賀川豊彦の畏友・村島帰之(18)−『賀川豊彦病中闘史』(17)

今回も本題に入る前に、写真を一枚収めて置きます。

この写真は「賀川豊彦写真集」に収められているもので「労働大学の打ち合わせ 於神戸山手海員クラブ」と説明書きされています。

賀川が後列の中央、村島は前列右から3人目、賀川ハルがその隣り?



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      賀川豊彦病中闘史(第16回)


     八 貧民窟の生活

     (前承)

       病気と不潔の中にあって

 賀川の周園にはあらゆる疾病、不潔が取り巻いていた。現に彼が貧民窟に這入った年にはペストが襲った。そのほか、悪疫が流行するといえば、神戸では葺合新川がその流行のさきがけとなった。法定傅染病ばかりではない。結核、梅毒、トラホームなどが常にあったことはいうまでもない。そうした中で賀川は平然として働いた。「どうせ三十才までも生きられる自分ぢやないのだから」といって−‐。

 ところで、貧民窟に住み込んでからの賀川の健康はどうであったろう。

 最初の頃は、大患からあまり時が経っていないので、そのつづきであろう、午後になると熱がた。しかし、賀川は熱に對してはそう敏感ではなかった。熱が出るのは体内の細胞が結核菌に對して勇敢に戦っていてくれる証拠だ、と考えて、高熱でない限り、じっと寝てはいないで、戸外で長屋のこどもたちをあいてに遊んだ。そして疲れて来ると、「あばよ」を告げて家に帰り、畳の上にごろりとなって休息をとった。

 そんな具合で、貧民窟にはいって後、体重も、十一貫五百匁から増しこそしなかったが、大して減るということもなく、健康が支えられて、喀血は一度もなかった。

 賀川は、貧民窟の同病の人々の世話をよろこんでした。中には腸結核で、たえず下痢をしている患者もあったが、喜んで引取って世話をした。

 寄食者は殖える一方。そこで隣家を借り足してとうとう長屋の一棟全部――四軒を借り、それらの人々を寄宿させた。一時は病人が十六人にものぼって、清潔法の検査に来た葺合署の警官から
「これではまるで無届の結核下宿じゃないか。保健衛生上困るから解散しなければいけない」
 といって叱られた。しかし、解散するとしても、一体患者はとこへ行けばいいのだ。当局が患者の世話をしてくれるのか。公営の結核療養所は、その頃はまだ一つもたく、三井慈善病院が東京にできて貧しい病者を収容していたが、結核患者だけは、慢性病で長引くというので、入院を許してくれない現状ではなかったか。

 こうして、ゴロツキに脅迫されたり、酔漢にくだを巻かれたり、貰い子屋の手にかかったこどもを世話したり、半身不隨の女や結核患者や、淪落の女、不良少年等を引取ったり、悪の道へそれて行くこどもを阻止するため、つとめてこどもの友となったりして、懸命の努力をする一方、彼は神の福音を伝えるため救霊團(後、イエス團と改む)を組織し、自宅で礼拝をしたり、説教をしたり、夜は路傍に立って伝道説教をした。こどもたちのために、日曜学校も開いた。青年たちのためには、夜学校を開いて自身教えた。

 こうしているうちに歳月はたって行った。

 
       貧民窟の自然療法

 賀川は十四才の時、結核の診断を下されて以来、幾度か死線を越えて来た。特に明治学院に在学した二十才の夏、豊橋の伝道先で発病した時から神戸神学校に移った頃にかけて、全く余命いくばくもなし、と他人も考え、彼自身もそれを認めていたほどであった。それが捨身の貧民窟入りを契機として、病状が好転して行った。もちろん、非常に疲れた時など、胸部の病巣の活動し始めることもあったが、用心していれば、間もなく回復することができた。

 では、何がそんなに病気を好転させたのだろうか。これにはいろいろの理由がある。
 貧民窟に住みこむようになって、賀川の健康が却って好転したのは、医学的にも無論根拠のあることだろうが、精神的に見て、どうせ長生きができない自分だ、短い余生を神と人とに奉仕しよう――というその気持ち、神にすべてを委せきった光風齎月の態度、それらが彼の弱体を支えたのではなかろうか。

 いのちを惜しがって、やきもきと焦慮する者は却っていのちを喪うが、いのちを捨ててかかった賀川は、病を怖れず、病を忘れて、懸命の努力をしているうち、いつの間にか重病の峠を越してしまったのである。
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 それともう一つは、新川部落は二三丁先が海なので、貧民窟は不潔でも、地上十尺と離れれば、オゾーンに富んだ空気がゆたかに人々をおおうて、吸うに委せたことを挙げねばならぬ。特に夜は塵埃もおさまって、空気は水のように澄みきっている。盗まれる心配のない貧民窟のありがたさは昼夜ともに開けッ放しの生活だから、自然に空気療法もできたのであろう。

 つまり、貧民窟生活の結果、おのずと精神療法と自然療法ができたというわけである。
 右の二つのほか、賀川の胃腸の丈夫であったことも、その病状の悪化を防いだ原因の一つとして挙げることができると思う。

 賀川は療養生活をしている間、一度も腸を壊したことがない。結核患者にありがちな下痢も、ほとんど経験していない。肺結核は相当なところまで進んだが、腸結核にはついに見舞われずにすんだことが、彼に結核峠を無事突破させた一囚をなしたのだと思う。

 では、どういうわけで、そんなに胃腸が丈夫だったのだろうか。間食をしないとか、酒その他の剌戟物をとらないとか、いろいろあろうが、最大の理由は何といっても、病気をした前後十年間、菜食主義を守っていたことにあると思う。

 賀川は前述のように、明治学院の二年の時から菜食主義を始めて、貧民窟にはいってからもこれを継続し、アメリカヘ留学する日まで九年十ヵ月、菜食一点張りで押し通した。しかし、こういったからとて、彼は極端に菜食を主張するのではない。彼自身、鶏卵はたべたし、また海岸地帯に住んでいる人などは、魚を食うがよく、重筋肉作業に従事する人々は、ぜひ動物性蛋白質をとる要のあることを、彼は述べているのである。

 これ等の精神療法、自然療法、食餌療法によって、賀川の健康は支えられ、活動をつづけることができたのであった。

 賀川は肺患を抱いていたが、それは、病気というよりも、むしろ、それが彼自身の健康だったのだ。人はそれぞれ、程度と様相の違った健康をもっているものである。賀川の場合は、時には熱も出、疲れ易く、喀血もたまにはある、というのが、その健康状態だったのだ。そう思えば、何もくよくよするには当らたい。ただ、それに順謝して行けばいい。病気を怖れたり、悲しんだりすることはないのだった。その意味で、彼の闘病五十年は当らない。闘いではなく、順応なのである。病と順応五十年というのが本当である。

    (つづく)