賀川豊彦の畏友・村島帰之(16)−『賀川豊彦病中闘史』(15)

今回も本題に入る前に、写真を一枚収めて置きます。

これは「賀川豊彦の畏友・武内勝氏の所蔵資料」の中のアルバムにあったものです。いちばん上に村島、右端前に賀川、前列に吉田、ハタを持つのは間所のようです。


        ♯          ♯


       賀川豊彦病中闘史(第15回)


     八 貧民窟の生活

         貧民窟の第一夜

 賀川が神戸葺合新川の貧民窟へ移って行ったのは、明治四十二年も、あと一週間に押しつまった十二月二十四日。市中の教会や信者の家ではクリスマス・ツリーを立てて、たのしく基督の誕生のお祝いをしている夕べのことであった。二十二歳の神戸神学校の賀川は、縞の筒っぽを着て、雲打ちの高台の神学校から、蒲團と本とを荷車に積み、監獄を出たばかりの不良少年植木に後押しさせ、自分で引いて、葺合新川ーーくわしくいへば葺合区北本町六丁目二千五十三番地ーーヘ引越して行った。

 そこは木賃宿街の裏筋で、北本町の表通りからは全く見えたい路次の奥だった。手をのばせば向い同志で握手のできようという狭い路次の両側に、十軒づつ合計廿戸の長屋が、並んでいた。それを、ざらに横へ折れると、また五戸づつ並んだ長屋があった。賀川の引越したのは五軒長屋の東から二軒目の家であった。

 表には形ばかりの格子がはまっているぼか戸締りもなく、床も落ちかかっていて、格子に障子のかげさえなく、それに、表に二畳と奥に二畳あるべき筈の畳も見えない。で、植木と一緒に床を張り直し、表の二畳には一枚七十銭で古畳を買って入れたが、電燈がついていないので、かがやかしかるべきスラム生活の第一夜は暗闇の中で送らねばならたかった。語るに友もない師走の貧民窟、始めて迎える黄昏はものさびしかった。珍らしそうに格子からのぞく近所のこどもの瞳にも、まだ馴染みきれない警戒の色が見えていた。

 しかし、貧民窟の人々は、いつまでも彼を、さびしいままにはしておかなかった。

 当時、世間は不景気のドン底で、貧民窟には腹の空いた人や、こごえようとしている人が多く、賀川の引越して行ったその夜、早くも一人の男が
 「泊るところがごわへんのや、泊めておくンなはれ」
 と宿を借りに来た。わすか三畳敷一間の家、蒲團も一組しかなかったが、決く迎え入れて、一つ蒲団で一しょに宿ることとした。自分の肺病をうつしてはならぬと思って背中あわせに寝た。で肺病はうつらなかったが、その男が疥癬の患者であったため、たちまちそのひぜんに感染した。貧民窟生活の第一夜の収穫は疥癬だったのである。

 この男を皮切りに、毎日、立替り入替り、いろいろの者が飛びこんで来た。何のことはたい、ゴルキーの「夜の宿」にそのままであった。

 しかし賀川を最も悩ましたものは、これ等の寄宿入ではなく、附近のゴロツキであった。彼等は人を殺すのを何とも思っていない。彼等はむしろそれを手柄とした。人を殺す事が多ければ多いだけ勢力が増すからである。或るゴロッキは仲間への新入の挨拶に、人間の生首を手土産にしたという。

 ゴロッキたちは毎日のように、金をくれ、何をくれと無心をいって来た。貧民窟の人々は金持ちの息子が金をつかいに貧民窟に飛込んで来たのだといい、また外国から沢山金を送ってくるのだといって、預金でも引き出すように金をゆすりに来たのである。

       ゴロリキの脅迫

 或るゴロッキは、現に賀川の着ている赤チョッキをくれとゆすった。彼は気前よくこれを与えた。また或時は酔っぱらった男が坐りこんで夜のあけるまでくだをまいて、翌朝帰ったあとを見ると、畳をよごしていたというようなこともあった。こういう場合も小言一ついわす、ただ黙っていた。また或る名家の成れの果てだというゴロッキは、日に幾度となく「だゞの五銭でいいから」とねだった。妻に淫売をかせがせている或る男は「辻説教で淫売を攻撃したのはけしからん」といってゆすりに来た。或男は彼の説教が気に喰わぬといって、火のはいった火鉢を投げつけた。

