賀川豊彦の畏友・村島帰之(45)−村島「賣淫論」(四)


 今回も前回に続く村島の論稿を「雲の柱」昭和5年4月号(第9巻第4号)より取り出します。


             賣淫論(四)                         村島帰之

    賣淫の種類

 賣淫を法律上から分類するならば次の二つとすることが出来る。
 一、公唱――國法によって公認せられ、鑑札の交付を受け、一定の租税を納附し國家の保護と監察の下にあって公然営業するもの
 二、私娼國法の公認を経ず、ひそかに営業するもの
 然し此處にいふ公娼、私娼といふのは、わが國において慣用されてゐる公私娼と同一の字義を有するのではない。わが國において公娼といふのは所謂女郎屋−−貸座敷で公然営業するところの娼妓のみを指し、私娼はその他ひそかに春をひさぐ一切の賣淫をいふのである。
 彼の芸妓の如きも芸妓として國法の公認を受け、鑑札を交附せられ、剰へ劣らぬ租税を納めてはゐるが、彼女たちの賣春行認はこれを國法上禁じてゐるため、事実上娼妓の所業があってもこれを公娼とはいはず、私娼の中に含めてゐる。然るに欧米諸國の公娼(Public Prostitutes)は梢々複雑で、その中に二つの重要なる種類を含んでゐる。即ち日本の娼妓の如く國家の公認の下に一定の娼家において賣淫する娼楼の賣淫と、警察の登録を受けこれが監視の下に立って、一定の娼家を持たず、街路において客を物色し自分の住居叉は便宜の家に連れ込む「街上の賣淫」とが是である。

 ボールデル制度  娼楼(Bordell)といふのは免許を受け若くは公認せられたる娼家を指し、その家の所有者はそこで所定の業を営むことを許されてゐるもので、時に官憲は免許料若くは税を徴収する場合がある、フレックスナーの「欧洲の賣淫」によればプラッセルなどでは此の種の妓楼に對しては毎月次の如き特定の免許料を徴収してゐたといふ。

           娼妓1〜5名    6〜10名
  一 流 妓 桜  100フラング    150フラング
  二     流   50         75
  三     流   25         37

 ヨーロッパで現在この制度を許してゐるのは佛、白、瑞墺、匃、伊、葡、西の八ヶ國である。独逸の如きも最近まで、ベルリン以外の都市にこれを許してゐたが、時一九二七年十月一日を以て娼妓及びこれに類する営業を禁止し、多くの都市にあった集娼区域を一掃した。
 娼妓は、いふまでもなくその同一の家屋の中に、多数の娼婦を群居せしめてゐて、同時に多くの客を迎へ若くは、その客をして隨意に對娼を選択させる事が出来る方法になってゐる。これは一人々々が別々に稼業をする敵娼と全くその趣きを異にする点である。
 フレツクスナーが一九〇四年前後において自ら訪問した数個の都市について調査した娼楼の戸敷と抱え娼妓の数とを見るに次の如くである。
                 (「欧洲の賣淫」一七三頁)

      娼楼数  同娼妓獄 娼桜外の娼妓数  私娼数(推定)
パリ―    47    387    6000    50000〜60000
ウインナ   6   50〜60    1630     30000
ハンブルグ  113   780     155
ブタペスト   13  260〜300  2000
ドレスデン   81   293    若干
フランクフルト 10   100    188
ケルン     98   194    500      6000
ゼネバ     17    86    なし
ローマ     22   125    100      5000以上
ラッセル    6    37   145      3000以上
スタットガルト 10    32    なし
ブレメン    25    75    なし
ストックホルム 30    98   228
    

 即ち名娼楼にはブタペストの一戸平均二十人を最高とし、スタットガルトの二人半を最低に、平均して十人内外の娼妓を抱えてゐるのである。
 これ等娼楼の光景を國際聯盟のパンフレット中から技いて見る。

