賀川豊彦の畏友・村島帰之(20)−『賀川豊彦病中闘史』(19)


      賀川豊彦病中闘史(第19回)

       十 つきまとう酒乱の暴漢

           組織化された防貧事業

 賀川はアメリカから帰朝すると共に事業全体にわたって組織化を企てた。労働者を組織化させて組合を作らせることはその最も重要な仕事だったが、それと同時に従来の貧民窟の仕事にも組織化をはかった。まず貧民窟の有為な青年層を組織化し、これに職業を与えるため一万二千円の資本金を工面して歯ブラシエ場を設立した。

 また前記のトラホーム巡回治療をさらに発展拡大してイエス團診療所を開いて全科の診療を始めた。そのために貧民窟の路次内の長屋のほかに、北本町の表通りに二階建の家を借受け、階下を説教所とし、階上の日当りのいい方を診療室に充て、自分たちは北側の一室に住んだ。

 はじめは姫野という温厚な医師が手伝ったが、大正八年夏からは熱心なるトルストイ主義の医師馬島福が徳島から出て来て専心診療に当ってくれたので、毎日貧しい病者がつめかけた。もちろん診療代も薬代も無料であった。のみならず、年末にはいつも古着市を開き、市内の篤志家から寄附の古着をシャツ一枚十銭といった値で頒った。そしてその収入と一般の寄附金とで、クリスマスを催して貧しい人々を喜ばせ、日曜学佼に来るこどもらにサンタクロースに代ってプレゼントを与えた。

 こうしてアメリカから帰って後、彼の新川の貧民窟における事業の上に多少の変化を見たが、貧民窟の様相は殆んど変わらなかった。ゴロツキが賀川を悩ますことも昔と変りがなかった。ただゴロツキの脅迫の対照が賀川のほかに夫人が一枚加わった点だけが変わっていた。

 ゴロツキは抵抗力の弱そうな夫人に向って脅迫の手をのばしはじめた。ところが、夫人は彼等の想像したような弱い存在ではなかった。むしろ、賀川よりも手ごわかった。夫人は、大きいが、しかし貧しい世帯の大蔵大臣として、必要なことには少しも出資を惜まなかったが、有害無益のことには、金輪際、金を出さなかった。酒に替ることの明白な「小遣よこせ」には断乎として応じなかった。

       ゴロツキの「押しかけ婿」

 此處に一人のゴロツキがいた。彼は松井と呼んでゴロツキ――というよりは酒乱の狂人だった。松井は沖仲仕をしているうち、仲間の一人を殺した事があって、たえず、その亡霊に悩まされ、幻覚があらわれると、それを追い彿うために酒を呑んだ。酒手の持ちあわせのない時は、直ぐ「センセーイ」とゆすりに来て、夜になると診療所で寝たりしていたが、いつのほどにか、ずるずると賀川家に入りこんで、家族の一人のように振舞うようになった。彼よりもあとから賀川家に来た寄食者に對しては先輩顔してゆすった。そして酔うと乱暴をした。松井が脅迫したり、乱暴を加え得なかった唯一人の後輩、それもかよわい女性があった。それは新ちゃんと呼ぶ美しい娘さんだったが、彼女は柔術の心得があって、一度そのゴロツキが女とあなどって乱暴を働いた時、あべこべにこっぴどくやっつけたので、それに懲りて彼女だけには二度と乱暴をしなかった。酒乱の彼ではあるが、手剛い人間には決して手出しをしないで、弱い者や賀川夫妻のような無抵抗の人々にのみ向って行った。中でも春子夫人は彼にとって最も脅迫し易い存在だった。しかし夫人は容易に酒手を与えないので彼は
「先生は善え人やけど、奥さんがしぶちんでいかん」
 と憤慨して、兇器をもって追っかけたりした。夫人は柳に風と受け流すだけで、警察へ突き出したり、家から追い出すことはしなかった。それで、彼は大きな顔をして寄食をつづけ、また毎日のように夫妻に小遣をせびった。そして次第に増長して行った彼は、ついにこんな事をいい出した。
「先生、毎日小遣をもらうの面倒やさかい。月給にしてくれんか。月二十五円でええよってに」

