賀川豊彦の畏友・村島帰之(44)−村島「賣淫論(三)」


 さて今回も前回に続いて「雲の柱」昭和5年3月号(第9巻第3巻)より村島の「賣淫論」をUPいたします。テキスト化には時間がかかったわりには、うまく整ったものにはなっていませんが、悪しからず。


           賣淫論(三)
                       村島帰之

     娼婦となる動機

 次に彼女達が、最初に賣淫の世界に足を踏み入れた動機を見ると、之は私娼と公娼とによって事情を異にするが、彼女達の無智と貧困に乗じた他人の陥穿による者の多い事は両者共通である。私娼に於ては大部分、陥穿によったもので、本人若くは父兄の許諾なくして之を強請したもので前記マイナー女史が一九〇七年から九年間に取扱った娼婦中、四百七十一人について調べた所によると、三百四人(六割四分)は他人に誘惑されてなったものである。そして誘惑者は彼の婚約者、恋人が最も多く、約半数を占めてゐる彼等は彼女の無智に乗じ、先づ関係を結び、自家薬寵中のものとなったのを見澄して他に売るのである。婚約者、恋人に次いで多い者が屋主である事は、屋主たる事を悪用し之亦甘言を以て彼女に近づき。後徐ろに毒牙を現したものと見る事が出来やう。叉中には夫に捨てられた女、不幸な結婚から逃れて来た女など、いづれも自己の意志ではなく全く他人の陥穿に陥入った者もある。凡ては無産階級の無智と貧困の所産である。

 叉之を我國の私娼について見ても大阪府で明治四十四年以来六年間に検挙された密娼三千三百人の調べでは、

                      実数   百分比
一、家の困窮を救済するに出でたるもの    231   6・97
一、家の不和に出でたるもの         45    1・35
一、本人の素行修まらざるに出でたるもの   2254   68・03
一、情夫のため叉ば他の陥穽に出でたるもの  783    23・63
    合  計              3313   100・00
               (拙著「生活不安」二九三頁)

 即ち全数の六割八分は本人の素行修まらざるもの、二割三分六は情夫叉は他人の陥穿によったもの、七分は一家の困窮のためといふのである。然し此處で六割八分を占める「本人の素行修らざるため」といふものを更に、彼女が捨て鉢となるに至った原因まで遡るなら、恐らくは他人の陥穽若くは貧困によるものの数が更に増加するに違ひない。他人の陥穿によって娼婦の群に堕される女の経路は大抵きまってゐる。それを証明するために拙著「ドン底生活」の一部を抜いて来やう。