 「賣笑婦は殆んど腕も脛もむき出しで、窓や戸際に倣り掛って、頻りに通行人を声高に罵り呼んで居るのが見られる。家は鼻持ちならぬ程不衛生で多くの場合其處で行はれる事が殆ど人目につく位である。夜昼となく凡ゆる年齢の人間が幾百となく街を徘徊し娼家に出入する。其処には決って凡ゆる國の水兵や兵士が見受けられる。大抵の場合は嬪夫が汽船、軍艦などの到着した港へ赴き、不案内な旅人を良からぬ場所へ連れて来る。各娼家では酒を他處より幾らか高價に責りつける。この女らは想像も及ばぬ程に堕落してゐる。おきまりの性交以外に淫乱の凡ゆる姿態を見せて、報酬さへ充分だと思はれるならば如何なる狼芸行為も露出するも敢て辞せぬのである。
 ブロッホは更に此の娼家を評して「性的堕落のより危瞼な中心であり、あらゆる種類の性的倒乱の養成所であり、最後に(これも重大であるが)花柳病感染の最大焦点である。」といひ叉「娼婦は凝った性的快楽と性的倒乱との高等學校である」といってゐる。即ち「多くの青年は娼家に於て初めて自然の性交に反した複雑なる技巧的方法を學ぶので、娼家にはさうした病的性慾が組織的に教授されるのである。そして老遊蕩者が娼婦から要求し、娼婦に報ゐるところの倒乱的性交を遊び始めの青年に自然と傅へられるのである。何故なれば娼婦の仲間における競争と、余分に金を貰ひたい希望とのために、彼女等はさうせざるを得ないからである。」といって、青年が自然的性交を學ばぬ前に倒乱的性交を學んでその結果、変態性慾にのみ没頭するやうになる事を述べてゐる。
 然し、さうした娼家の持つ害悪は暫く措くとして、この集娼制度が果して賣淫者及び賣淫需要の希望に副ふだ制度であったか――。
 まづこれを娼婦の供給方面から見ると、婦人賣買業者のために誘拐、略取されるものは別として、一体に娼楼組織は極端に女の自由を拘束するために、年若く美しい女は自由な、自前稼ぎの方へ走って、此處へは余り喜んで来ない。
 叉需要者の方でも、公然と遊興するよりも人目を忍んで通ふ方を喜ぶ関係上、この制度は漸次衰へて行く傾向がある。前記フレックスナーの著書によると、パリーの公娼中ボールデル(トレランス)に居住するものと然らざるもの(散娼)との数の逐年増減状況は次の如くである。                  (「欧洲の賣淫」一八一頁)

                  内 訳
       公娼数    ボールデル   散娼
1872   4242       1126    3116 
1882   2839       1116    1723
1892   5004       596    4408
1903   6418       387    6031
 

 即ち三十年間にボールデル内に抱えられてゐる娼妓は約三分の一に減じてゐる。一方散娼は反對に約倍に増加してゐるのである。叉中野生清氏の調査では最近は更に減じて以前、巴里に二百戸あった娼楼が今では三十三戸しかないといふ。そしてその一面に待合(ランデブー)が殖えて既に二百五十戸(娼楼に比し約八倍)を数へ、そこへ千六百乃至千七百人(娼妓の約五倍)の散娼が出入してゐるといふ。

 
日本の貨座敷制度
わが國において右のボールデルに該当するものはいふまでもなく貸座敷である。そしてその貸座敷に住む「娼妓」のみが公娼といはれる。恐らくはわが國の娼妓(正確にいふならば娼妓稼人)はその官憲との開係その他において世界においても公娼の代表的のものであらう。まづ日本の娼妓の取締規則を見るに、彼女たちは所在地所轄警察署に自ら出頭し、娼妓名簿に登録することによって娼妓稼人の資格を取得するのだが、欧洲の登録娼の如く無制限に登録を許容しないで、巌重なる審査を必要とする。故に単なる登録といふよりは免許といった方が相応しいのである。かくして鑑札の交付を受け同時に納税の義務を果したならば初めて娼妓稼ぎの業を営む事が出来るのである。そして娼妓稼人となった彼女に對しては、廳府県は彼女の羞恥部をも診断せしむる事を命令し、その他一定の監察を行ふ代り官廳の許可したる貸座敷内において行ふ彼女が賣淫行為を公認し、處罰しないのである。

 此處で最も肝腎な点は貸座敷についてである。即ち日本の娼奴は自宅若くは旅館その他において営業する事が許されず、必ず官廳の許可したる貸座敷内において行ふ事を命ぜられてゐる点である。特に大阪市南地遊廓その他(所謂送り込み娼妓の許可せられたる處)を除く大部分の貸座敷所在地にあっては娼妓は必ずその貸座敷内に寄寓せよと命ぜられてゐて、所轄警察官署に届出て認可を受くるにあらざれば外出の自由もなく多数の娼妓が群居してゐて、各官座敷に宛然たる一女護ヶ島を現出し、叉各箇の貸座敷は貸憲の取締の便宜上、一定地域を指定されてゐるだけ、多敷同営業が軒を並べ所謂「遊廓」と称する貸座敷地区を形成してゐるのである。この多数の娼妓が一定区劃に集團群居してゐる處の大集娼制度こそ、わが國公娼制度の外形的特徴である。

 勿論この遊廓制度はわが國独特のものではないが、諸外國においては暫時衰滅の過程を辿ってゐるのに、独りわが國のみは六百に近い遊廓を保持し、そこに五萬人を超ゆる娼妓を抱えてゐて、年々四千萬人近くの標客を迎へて、少しも減退の気色を見ないのが世界の注目の的となってゐるのである。

支那公娼制
支那公娼制度も亦一異彩を放ってゐる。同國では娼妓を大別して公娼、私娼とし、前者は登録し納税をなして公然営業する者、後者は登録もせす、納税もせす、ひそかに賣る者をいふ――ここまでは日本と同様であるが、只異る点は芸者をも公娼に入れてゐる事とたとへ公娼でも検黴をしない事である。即ち公娼は衛生上の立場から来た公認でなく徴税のためである。
 芸妓は公娼の第一流−−頭等――に位するもので、賣淫をなすものとして公認されてゐる。公娼はこの芸妓を筆頭として次の如き四階級に分れてゐる。

