賀川豊彦の畏友・村島帰之(46)−村島「賣淫論」(五)

 すでに80年以上も前の村島の論文ですが、彼ならではの筆使いで、読ませますね。取り出すのに根気がいりますが、じっくりと進めてみます。今回は「賣淫論」の第5回です。

      「雲の柱」昭和5年5月号(第9巻第5号)

              賣淫論(五)
                          村島帰之

    日本の癈娼
 それは今を距る五十余年、明治五年の出来事であった。明治五年といへば、海の彼方では、英国すら未だ公娼制度を廃止し切らず、バットラー夫人等が旺んに廃娼を叫んでゐた頃である。その時、わが國は、足利時代から発達し、徳川時代に制度の確立を見、明治維新にも微塵ほどの揺ぎをさへ見せなかった公娼制度を一朝にして廃棄する旨の法令を出したのである。それは日本において破天荒の事件であったのみならず、世界的にも史家の特筆大書するに足る事件であった。若し此の廃娼令にして、事実上廃棄せられずに、今日に及んでゐたとしたら、わが國は、最も早く公娼制度を廃止した國として世界にその栄誉を謳はれてゐたのであらう。

 まづ明治五年の廃娼令発布前後の経緯を記すと、ザッと斯うである。
 明治五年六月、南米ペルーの商船マルヤルス号は、支那を出発し、母國へ向ふ途中、水と石炭を積込むために横浜港の沖合に碇を下した。ところが或る日マルヤルス号から潜かに遁れて、矢張り横浜港沖に碇泊してゐた英國軍艦アイロン・ヂューク号に馳け込んで来た一人の支那人があった。彼の名はアクタと呼んで、二百三十人の仲間と一緒にマルヤルス号に乗せられ、ペルーに向はんとする者であった。彼は泣き乍ら一伍一什を語って、切に哀みを請ふた。彼の語る處によれば、彼等支那人労働者二百三十名は、航海中、船内における労働に就く約束で、支那内地の賃銀相場に比し可成り高い賃銀の貰へるのを楽しみに乗船したものであった。然るにいよいよ船が支那の上地を離れると共に、彼等は船内の労働に就かしめられずして、却って荷物のやうに船底深く追ひ込まれ、剰へ食物さへ碌々与へられず、若し食物を求める者があると、食物の代りに鞭が与へられた。彼等は始めて欺された事を悟った。船内労働とは真ッ赤な偽り、実は、ペルーに連れ帰って、奴隷として鉱山に使役される身の上である事が判明したといふのである。

 一伍一什を聞いたアイロン・チューク船長は、事重大と見て、日本註剳英國公使アール・シー・ワットサン氏に詳細を報告した。公使は更に日本帝國外務卿副島種臣氏に對し、事件は日本の領海内において起ったものだから、日本政府において然るべく處置すべきものであると通告し、なほ國際正義に基き、日本政府が欺れたる彼等を解放せらるる事を望むとの勘告を寄せた。当時、日本は明治維新の大偉業が行はれて間もない事とて、廟堂にある人々の心は尚ほ理想に燃えてゐた。副島外務卿の如きは、外交の衝に当る人だけに、一層理想主義的であった。『君子は危きに近よらず』として、之に触れざるをよしとする保守派の反対を斥け、剛復を以て聞えた当時の神奈川県令大江卓氏(天也と号し、第一期の水平運動のために活動して数年前物故した人)を裁判長に任命し、横浜において右事件の裁判を行はしめた。大江裁判長は数次の審問の後「マルヤルス船主のなせる行為は奴隷賣買にして、國際公法の禁を犯すものなり」との判決を下し、前記アタク及びマルヤルス号に残ってゐた支那人二百三十人を同船より下船せしめ、之を支那政府に引渡した。若し話が此の儘で済んでゐたら、問題はなく、恐らくはわが娼妓解放令も出なかったのに違ひない。然るに事件は意外な方面に飛火した。

 これより先き、マルヤルス号船主の辨護人ヂッキンスは裁判廷において次の如く裁判長に對して喰ってかかった。
 『聞くが如くんば日本には娼妓なる者があって、人道に反した人身賣買が行はれてゐるといふのではないか。それは、明かに純然たる奴隷賣買である。然るに日本は、自らの非を棚に上げて、独りマルヤルス船主の行為を國際法違犯なりとするのは矛盾ではあるまいか』

 ヂッキンス辨護人の言ふ處は真理だった。さすがの大江裁判長も長所をさされてギクリとしたが、さあらぬ態で飽くまで所信を通した。ペルーはそれで引込む筈はなかった。果然ペルー政府は右の判決に不服なりとし、特派全権公使を送って抗議を申出で、遂に國際仲裁々判に持出す事となった。その時の裁判長こそは、さきにルカテルンブルグにおいて銃殺されたロシヤのニコラス皇帝であった。ニコラス帝は双方の主張を聴取した。上日本の執った態度を是とし、ペルーの抗告を却下して了った。

 日本は勝った。それは正義であったからである。然し日本は外、正義を以て勝ったが、國内にはペルー弁護人の指摘した通りの不正義が巌存してゐだ。日本政府は勿論それを知らぬ筈はなかった。日本の公娼制度は明かなる人身賣買である。それは奴隷以上の奴隷である。旧来の晒習を破り、天地の公道に従ふ事を宣明した日本政府としては、娼妓を此儘にして置く事は出来なかった。況んやペルーを始め列國の眼の光るにおいてをや。此處においてか、政府は大勇猛心を奮って、遂に廃娼令を発布した。時に明治五年十月二日。大政官第二百九十五号布告は次の如き破天荒の声明を敢てした。