 「無垢の娘を陥穽するために行はれる方法で最も巧妙な誘惑手段は、オチモノ拾ひといふ方法である。即ち年老いた媼などを盛り場や停車場に出張らしておいて、田舎から出て来たらしい女に近附かせ「あんたはどこから来なさった」と問はせ、例へば大和の郡山から来といへば言下に「ホオ、私も実は郡山で、それはおなつかしい事で」と巧みに少女の心をつかんだ上「大阪といふ處は怖ろしい處で悪者が始終狙って居て、あんたのやうな生娘は直ぐ欺されて了ふさかい」と親切らしくおどして「まあ、明日ゆっくり口でも捜す事として今夜は私の處へ泊って久しぶりに國の話でも聞かして下さい」と言葉柔しく説き伏せて我家へ連れ帰り、今日は活動、明日は芝居と遊び歩かせ、路銀を悉皆費消すさせ、更に自分の財布から幾許かを貸し与へた末、善い潮加減を見計らって「時に姉さん、今日まで立替へたお金は什うしてくれるネ」と畳みかけ、女が当惑する處へ「それぢや一層一時斯うしてくれたら」と徐ろに醜業を勧めるのである。そして斯うした幕になる頃には、恐ろしい兄哥達も登場して来て脅かし文句と親切ごかしの言葉とで到頭陥落させて了ふのだと云ふ。
 叉大阪新世界派出所詰の巡査の話ではこんな事もあった。何某といふ博徒は以前廣田町に住まってゐたが、その頃同町附近のさる店から品物を買って何圓かの代金が掛になってゐた。で、その年の末になって、その店の娘がその掛を取りに行くと彼は既に飛田へ引越して居たので、その娘も序でにその引越先へ掛をとりに行った。すると博徒は快く娘を迎へて、代は直ぐ払ふから兎に角二階へ上ってくれといった。娘はもとより件の博徒に悪だくみなどのあらうとは露知らぬので、何気なく二階に上って待ってゐると、何時まで経っても掛をくれぬのみか誰も二階へ上っては来ない。ハテ、不思議と、何とかく胸さはぎのする儘に降りて行かうとすると南無三、時は既に遅かった。二階の梯子は何時の間にか取外されてゐる。それのみか隣室からは怖ろしい顔をした男が現はれて、声を立てれば之だぞと兇器を翻すのであった。娘は泣くにも泣けず、喚こうにも喚かれず進退茲にきわまるに至った。之が小説ならば此處等あたりで侠客かそれとも巡査が出て来るのだが、実際にはそう巧くは行かなかった。斯くてその娘は掛取りに行ったその日から博徒の二階の一室に閉龍められ、博徒のなぐさみものにされた末、日を経て立派な私娼となって客を取るやうになった――巡査の話では、此の女はその後警官の手に捕へられて、家へ引渡されやうとしたが、どうしても家へは帰らぬと頑張って引続き淫賣をやってゐるといふ事である。
 然うだ。一度淪落のドン底に陥ちた者にとっては、私娼の足を洗ふ事は不可能である。乞食三日すればやめられぬと同じやうに、淫売三日すればやめられぬのである。一種の興味も添はるのだらうが、夫れよりも順応性が働いて恥を恥とせぬやうになり、彼女自身が既に肉体的にも精神的にも立派な淫賣婦になって、最早真人間に復活する事が出来なくなるのである。故に彼等は好んで淫賣を営んでゐるやうに見えるのである。
 現に大阪南部の夜の街に出没する私娼の如きは、巌しい監督がある訳でもないのだから、逃げやうと思へば逃げられぬ事もないが、彼等は既に籠に飼ひならされた小鳥のやうに、外へ出されても直ぐ飛去らうとはしないのである。
 救世軍の婦人ホームに収容された私娼の内、日ならずしてまた元の魔窟へ飛戻る者のあるのも之である。一度ドン底に落ちた者は生理的に、一種の変態を齎すやうになるのである。従って私娼の改心といふ事は至難である。警察統計に見ても、初犯又は再犯の私娼は改心の見込があるが、三犯以上の者となれば改心の見込なきものの方が多い事を示してゐる。従って之等の累犯者は、初めは仮令脅迫的に貞操を売らされたにしても、度重なれば当然請求し得べき賦け前を請求して進んで稼ぐやうになるのである。」
            (拙著「ドン底生活」二八九〜二九三頁)

 然し娼妓となると梢々事情が異って来る。娼妓は公の認可を受ける必要があって、親権者の承諾書を徴するのみならす、窮迫した事情の認められない場合は仮令書類の條件は具備してゐても当局に於て許可しない。そのために他人の陥穿により、その意志に反して責られて来る者は私娼ほど多くはない。然し私娼における如く殆ど暴力的に女を強制する事はないにしても、周旋人なるものが女の家の貧困と無智に乗じ、甘言を以てこれをあざむいてうまうまと引張り出す点は、矢張り陥穿といはねばならぬ。救世軍の伊藤秀吉氏は此の間の消息を次の如く面白く記してゐる。