 「只今からあなた方の神を信じます。その証拠に神棚を持って来ましたから、焼くなり、踏みつぶすなり、あなたの勝手にして下さい。そのかわり五十銭下さい」
 と神棚を持ちこむ男もあった。それが酒代になると知って断ると、賀川が祈祷会を催している最中、大きな石を投げこんで仕返しをした。

 或る淫売の親分は大きな刄物を引ぬいて来て金をゆすり、また或るゴロツキはピストルを突きつけて脅迫した。酒に酔えばいつもピストルを放っのが癖の男は、賀川の家の障子でも飯櫃でも、人形でも、目星しいものは片っぱしから持出した。その他、ゴロツキから白刄やピストルで脅迫され、追っかけられたことは数限りがなかった。

 しかし、いかに白刄でおびやかされようと、鉄拳でなぐられようと、あくまで無抵抗主義を守って、彼等の「暴に酬ゆるに愛をもって」した。ゴロツキの脅迫にあった時は、どんなに忙しい時でも気をおちつけて少しもさからわず、獣ってあいてのいうことを聞いていた。でも時間を空費するのが惜しいので、時に若干の金を輿えて帰ってもらうこともあるので、ゆすりの客は絶えなかった。

 長屋附近には殺人沙汰が珍らしくなかった。賀川か貧民窟にはいる前の年には新川だけで十件の殺人事件があったし(現に賀川が借りて住んだ家も、わすか二十銭の祝儀の事から喧嘩をして斬られた男が帰って死んだ家であったことは前に記した。)その年にも六七人の者が殺された。賀川の目撃した殺人の中には鶏の頭一つの事から隣の男を殺したのや、女房と怪しいといって、あいてを殺しだのがあった。また十四才ぐらいのとどもが、同じ年頃のこどもを殺したのもあった。大正八年の元日には、喧嘩の仲裁をして、却って殺された者もあった。妻同志の喧嘩を買って、あいてを殺した者もあった。「賭博をして勝ったから帰るというのは卑怯だ」といって殺したのもあった。寺の住職が賭博場の案内をしなかったからといって殺されたのもあった。

 彼等は全くのいのち知らずである。こうした手合を相手とすることは、全く白刄の下に立つのと同様であった。

 殺人でさえこれがから、喧嘩は日常茶飯事だった。賀川が引き移って行ったその日から新川界隈で喧嘩の一つもないという日とては一日もなく、一ヶ月間にわたって近所百軒ばかりの家の喧嘩の日記をつけたが、その合計三十三件、一日平均一件三分の喧嘩があった。

 こうした喧嘩の渦中にも時々止め役として出た。喧嘩の仲裁と一口にはいっても、土方の喧嘩の仲裁となると、小指を切って渡すという方式さえあって、うっかり仲裁もできなかったが、できるだけ仲裁の労をとった。中には、母親に亭主を取られるといって、嫉妬からの親子喧嘩があって、これは仲裁に困った。

 貧民窟の喧嘩は、概ね酒から起った。賀川の周囲には常に酒飲みがいて、熟柿臭いいきを顔にふっかけ、いつまでも坐りこんで動かなかった。酒さえ飲めば、いつも議論がしたくなって「アダムとイブの堕落」を論じに来る理窟上戸もいたし、酒徳利を手にして説教所へ現われては、呂律のまわらぬ舌で説教を始めるもの、突然、訪ねて来て三時間も黙って坐っていてそのまま帰って行く黙り上戸、それに、メソメソと泣き出す泣き上戸もあった。もちろん暴れ上戸はさらに多く、オルガンはこわされ、ガラス障子や食膳もめちゃめちゃにされた。彼等はいくらものをこわしても賀川が警察に訴えないことを知っているので安心して破壊した。

 ゴロッキや酒飲みの話は「死線を越えて」でも、ヤマであるが、十数年にわたる賀川の貧民窟生活におけるゴロッキの話はほとんど無尽蔵である。

     (つづく)