賀川豊彦の畏友・村島帰之(19)−『賀川豊彦病中闘史』(18)

今回も本題に入る前に、写真を一枚収めて置きます。

これは武内勝氏の所蔵アルバムの中にあったものです。東京・松澤教会でのものでしょうか。村島、賀川らのお顔がありますが、年月日がありません。


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      賀川豊彦病中闘史(第18回)

       九 残された刺

          アメリカ留學

 これより先、賀川は貧民窟にはいって二年四ヵ月を経た大正元年二月、神戸神学校を卒業し、貧民窟の仕事に専念することとなったが、その翌年の大正二年五月には芝春子と結婚した。それまで独りでやって来た寄食者の世話や、長屋の人たちに對する手助けも、その日からは四つの手ですることとなった。

 賀川は春子夫人と結婚してから一年四ヵ月の後、勉学のため渡米することとなった。それまで五年間つゞけて来た貧民窟の仕事は、武内勝その他の青年に託して、ほそぼそとつづけて貰うこととし、春子夫人は横演の共立女子神学佼に入学して、良人の留守中に、一通りの神学を修めて置くこととなった。

 大正三年九月、賀川はプリンストン大学に入学した。神学生として神学を学ぶわけであるが、彼には既に「基督伝論争史」などの著作さえあって、今更ら、神学の初歩から勉学する必要もなかった。それで彼は神学部に籍を置いて、大学の心理学教室で実験心理と数学を学び、生理学数室で比較解剖学や哺乳動物の古生物学や遺伝発生学や胎生学を学び、進化論を研究した。

 賀川は、人間の進化に関連して、人間は猿の子孫だとし、まだ生存競争が宇宙を支配する唯一の法則だとするダーヴイン一派の説に對し、深い疑問をもって研究したのである。その結果、彼は植物の生命や、蟻の社会組織や、物理学の観察の中に、愛の本質である相互扶助のあらゆる証明を見出した。そして進化とは、ひっきよう、お互の、有目的の、進歩的な協同の中における神の法則による成長であり、愛の方式における相互自己体現の発見にほかならぬ、と結論するに至った。

 賀川はプリンストンに在る間、学資かせぎのために苦学をした。誰でもするように男の小間使とでもいうべきバトラーもした。彼は主人のいいつけでカクテルを作るのに苦心し、ワッフルの焼き方も工夫した。しかし、それらの労働は別に苦にならなかったが、毎朝鏡をみがかせられる時、そこにうつる青白い不健康な自分の顔を目のあたりに見て、さびしく思った。だが、幸いたことに、心配していた胸も異常を来すことなく、いつか二年は過ぎ、彼は神学士(バチェラー・オブ・デビイニティー)を得たほか、正式の大学生でなかったが、実力ありとしてM・A(マスター・オブ・アーツ)のクレジットをも受けた。

 こうして大正五年九月、プリンストンを去ってシカゴに移り、シカゴ大学に入学手続きをとったが、その時分になって、どうやら古傷がmたしても活動し始めたらしく感ぜられた。賀川は時折り出る咳や四肢の倦怠に、もしや、と懸念した。

 何が心細いといって、異郷で病むほど心細いことはない。殊に、慢性病の結核が再燃するようなことになれば、それこそ一大事である。そう思うと、急に故国が思い出され、残して来た貧民窟のことも気になり出した。

 「勉強よりも、実践だ。貧民窟へ帰ろう」

 そう思い立つと、矢も楯もたまらなくなった。しかし、待てよ、帰国するにしても族費がない。そこで旅費かせぎのため、どこかで一働きせねばならたい。働くにしても、一歩でも日本に近い方がいいと考えて、シカゴ大学の方は断念し、ユタ州オクデン市に行き、そこの日本人会の書記となった。

 オクデン地方には多くの日本人労働者が甜菜栽培に従事していたが、賀川は日本人会書記として、彼等のため小作人組合を作ってやり、賃銀値上の交渉をしてやったりした。こうしてオクデンに在ること六ヵ月、旅費もできたので大正六年四月に、シヤトルに出、そこから乗船、日本に向かった。