 「周旋業者が僻地に入り込んで、年頃の娘のゐる家でそれが繼子であるとか、片親が欠けてゐるとか、親兄弟が病気で困ってゐるとか、極貧にして窮乏してゐるといふやうな家庭に巧みにつけ入って、娼妓生活の安逸愉快なること「紅白粉をつけて絹物づくしで日夜面白可笑しく過される。やがては玉の輿に乗って同夫人になり済まし、故郷に錦も飾れやう。隣村の誰さん、向山の某さんは何れも今ではお大臣様で栄耀栄華の身の上だ。肥田子担いでで真黒になって汗水垂らしてゐるも一生、遊んで暮すも一生ではないか。第一親の病気を助け、月々の仕送りもして左團扇で暮させたら、こんな親孝行はあるまひ」と勧め、親へは「此の貧乏の中に千圓貳千圓と云ふ大金が這入って、明日から水呑百姓が一足飛びに地主様になれる。医薬の代に困ってゐるなら町に出て良医の許に入院も出来る。治らぬと思った病気も治り命は助かり長生きが出来るのも此の天から授かる金を受くるか否かにある。何も娘を殺さうといふ訳ではなく、昔から廓御殿は出世奉公といふ位、斯ういふ立派な處に行くんだ」と絵ハガキなどを出して見せたりして勧められ、生れて一度も握った事のない纒まった金を握ったらああもし、かうもしてと胸算用を始め、とうとう慾に目がくらんで、それではよろしく頼むといふやうなことになる。甚だしいのになると始めから娼妓にするとは云はず、さる高貴のお邸への奉公であるとか、大臣様の出入なさる大料理店の給仕で、心配なことではないといふ様なことで、盲目判を押させ、白紙の委任状にまで判を押させて、五百圓千圓といふ金を渡され娘を伴れて行かれて、その金に手をつけた後で、女郎屋であったかと驚いても苦情の出しやうもなく、結局泣き寝入りになる事も往々にしてある。
 Aと云ふ女中は斯うして誘拐された。A女は突然主家から暇を乞ふて去った。萬事は親切な屑屋のおぢさんの世話で、某所の判任官と結婚するといふのであった。然るにその判任官といふのは真赤な嘘で、それは或る桂庵の主人であった。結婚したのは事実であったが、結婚して五日目彼女は離婚されて了ったのである。今更面目なくて主家へは帰られず、男には捨てられて途方に暮れてゐる時に、叉親切な車屋さんが現れて、某所の妓楼に前借五百圓で賣られたのである。親切な屑屋さんも親切な車屋さん夫婦も、実は桂庵と共謀して、始めから此の無智な少女を誘拐するための必要な劇中の人々であったのだった。」                               (「日本の公娼制度」廿一頁)

 之等は私娼の場合の如く脅迫こそ伴はないが、最初から事を謀って女を陥れたものであって見れば、矢張り他人の陥穿によるものといって差支ない。甘言を以て欺く以上、女の同意は同意とはいへない。大阪の方面委員の関係したものを年報によって拾って見るといろいろとある。先づ悪周旋人にひっかかった例としては次の如きがある。

 台湾長屋と云ふ有名な貧民長屋に住んでゐた某は、或る夜暴風の為め長屋が倒れて其の際腰を打って三日目に死亡した。それでその妻は三歳になる男の子を伴れて女手一つで貧しい暮しを続けてゐた處、その子が病気して入院しなければならなくなった。病気の経過は思はしくなく右腕を切断したりしたので、その為に相当負債も出来、どうにも生活が出来ないので本庄横道町に芸妓紹介人をしてゐる某と云ふ者をたよって行った。そしてすすめられる儘に、その男の子の身の上を案じつつも呉旭遊廓に五年半五百円の前借で身を賣った。五百圓のうち貳百圓は本人が身のまはりのものを整へる為に費って了ひ、残る參百圓は子供の養育料として件の紹介人にあづけた處、その紹介人は子供を家へ放った儘逐電して了って、どこか九州の炭坑にゐるといふ事しか判らなかった。                         (「方面委員大正十三年々報」三四九頁)

 之などは全く悪周旋屋の喰物になったものに相違ない。叉先年大阪天満合同紡績の社宅二百五十許りの中から娼妓稼ぎに出てゐるもの凡そ三十名の多きを数へた事があった。その中でも家庭が貧困で、親が病気と云ふやうに事実生計の苦しさから身を賣ったものは未だしもの事、親が極道で金さへあれば博奕を打ち、酒を呑み、遊んでで暮すと云ふやうな状態から身を沈ませられた娘の数が案外にも多いのに不審を打った方面委員が善く調べて見ると、此の社宅の根城とする周旋人がゐて、絶えず娘のある家を窺ひ、病人が出来て困ってゐる場合などは逸早く馳せつけて親切さうに金を貸し与へ徐ろに種子を蒔いておいて貸金の返済の不可能となるや時分はよしと、いや応なしに娘を賣らしめるのである事が判明した。
            (「方面委員十四年年報」一三五頁)