頭等娼妓  清呤(日本の芸者)
二等娼妓  茶屋(日本の娼妓)
三等娼妓  下處(同    )
四等娼妓  小下處(同   )

現在北京には清伶小班が九十三戸(六百三十八人)、茶室が八十六戸(八百五十二人)、下處百六十戸(千七百四人)、小下處三十戸(三百八人)計三百六十九戸に三千五百二人ゐるといふ。(民國十一年末調査−−中野江漢著「支那の賣淫」による) そして彼等は階級に応じ最高月三十二元、最低四元の納税をしてゐる。これでは全くの免許営業である。

 なほこれ等の娼家は清末以来、内城に設く事を許されず城外及び外城に集ってゐて一つの遊廓をなしてゐる点は日本と同一である。しかもその数は漸次増加する一方で、民國二年(袁世凱時代)公娼を許可した当時の娼家戸数三百五十三戸、妓数千九百九十六人であったのに比し、現在は戸数において僅か十六戸の増加であるのに、妓数は千五百人を増加してゐる事実は世界の大勢に逆行して、いよいよ集娼主義を進行せしめて行ってゐるものといはねばならない。

 然し支那は自ら例外であって、世界の大勢はボールデルさへ衰微しつつある折柄とて、一定の小区域内に多数の妓楼が櫛比してゐる制度(ボールデル・ストラッセ)の如きは最早ものの数ではない。これは欧洲に在っては寧ろ例外と称すべきものである。かくて集娼制度は漸次衰へて散娼制度が盛にならうとしてゐるのである。然らば散娼制度とはどんなものであるか。

散 娼 制 度
 散娼制度は居住地を一定区劃に限るといふやうな事なく、不住の者に對し、警察か娼婦名簿に登録し鑑札を下附するのである。そして登録された娼婦は絶えず健康診断を受けて、健康を保証され診断証を所持してゐるのである。欧洲の都市を歩いてゐると「私は登録してゐます、健康診断証を特ってゐます」といって女が近づいて来るといふが、其が即ち登録娼婦である。
 登録は任意によるものと強制によるものとがある。いづれにしても、登録してゐて、健康診断証を持ってゐる場合には、賣淫行為をしても處罰せられずにすむのであって、この点は全くの公娼である。
 この登録はわが國や支那の公娼の如き免許状と認むべきものではなく、衛生取締上必要なる健診を受けてゐるかどうかを識別するためのもので、従って他に適当な生活手段を発見すれば、何時でも登録証を返納する事が出来るのである。即ち何人の賣淫行為をも許さないが賣淫の徹底的一掃が不可能なため一部の者に密かに鑑札を与へ名簿を備へ健診を受けしめて衛生上の監視をなし、其の者に限って犯罪行為を黙許するといふのである。故にこれは巌格な意味からいへば公認せられたる「公娼」ではなく黙許せられたる「準公娼」といふべきであらう。
 しかし、仮令、健康診断は受けてゐるにせよ、ボールデルに隔離状態にある公娼と異り、大道を横行する事の出来る自由な立場にあるため、これを放任しておいては風教上面白からぬ結果を見るので、この散娼登録娼に對しては通常巌重なる制限が規定されてゐる。今フレツクスナーの「欧洲の賣淫」の巻末から「巴里娼妓取締規則」を訳載して見やう。此處にいふ娼妓は登録娼を指してゐる事はいふまでもない。

楡徽−−少くも二週間に一回、別に定むる日時に検黴所に出頭して健康診断を受くべし。娼妓は警察官叉はその代理者の請求ありたる場合は直ちに健康診断証を提示すべし。
往来の制限――街頭の点燈前及び四季を通じて午後七時前に公道を徘徊す可からず。叉夜間十二時以後街路を往来すべからず。娼妓は不快なる方法を以て注意を悉く挙動若しくは態度をなす可からず。
客制限――未成年者並に婦人、小児を伴へる男子に言葉を掛くる可からす。叉大声を発し執拗に誘引すべからず。群をなして街路を徘徊し遊歩し同一の場所を屡々往来し又は嬪夫を同伴し若くは之を自己の後に従ふ可からず。
住居の制限−―教會(旧教及び新教)、學校、覆道、遊園地、停車場及び公園の附近に近よる可からず。塾、又は昼學校の構内に居住するを得ず。情夫叉は他の賣淫婦と同居する事を得ず、窓より客を誘引すべからず。

 かうした制限と官憲の監視の下にしがない生活をしてゐる登録娼の数は、一九〇三年の調で巴里六千五百(一八七二年当時は僅か三千)、伯林三千五百、漢堡一千、維納千七百、ブタペスト二千人と計上されてゐる。そして前述の集娼が減じて行く一方、散娼は漸次増加する趨勢である。知らずわが國の集娼制度はいつまでその命脈を保つだらうか。