賀川豊彦の畏友・村島帰之(17)−『賀川豊彦病中闘史』(16)

今回も本題に入る前に、写真を一枚収めて置きます。

この写真は「賀川豊彦写真集」のなかにあるもので、「昭和23年 伝道40年感謝会 村島らと歓談」と説明書きされています。


        ♯         ♯


      賀川豊彦病中闘史(第16回)

     八 貧民窟の生活

       (前承)

       貰い子殺しの児を養う

 こうしたゴロツキの脅迫や迫害には、あえて驚かなかったが、貧民窟で公然行われる「貰い子殺し」には全く心を痛めた。貧民窟には子供を貰う仲介人がいて、そこへ産院や口入屋から、事情があって母親の手許では養育のできない私生児を連れて来る。仲介人は、その子に添えられて来た養育料と衣類その他の中から若干をはねた上、長屋に住む「貰い子屋」――多くは老婆である――に渡す。その老婆が、育てるのかと思うと、さらに別の老婆の手に渡したりして、その都度、その子に添えられた金品は減って行って、最初、こどもの親からは衣類十枚と金子三十円が添えられてあったとして、仲に立つ者が順次、上前をはねてリレーのように転々して行くうち、最後には金五円と衣類二枚ぐらいで、こどもが引取られることになった。もちろん、貰い手はこどもが可愛くて貰うのではなく、添えられてある金品が目当てだから、こどもは厄介者であった。そこで厄介払いのため、故意に栄養を輿えないで、慢性的に殺してしまうのである。賀川が貧民窟に這入った頃は不景気のドン底で、貰い子殺しが頻発した。そしてついに一人の貰い子を彼が引受けねばならぬ羽目に立ち至った。

 それは賀川が貧民窟へ入って間もたい頃で、まだ神学校に通学していた時のことであった。ある日、貰い子殺しが発覚して長屋の一老婆が検挙されたと聞いて、急いで警察へ出かけて行くと、驚いたことには、その老婆が別にもう一人、頻死の貰い子を連れているのだった。いうまでもなく、早晩その子も老婆の魔手にかかって殺される運命にあるこどもであった。彼は黙過するにたえなかったので、署長に頼んでその子を引取って帰った。死ぬべき運命の下にあった子、その名はお石といい、痩せ衰えその上、腸カタルで四十度以上の熱があった。賀川はその晩からお石を抱いて寝ることとなった。その夜から賀川は夜中も幾度かお石の泣き声に起され、乳をといてのませ、おむつをしかえねばならなかった。あいにく神学校の試験最中たったが、お石の世話のため試験勉強どころではなかった。賀川は泣きながらお石の世話をした。その時の心境が詩集「涙の二等分」に次の如くうたわれている。(この詩も、ここでは原書をもとに記して置く。鳥飼)

   おいしが泣いて、
   目が醒めて、
   お襁褓を更へて、
   乳といて、
   椅子にもたれて、
   涙くる。

   男に飽いて、
   女になって、
   お石を拾ふて
   今夜で三晩、
   夜昼なしに働いて、
   一時ねると
   おいしが起こす。

   それでも、お母さんの、
   気になって、
   寝床蹴立てて、
   とんで出て、
   穢多の子抱いて、
   笑顔する。

   貰い子殺しの、
   残しもの、
   干し損ねられた、
   この梅干しの実
   腸カタルで、
   四十五度の熱、
   夏の夜短
   世は静か、
   近所の時計が、
   一時なる、
   そろそろ、
   壁が、
   しわたきをする――

   殺人犯の
   有った家――
   天井がもの云ひ
   柱がわめき
   血を嘲って、
   床板が吠ゆ。
   寂しいね、寂しいね。

   『ああ、どうして、かうまあ
   世は不人情なんだろう
   私や、お石からみたら
   地球はまるで、
   水玉のやうなものだね・・・』

   『え、え おいしも、
   可哀相じゃが、
   私も可哀相じゃ、
   力もないのに、こんなものを、
   助けなくちゃならぬと、
   教へられた、
   私――私も、
   可哀相じゃね』

   『こら こら
   おいし、千ぬけた人形よ、
   お前も女の屑じゃぞよ、
   こんなに男が弱っている時にやあ、
   女が男を慰めるのが、
   あたりまへだぞ』

   あ? おいしが唖になった、
   泣かなくなった、
   眼があかぬ、
   死んだのじゃ、
   おい、おい、未だ死ぬのは早いぜ、
   わしは葬式料がないんだぜ、
   南京虫が――
   脛噛んだ――あ痒い!

   おい、おいし!
   おきんか?
   自分のためばかりじゃなくて、
   ちっとは私のためにも、
   泣いてくれんか?

   泣けない? 
   よし・・・
   泣かしてやらう!

   お石を抱いて、
   キッスして、
   顔と顔とを打合せ、
   私の眼から涙を汲み、
   おいしの眼になすくって・・・

   『あれ、お石も泣いてゐるよ
   あれ神様、
   おいしも泣いています!』

 お石は死ぬべきいのちを助かって今も関西にいる。もう四十才ぐらいにまっていよう。 こうした経験によって、彼は人間の堕落を歎かすにいられなかった。

       売られて行く娘

 大人はともかく、せめて天使のような、けがれを知らないこどもだけは、一人前の人間に仕上げなければならぬと思って、暇があると表へ出ては、こどもたちと遊び、これを指導した。だから、新川のこどもは、まだ「父(チャン)」といえぬ幼児も「先生(チェンチェ)」ということができた。彼が歩いていると鼻をたらしたこどもが、あとからぞろぞろとついて来た。その頃の詩にこんなのがある。(次の詩も、詩集「涙の二等分」の原詩を挙げる。詩のタイトルは「私の御弟子」。鳥飼)

   私のお弟子は
   三人、四人、
   鼻垂れ小僧の
   蛸坊に、
   疸高声の甚公は
   私の一と二の弟子で、
   便所の口まで
   追いて来て
   私の出るのを
   待っている。

   乞食の「長」は
   三の弟子、
   クリスマスの前の晩
   出口さんの御馳走に、
   お辞儀は知らぬが
   鯱ちよこ立ちしたよ。

   お父さんと云へぬが、
   「テンティ」(先生)と云へる、
   親は呼べぬが
   私は呼べる、
   鍋嶋のお凸は四のお弟子。

   売られて 行くのが
   悲しさに、
   うちの戸口で
   半日泣いた、
   今年十二の清ちゃんは、
   私の可愛い女弟子!

 こうしてわが子のように愛撫していても、男の子はいつのほどにか周圃の者に感化されて悪の道に走り、女の児は無頼漢にかどわかされるか、さもなければ、親兄弟の手で、遊郭へ売られてしまった。売られて行くのが悲しくて、賀川の家の格子の前で半日泣いていた可憐の少女清子はどうなったことか。また或る少女は、色の真黒な子だったので、まさかと思っていると、父が賭博に負けた結果、兵庫新川の遊廓へ三年の年期、わずか三百円で売られてしまった。その子は洗礼までうけていたのだったのに−−。

 また大正九年頃は不景気で、多くの少女が最低三十円から最高百五十円ぐらいで富山あたりへ酌婦に売られて行った。それをきくと直ぐと警察へ馳けつけて交渉し、前借金を辨済して取戻したこともあった。が、貧しい親達は悪周旋屋にだまされて、折角とり戻してもらった娘を、またしても他へ売ってしまった。

    (つづく)