 叉親を通じての間接射撃ではなしに、出戻りの娘などに對してはその困窮に乗じて直接談判に出かける事がある。方面委員の取扱ったのにはこんなのがあった。

 「大阪帯革所職工高原某は肺結核に罹り働きが出来す生活は日に日に窮迫して来た。處へ茲に妻の母親に当る者が寡婦となり五人の子女を擁してゐたのが、経済の点から此の女婿の家へ同棲する事となり共に細々と家計を立ててゐるうち、母親の三女も亦高原の病気に感染し、二人共枕を並べて床に着くやうになった。それと知って方面委員は直に刀根山療養所へ入院の交渉中、先づ高原は死亡、次いで三女も死亡した。そこへ二女やすゑも他へ嫁してゐた處、梅毒にかゝり、今のうち六〇六号の注射をせぬ事には一命にもかかると云ふ事になり、その注射を受ける為の四五拾圓の金の工面に難渋してゐるのをききつけた堀江遊廓の某店の主人、一時その療養費を立替るから健康にかへったら娼妓づとめをしてその借金を支沸ってくれと頻りに慫慂し、本人もその気になって委員の處へその交渉方を頼んで来た。委員は驚き、此の急場から娘を救ふためには引受けて治療させるより道がないと決心し、赤十字病院の診療所へ交渉して費用の点は低割引にして貰ひ養生させた為め、幸ひ全治して堅気な商店へ女中奉公に出漸く解決がついた。」
         (「社会事業研究」十五年十一月号、一〇六頁)

 叉前記合同紡社宅の中の一軒では、一人の娘が八百圓で九郎右衛門町の或る家へ賣られたが三月目に足技きをした。それで女郎屋では早速その実家と保証人の家を差押へた。差押へられた物品は凡てで五拾圓にもならないボロであったが、その家にとっては必需品であった。そこで方面委員が中に這入って同じく身を沈めてゐる姉娘の借金の追借をして百圓を工面し、それで示談をしやうとした。處が女郎屋側ではウンと云はない。対手がドン底生活者で、今後如何に待っても金の出来る筈はなく、それよりも仮令百圓でも取って示談した方が利盆であるのに、ちと怪しいと思って調べで見ると、その娘の下にもう一人二十歳になる妹があって、紡績に通ってゐるのを商賣柄目をつけてゐるのだったといふ事が判った。方面委員では驚いて遊廓事務所の人々に仲に立って貰って漸く解決して、末娘の身賣りを未然に防いだといふ。貧家の娘は、野に実った果樹の如くあたりからねらはれてゐるものと云はねばならない。

 叉周旋人などでなく、所謂色仕掛を以て女をたぶらかし金に仕様とたくらむ輩も多く、現に母親の過ちから二人の娘をさうした色魔の餌食にした例もある。

 果物商某は夫婦の間に四人の子供をまうけ之と云って不自由もなく暮してゐた處、その家の真向ひに引越して来た婦女誘拐を常習とする性質のよくない五十男のため、妻(五二)を暴力を以て奪はれて了った。もともとその男は人妻への姦通そのものが目的ではなく、彼等の間の二人の妙齢な娘に目をつけてゐたので、娘達が之は叉どうした事か父親の籍に這入ってゐない事を奇貨として何れも娼妓に賣飛ばして数千圓の金に代えた。その上姦夫は娘達に對し屡々鞍替とか借増とかを強請するので娘達からは母親に向ひ何とか處置をして貰ひたいと頻りの訴へである。母親も姦夫の脅迫からとは云へ自身の不身持ちのために可憐な娘に迄も累を及ぼした事を痛く後悔してゐる事を近所のものが気毒がり其の由を方面委員に訴へ出た。
         (「社會事業研究」十四年十一月号、九六頁)

