の者は二・二七である。即ち、二十五歳未満であって比較的無妻者ならんと想像せらるる青少年は、全数の二割三分の少数に過ぎない。そして、有妻者なるべしと推測せらるる二十六歳以上、三十五歳未満の登楼者三・八五、三十六歳以上四十五歳未満は二六・八、四十六歳以上は一一・七二でその小計は、全員の七割七分といふ高率を示すのである。これを以て見ても、公娼制度は必ずしも独身者の性欲調節機関にはあらずして、寧ろ、有妻男子の遊蕩機関であるかの観を呈してゐるのである。

 彼等には、家に妻があって、神聖なる性の解決法のあるに拘らす、なほ且つ遊廓に走るのは何故であるか。人間は本来一夫多妻的なためであるのか。少くとも彼等は、変化性を求めて、此處に来るのでといひ得るだらう。家にあっては家事に没頭して、お白粉を塗る事さへせず、夫婦関係を一種の事務の如くに処理しつつある妻に、満足し得ないない男子が、変化のある温柔郷を求めて此處に走るのだと思ふ。ブロツ等の如きは此の点を洞察して「賣淫は男子の変態心理の所産である」とさへいってゐる。即ち性の遊戯を此處に試みやうといふのであって、何人の心の奥にも必ず潜在してゐる處の変態的の慾情の充足を、此處に求めるのだといふのである。現にいづれの遊廓にも、一人位はShakuhachiと称して尋常ならざる性交法を用ひて、遊客の変態の娼妓が存するほどある。

 勿論、かうした慾情の充足機関としては芸妓その他の私娼においても、これを求めることが出来るが、それ等は手続きが梢々繁雑であり、叉、一般に解放してゐない憾みなどがあって、世の男子はこの解放的な、そして國法の認めた衛生無害と称する娼妓の許へ、滔々として相競ふて走せ集ってゐる現状である。

 それにしても此の娼妓を買ひに来る者は、如何なる種類の人々であらうか。警視廳の調べによると、最も多いののは労働階級で、特に純労働者を最高とし、商人、職工、これに次でゐる。今これを表別すると左の如し。

大正14年(自1月1日至1月10日) 大正15年(自1月1日至1月10日)
官公吏    2764              5266
軍 人     468               1265
會社員    21087              24424 
學 生    ――               81
商 人    36846              49650
職 工    33316              31375
労働者    2529              51616
その他    10256              7661
  計   107369人            171328人
商 高  516367円             700836円
1人消費額  480                409

 斯うした客を娼妓は毎夜どの位とるかといふに、警視廳の調査によれば、震災直後の大正十二年十二月、新吉原及び州崎遊廓において各貸座敷四戸、娼妓約二十名で、取敢へず営業を開始した際の如きは、一夜娼妓一名につき三十余名の客を取ったといはれる。しかし、これは特別の場合であって、平常は二人、乃至三人といふところであらう。警視廳が明治三十年以後の、平均娼妓一人接客数を統計してゐるのを摘記して見ると次の如く、逐年負担を増して行ってゐるのを見る。

娼妓接客数           娼妓接客数
明治30年   1・26     明治35年     1・16
明治40年   1・37     明治45年     1・22
大正5年    1・53     大正10年     2・49
大正13年   2・54  

 尤もこれは病院入院、及び引籠中の者をも含めての勘定であるから、実際営業してぬる娼妓のみについて、その接客数を計上するならば、もう少し、多くなってゐるに違ひない。叉梢々古い統計ではあるが、大正七年、大阪遊廓の某楼の一娼妓について調べたところでは、平均接客数三人強、一人の客の遊興時間は四時問であった。而し、これは平均数で、実際は一日の接客数八名以上にも上る場合が少くない。その一娼妓の日記から或一日の分を抜くとしやう。

年齢  時間  花代  茶代  仲居ポチ   職業   回数
34   200   150   10    50    船員    初
21   200   150   −    50    魚屋    9
21   200   150   −    50    会社員   7
18   110    90   10    35   小間物商   初
27   100    75   10    25    金物商   初
25   100    75   10    35    大工     2
24   宿泊   450   10    50    会社員   3
22   110    90   10    20    鍛冶屋   初
計8人      1230   60    315

 彼女は此の日八人の客をとり、約、二十時間を客に接したわけである。それも、只面会し会談するに止るならば、或は耐へられもしようが、八人の客に、凡てなぐさまれねばならぬのだから、哀れといふも愚かである。
大正九年二月十一日、兵庫県高砂遊廓の某楼で調べた處では、当日の接客数は左の如くである。

接客数   楼名  妓名    接客数   楼名   妓名
  9人   N楼  五郎     11人   N楼   小ゆき
  9人   N楼  静子     9人    N楼   椙ノ助
  7人   N楼  八重野    8人    N楼    媛子
  6人   N楼  小妓     7人    N楼    玉代
 6人   N楼  玉千代    7人    N楼    花玉
  2人   N楼  三四司    6人    N楼    一力
  1人   N楼  八郎     4人    N楼    トキ
  11人   W楼  都      3人    W楼    鶴松
  11人   W楼  若留     14人    W楼    玉子
  13人   W楼  秀奴     17人    W楼    若市
  13人   W楼  要      17人    W楼    千代子
  13人   W楼  光子     15人    W楼    すみ子
  12人   W楼  千代香    14人    W楼    政子
  12人   W楼  愛吉     13人    W楼    かほる
  9人   W楼  力弥     13人    W楼    市子
  5人   W楼  小蝶     8人    W楼    千代次
  21人   T楼  春子     1人    T楼    品子
 
 即ち三十四人の娼妓が、三百二十四人の客を取つてゐるのであって、一人当り接客数は実に九人半といふ多数に上ってゐる。これは勿論、紀元節といふ紋日であったためであらうが、実に驚くべきものがあるではないか。

 娼制度を不可避の弊害だといふものがある。仮令、それが事実だとしても、國家が公けにこれを認めて、女を一個所に監禁し、その自由意志を蹂躙して、愛情なき獣人の凌辱するに委せる現行の公娼制度が、果して社會正義に悖らぬものであるといへるだらうか。或る者は、娼婦を許さなければ、町の貴婦人令嬢が貞操を全うし得ないと論じ、ご娼婦は町の娘の護衛兵だとおだてあげてゐるが、有産階級の娘の保護のために、無産階級の娘を犠牲にしていいといふ理屈がどこにあるのだろう。

 近来頻りと唱えらるる公娼の保護といふが如きは籠の鳥のために、その籠の広さを稍々広めてやったといふにすぎない。鳥の求めてゐるのは籠の広さでなく、籠そのものをなくして、全く解放してくれる事にある。そして同時に身を賣らねばならぬやうな、鳥のないやうな社会を持ち来らす事である。
 その佳き日の、一日も早く来るやうに。