 大正八年五月四日、賀川は横浜の土を踏んだ。そしてその翌日には二年九ヵ月ぶりで神戸新川部落に帰り、その夜から再び貧民窟の生活がはじめられた。二ヶ月遅れて七月には、夫人も神学校を卒業して貧民窟に帰り、新帰朝の良夫と、神学校新卒業の夫人の協力による霊肉の救いの運動が、新しき抱負と意気とをもって、新しき方向を目ぎして再発足した。

       いつしか越えた結核

 賀川が始めて貧民窟に足を踏み入れた明治四十二年十二月から、アメリカ留学を終えて帰朝、再び貧民窟に再発足をした大正六年五月までの八年間に、日本の社会情勢は著しい変化を来していた。賀川の活動もおのずから、これに伴って新方向を目ざして進むこととなった。しかし、この変化を語る前に、賀川の健康について記さねばならない。

 アメリカから帰った賀川は、固疾の結核はその鉾をおさめた感があったが、その代り新たに腎臓炎を得て帰った。それというのは、アメリカ留学の日まで十年間の菜食が渡米後破れたからである。アメリカで菜食しようとすれば、トマトと玉葱と馬鈴薯ぐらいだし、それで栄養を十分とろうとすれば、生易しい金ではできない。

 こうして、渡米の日を境として、爾来三十年、腎臓炎は結核に代って、そして結核以上の猛威をもって賀川の活動を妨げることとなった。パウロのいわゆる「残されたる刺」である。神はパウロが高慢とならぬよう、病いを一つのとげとして彼に残し給うたのであった。

 賀川は十二才から二十四才までの修学時代は結核が、そしてまた二十五才、アメリカから帰朝して社会的に活動するようになってからは腎臓炎が、それぞれ「残された剌」として賀川の上に加えられたのだった。

 腎臓炎のほかに、もう一つの刺として、トラホームがある。これこそは彼の貧民窟での働きの記念碑であり、貧民窟のこどもたちから受けた最高の十字勲章なのだ。そしてこれは独り賀川だけでなく、春子夫人も一しょにこの栄誉を分った。

       尊き犠牲、夫人失明す

 夫妻は貧民窟のこどもの、ほとんど全部がトラホームに罹っているのを見て、医者代り、看護婦代りとなって、こどもらに目薬の点眼をして廻った。夫人の爪は硝酸銀のために黒く変色してしまった。

 それだけならまだよかったが、犠牲はさらに拡大して、いつのほどにか、夫妻ともにトラホームに感染していた。特に夫人は、悪症で、眼球内の血管が爆発し、葡萄状にふくれあがった。これは大変だ、というので、大阪医科大学病院に入院し、左眼の葡萄腫を切りとって貰ったので、眼球は救うことができたけれど、覗力はついに、永久に回復するに至らたかった。

 夫人は片眼を失明してしまったのである。周囲の人々が気の毒がって慰めると
「なあに、まだ一つありますもの」
と夫人は、きびきびした関東弁で、笑いながら、さりげなく言い放つのだった。今日でも、見たところは何ともないようだが、夫人の片眼は視力がないのである。

 また賀川のトラホームは、夫人の如く失明とまでは行かなかったが、幾度か失明寸前のところまで行ったのみならす、腎臓炎を併発し、今以て眼疾と腎臓炎とは、賀川の固疾となっている。これは残された刺にしても、あまりにも貴い十字架の刺ではあるまいか。

 結核は賀川の献身の動機となったのだから、そこに神の御摂理というものがうかがわれるが、献身後における眼疾や腎臓炎―−特に夫人の失明のごときに至っては、あまりにも大きい犠牲ではあるまいか。

 しかし、賀川夫妻は、こうした患難を、むしろ喜んでいる。残されし刺に感謝さえ捧げている。そして言う、わたしたちほど神さまに愛されている者はない――と。

 キリストは人類の罪を贖うために十字架にかかった。このキリストの贖罪愛を、賀川とその夫人とは身をもって実践して行こうというのである。試煉も来い、迫害も来い。神と供にある賀川夫妻には怖れるものは何もないのだ。この信仰、この逞しき精神力の前に、病気などはふッ飛んでしまうのだった。

 アレキサンダーは「われをさえぎるアルプスあらんや」といった。賀川夫妻の前にも、彼らをさえぎるアルプスはないのである。

     (つづく)