 然し娘を喰物にするのは、他人許りではない。親が娘を賣る。勿論已まれずして賣る者は情状酌量の余地があるとしても、自己の安逸のために娘を賣るのは許し難い博徒を父に持った娘や、なまけ者の母を持った娘は屡々親のために身を賣られる。一例をあげると、某(五五)と云ふ男は病気でもないのに仕事をせす毎日遊んで暮し、生計は妻ふく(五七)の手内職及び孫が九條発電所の給仕をして貰っで来る月給拾四圓五拾銭を以て細々に立ててゐる始末である。娘こと(二二)は十四歳の時に新世界の平の家といふ處へ金六百圓の借金で芸者になり、十七歳の時川口三十番の客支那人より金八百圓で親引として受出され帰宅をするとその翌夜より重い肺炎に罹り、余程重体になったが、金に糸目をつけぬその支那人の親切で漸く一命を取留め全快をした。然しことは支那人は厭だと云ひ張り逃げ帰って再び平の家から芸者に出た。其の後奈良へ八百圓で仕替へ、年期をつとめて姫路へ勤め、叉神戸に仕替へ、池田に仕替へ遂に大正十一年一月飛田遊廓の紹介人徳田と云ふ人の世話で、京都小池モト方に壹千五百圓で鞍替をした。その後病気のため帰宅したが、その薬代にも困る始末で方面委員に泣きついて来た。
              (「方面委員十二年々報」一六二頁)

 ごれなどは全く娘がなまけものの母の餌物となって絶えず小遣をせびられ、これがため追借の上に追借をかさね、融通が困難となるや、場所を替へて行ったのである。
 之をしも孝行といふのだらうか。古川柳に「孝行に賣られ不幸に受出され」とあるが、かうした奇形的孝道観に支配されて身を賣る日本娘は災ひである。

 之等の身賣りはいふまでもなく前借金を目的とするものであるが、その前借金なるものは一体どの位の額であらうか。勿論その本人の容貌其他によって甲乙があるし叉借りる本人の意志にもよる事で一定してゐないが、そこには自ら限界がある。東京市社會局が大正十年十月二十日から十一月五日に亘って娼妓紹介業の調査をした結果によると、年期五年で四千圓と云ふのが最高で、中には年期三年で百圓といふのさへあった。僅か百圓の金を借りる為に尊い貞操を犠牲にする人もあるかと思ふと、生活不安の甚だしいのに驚かざるを得ない。今各年期について、最も多く行はれてゐる。前借金を左に掲げて見る。(茲に上、中、下といふのは、娼妓の格を指したもので廓でも恰かも卵でも値踏するやうに上玉、中玉などといふ)。

   年期   上    中    下
   六年   1500   1000   600  
   五年   3000   1500   400
   四年   2000   1000   300  
   三年   2000   1000   −

 右表に於て年期の長さと前借金額の必ずしも正比例しないのは、樓主の見込と本人の申出でによって年期の長短に拘らす前借金を定めるからである。然らば此の借金が全部娼妓若くはその父兄の手に這入るかといふと、先づその一二割は周旋人の世話料(規則では雇主六分、娼妓四分の分担で前借額の一割五分を出すことになってゐるが、事実は娼妓のみで一割以上を取られてゐる)として取られた上、車賃までせびられ、更に初見世のみつきとして衣服其他準備費七八圓近くも控除されるので、実際懐中に這入るのは金額の半分か、せいぜい六割位である。

 酌婦となると前借は期限のないものが多く、前記東京社會局の調査では最高千圓、最低貳拾圓で、これを娼妓同様上中下とすると左の如くである。

          上     中    下
最高  1000    700    400
    最低    50     30    20
    平均    600    300   50

 酌婦は芸娼妓の如く警察の許可を必要としないだけに悪意ある者が、女を金に代えるには最も都合が善い。従って此處に賣飛ばされる女の数は中々に多い。方面委員の手にかかった一二の例を示さう。

 愛媛県松山市の染飛的行商人の娘ステ(二〇)は大正九年五月、大阪市南区難波新地の紹介業の手を経て南河内の料理へ仲居奉公に棲込んだ。處が其の実は淫賣をさせられるのでその勤めにいや気がさし、雇主に内訳で親元へ知らして来てゐるうち、更に奈良県下の料理屋へ百五拾圓で転賣され、その金はどうなったか本人は一文も手にせす、其の上更に買物をさせられて百圓につき一箇月拾貳圓五拾銭といふ高利の金を借りさせられた。共處で親から方面委員に泣きついて来たので委員から雇主宛て書面を出してゐるうち更に第三の料理屋へ貳百五拾圓で転賣された。父親源吾は病気で一人の娘を頼りにしてゐるのに迎へには行けず、迎へるには大枚の金が必要である。始末にあぐねて方面委員の手にすがったものである。
               (「方面委員十年々報」一四九頁)