 何の仕事もせす――もっとも、たまには路傍傅道の時、高張提灯を持って先頭に立つこともあったが――寄食している彼に月給! 夫妻はただ笑っているだけだった。ところが、彼にして見ると、当然、月給を要求してもいい彼一箇の理由があるのだった。それは、春子夫人が元女工をしていたことを自分は知っているが、この秘密を他へもらさすにいる。そのロふさぎ料として、夫妻は当然支彿うべきことだ――というのである。夫人が自傅「女中奉公と女工生活」を出版し、若い頃父の工場で女工の監督をしたことなどを公表しているのを知らないで――。
こうしたことかあって、夫人に對する狂漢松井の兇暴はいよいよ募って行った。

 大正十一年一月、賀川が台湾伝道旅行に出発するのを見送るため、夫人が三宮駅へ来ていると、青年があわただしく馳けつけて来て
「松井が酒に酔ってあばれています。そして刄物をもって奥さんを殺してやるんだといって捜し廻っていますから」
と注進して来た。

 賀川は自分の留守中があぶないと考え、とっさの思いつきで、彼の難を避けるため夫人をそのまま車に乗せた。そして台湾まで同道した。結婚後八年たって、はじめての密月旅行であった。

 ところが、台湾の旅から戻って来ると、夫人はからだに異状を見た。懐妊である。ゴロツキの脅迫のおかげで、蜜月旅行もできた上に、さらに子宝まで恵まれようとは! 夫妻はゴロツキに感謝せねばならなかった。

 その後も松井の迫害がつづいた。彼の酒乱は日増しにひどくなるように思われた。そして彼の脅威の下にある春子夫人は、今までとは違い、懐妊の身とて、感覚が過敏となり、感情が興奮し、強迫観念が強くなって、いつもいらいらとして落ちつかない。これでは胎児への影響もどうかと憂慮された。

       暴漢春子夫人を傷く

 或日、彼はまたしても、夫人に小遣をせびって、容れられないと知ると、いきなり鉄拳を夫人の頭上に加えた。ちょうどその時、来合せていた牧師長谷川敞は利き腕でその場に彼をねじふせた。
 「奥さんは、ふだんのからだと違う。もう我慢はならん。さあ来い。警察へ突き出してやる」
 そういって牧師は彼を戸外へ引出しにかかった。すると、隣室から賀川が出て来て
 「長谷川君、ゆるしてやってくれ」
 「いや、いかん、君が何といっても、僕はもう宥してやらん。奥さんに万一の事でもあったらどうするんだ」
「でも長谷川君、キリストは暴に報ゆるに暴を以てせよ、とは仰言らなかった筈だ」
 賀川はそういって、長谷川牧師の手から松井を引き放してやった。彼は腕兎のように逃げて行った。
酒乱のゴロツキではあったが、彼にも善き神の子の性質が隠されてあった。夫妻はそれを知っているので、あくまで彼を見棄てないのだった。二羽一銭の雀をさえ、あだにはしたまわぬ神の思召に倣って――。

 話は少しあとのことになるが、大正十年夏の神戸の大労働争議の折、こんなことがあった。賀川は争議團のリーダーとして三官署に拘引された。それと聞いた松井は
 「先生のような善人を警察へ引っぱるという法があるか。よしッ俺が取り返して来る!」

 そういって三官署へ出かけて行った。彼がよそで暴行を働いて警察へ連行されるたびに、賀川が貰い下げに来てくれた恩返しをしようというのである。しかし、警察で彼を相手にする筈はない。彼は叱りつけられただけで追いかえされた。すると彼はこれまで幾度か放りこまれて所在を熟知している留置場の塀の外へ行って、「センセ――」「センセ――」と呼んだ。もちろん、内部から返事はなかった。

 夕暮になった。だが、彼は半泣きになりながら、「センセ――」「センセ――」と連呼しつづけて立ち去ろうとはしなかった。
 賀川の愛は、この狂える魂にも反応はあったのだ。

     (つづく)