 一、人身を賣買致し終身又は年期を限り其主人の存意に任せ虐使致し候は人倫に背き有まじき事に付、古来制禁の處従来年期奉公等種々の名目を以て奉公住為致、其実賣買同様の所業に至り以ての外の事に付自今可為巌禁事
 一、農工商の諸業習練の為、弟子奉公為致候儀は勝手に候得共年限満七年に過ぐ可らざる事、但双方和談を以て更に期を延るのは勝手たるべき事
 一、平常の奉公人は一箇年宛たるべし、尤も奉公取続候者は証文可相改事
一、娼妓芸妓等年季奉公人一切解放可致、右に付ての貸借訴訟總て不取上事
    右之通り被定候條屹度可相守事

 即ち娼妓芸妓等、年期奉公人を一切解放するといふので、その身代金は仮令抱主から請求訴訟を起しても政府は取上げぬといふのである。何といふ思ひ切った法令であらう。今日の日本の政治家に、これほどまでに果断な處置をなし得るもの、果してありや否や。

 なほ身代金の帳消については、同月九日、司法省は第二十二号布告として左の如く発表した。

 一、人身を賣買するは古来禁制の處、年期奉公等種々の名目を以て其実賣買同様の所業に至るに付、娼妓芸妓等雇人の資本金は賊金と看倣す故に右より苦情を唱ふる者は取糾の上、其金の全額を可取上事
 一、同上の娼妓芸妓は人身の権利を失ふ者にて牛馬に異らず、人より牛馬に物の返辨を求むるの理なし。故に従来同上の娼妓私妓へ貸す所の金銀並に賣掛滞金等一切償ふ可らざる事、但本月二日以来の分は此限にあらず
 一、人の子女を金談上より養女の面目になし娼妓私妓の所業を為さしむる者は其実際上即ち人身賣買に付、従前今後可及厳重之處罰事

『娼妓芸妓は人身の権利を失ふ者にて牛馬に異らず、人より牛馬に物の返辨を求むるの理なし』とは、何といふ理義明白にして、皮肉な言葉であらう。之が法律の文句であらうとは、堅苦しい今日の法律文のみを読み慣れてゐる者にとっては無条件で受容れ兼ぬるほどである。

 右の法律の発布と同時に、日本の芸娼妓は解散されたのであった。友大水谷蓬吟氏の談によれば、同氏の知人S氏(筆者もその人を知る)が、恰度廃娼令発布当夜、それとも知らずに大阪新町において遊興してゐたが、そこへ突然警察官数名が立現れ、『芸娼妓は解散される事になったから直ぐ引揚げろ』と命じ、あまりの唐突さに戸惑ひしてゐる女を尻目にかけ乍らS氏に向って『君は直ぐ此の女を連れてお帰り下さい。もう娼妓ではないのだから、楼主の許へ帰す訳には行かない。君は此女を國へ帰すなり、何なり適当の處置をおとりなさい』と。S氏は常惑したが、警官の命令なので致し方なく、自宅へ連れ戻り、翌朝、若干の金子を持たせて國元へ返してやったといふ。当時の官憲の思ひきった英断振りが眼前に髣髴とする心地がする。

 此の廃娼令を、世間では「牛馬ときほどき」叉は単に「きりほどぎ」といった。蓋し前記の法文から来たものであらう。そして仮令一時であったが、娼妓は放れた小鳥のやうに欣々然として國元へ帰って行った。

 然し廃娼國の名誉は永く日本の上になかった。否、それはホンの暫くで、またもや存娼國の不名誉に立帰るに至った。蓋し、政府に確乎たる信念がなかったからである。明治五年十月に娼妓を人身賣買だとしてキッパリと解放した政府は、翌六年には各府県において出稼ぎ娼妓なる独立営業を認め、叉貸座敷を許可した。

 しかし、それは十月二日以前に存在した「牛馬に異らぬ」娼妓ではなく、立派に人権を持った一個人格としての娼妓であった。法律では前者と区別するために「娼妓稼業の者」の名を以てした。即ち古い娼妓は一定の金――身代金−―で買はれた人格なき奴隷であったが、新しく出現した娼妓は、法律上、立派な独立した営業者で、楼主の奴隷でないのは勿論、その雇人でさへない。叉楼主は楼主で娼妓の人主でないことは勿論、その雇主でさへない。楼主は単なる「貸座敷業者」で、娼妓は稼業をするために、その座敷を借りてゐるに過ぎない。即ち両者の開係は、単に座敷を貸す者と、借りる者との閲係である。そして両者の法律上の立場は、あくまで對等で、契約は自由であるべきである。従って娼妓に對する楼主の虐待などといふ事は、あり得べからざる事である。

 然るに実際に於て、娼妓は楼主の雇人たるのみか、奴隷の如く酷使されてゐる。或る貸座敷では、娼妓から座敷料を立派に徴収してゐるにも拘らず、折檻と称して客のつかぬ妓を廊下に寝かせた例さへある。これでは、昔時の奴隷と奴隷所有の関係と寸毫も異る所がない。
 これは何故かといふに、それは前借金の仮面を被た、身代金制度なるものが存するからである。