 叉こんな例もある。車夫某が夕方湊町附近で客待ちをしてゐると、三十二三の男と二十三四の女の二人がやって来て、下宿へ案内してくれとの事に或る下宿屋へ伴ふた處、前金貳圓の要求をしたが、僅か四五拾銭しか持合せがなかったので、車夫も気毒がり自家へ連行き二三日泊めた上、今後の処置を訊ねた。すると、自分は病弱で一人前の働きが出来兼ねるから夫婦合意で妻を娼妓に出稼させ度いとの意向を洩したので、早速紹介人へ引合すと、親の説明が必要だと云ふ。郷里へ照會したが一向返事が来ない。さうしても居られないので紹介人の勤める儘に大和八木へ四拾圓の前借金で酌婦に出る事にした。處がその四拾圓も全額本人の手に渡るわけでなく、紹介人の手数料其他を差引くと残額僅か拾圓であった。
           (「社会事業研究」十五年十二月、十二頁)

 最後の手取拾圓といふが如き、何と悲惨ではないか。
 芸妓の前借は前記東京社會局の調べでは最高參千圓といふものあるが平均を示すと。

         上     中    下
    一年   1000    500    100
    三年   1500    1000    500
    四年   1500    1000    600

である。然し細民の家庭から賣られ行くのは多くは芸妓の中でも仕込といふので五六拾圓の金で、全く遊芸の心得のない少女−−その多くは小學五年修業程度―−を買って行くのである。そして小間使のやうに使ひ傍ら遊芸師匠の許へ通はして仕込むので、三四年の仕込期間を過ぎた後芸妓として出るのだが、はたち明けといって二十歳になって年のあける者が最も多い。細民の家庭で梢々整った容貌をもった娘は十二三歳にして早くも此の仕込として賣られて行く。そして年明けまで、彼女は賣られた奴隷の如く自己の自由権利と云ふものを持たない。方面委員報告から抜いて見るとこんな例がある。

 九條通一丁目某(三三)には亡妻の私生児まさゑ(八)と云ふのがあり、重なる不幸に子供連れでは生活も出来ないと云ふので方面委員へやって来たのであるが、その頃恰度長野市の相当資産家で其の女児を貰ひ度いと云ふので、色々調べた處実は、資産家とは芸者屋の事で、仲介者が幾らかの金をとって其處へ賣飛ばすのだと云ふことが分った。                       (「方面委員十一年々報」三三頁)

 叉硝子職工音吉(四十)は近所の人の世話で長女ふみ(十)を五年貳百五拾圓で芸妓の仕込みに賣った。處が紹介人の名前も知らす、娘の行った先きさへも分って居ないと云ふ始末。大阪の梅田から汽車に乗った汽車賃、辨当料。髪結賃、バスケット代、鼻紙代、等に貳拾壹圓、紹介料拾七圓を差引勘定して娘を賣って得た處は百七拾七圓であった。                    (「社會事業研究」十一巻、五五一頁)

 叉車夫竹田(三三)の妻は先年生れた許りの子を残して姿を隠して了った。それでも竹田は男の手一つで子供を育て上げ、十二歳になったのでメリヤス女工に通はせて日給四拾銭を貰ひ、渇々生計を支へて居た處、竹田は黴毒性関節炎にかかり全く生計の道が絶えた為め、娘を芸妓の仕込屋へ八年間百五拾圓で賣る事になった。其處を方面委員に助けられ竹田も入院治療を受ける事になった。
             (「社會事業研究」十四巻六号、九二頁)

 之等の少女はいづれも貧しい家に生れ合せた許りに、幼にして早くも賣る可からざるものを賣らしめる。
 バットラー夫人は「偶然の事情即ち父母の死、失業、不満足な賃銀、貧困、空約束、誘惑、籠絡等が、彼女を不幸に陥れた。」と云ってゐるが、それは必ずしも偶然の事情ではない。今の社會組織に於ては、それが当然の事である。貧困の中に生み落されて、何等の教養を受けず、頽廃的生活の中に育って、成熟し切らぬ中に仲間の餌食となり、賣淫の群に流れ込む。それは必然のプロセスである。然し必然だからと云って放置しておくべきでは素よりない。根本的の解決の待たるるは無論だが、当面の處置として之が犠牲者を一人でも少くしようとして働かるる方面委員其他に對して、我々は心からの帽子をぬぐ。