賀川豊彦の畏友・村島帰之(15)−『賀川豊彦病中闘史』(14)

今回も本題に入る前に、写真を一枚収めて置きます。賀川豊彦没年前後(1960年)に村島が書き下ろした連載「労働運動昔ばなし」のなかに添えられたものです。



写真の説明には「貧民窟十年記念会−神戸会員クラブで」とあり、右から遊佐敏彦、木村甚三郎、小田直蔵、マヤス博士、土屋正三、村島帰之、馬島福、長谷川敞、福井捨一 とあります。


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       賀川豊彦病中闘史(第14回)


      七 憧れの貧民窟へ

         神戸のイースト・エンド

 神戸神学校へ転校して来た賀川の前には、「貧民窟生活」への道が、開かれようとしていた。

 賀川は病気の治ると共に、路傍説教に出かけた。初めは、神戸の盛り場である湊川公園へ、毎週日曜日の晩に出かけて行って、公園の浮浪人や附近の福原遊廓へ出かけようとする人々に呼びかけた。しかし、この辺は福音傅道館の一團が前から路傍傅道をしているところなので、遠慮することとし、少し冒険ではあるが、多年の憧れの貧民窟に進出しようと決心した。

 なあに、手引なんか要るものか。自分独りで出かけて見よう。――そう決心して明治四十二年三月の第一土曜の夜、神戸の東端の貧民窟である葺合新川部落へはじめて出かけて行った。

 ロンドンのイースト・エンドにしても、ニューヨークのイースト・サイドにしても、貧民窟はどうしたわけか大都市の東に位置を占めているが、神戸もそうだった。もっとも、西の長田にも、新川に劣らぬ大きな密集地帯があるにはあったが――。

 今日では、神戸市の不良住宅改善事業が行われ、次で戦災を蒙った結果、新川部落は十四間道路が貫通して往年の面影は全くなくなっているが、賀川が路傍傅道を試みた頃は、瀧で名高い布引の谿から海へ流れ落ちる新生田川(後にこの川の上に蓋をして、瀟洒な散歩道路さえできた。)の橋――その名も悲しい日暮橋を東に渡ると、そこには、南に神戸の港をひかえ、北に再度山を負うた新川部落の一劃が展開された。南本町四、五、六丁目、北本町二、四、六丁目、吾妻通り五、六丁目、日暮通三、六丁目の約五丁四方には、よくもこうまで揃ったものだと感心させられるほど、小さな、貧しい平家建の長屋が縦横に建て連らなっていて、その戸数は約二千と註せられ、住民の数は八千人を超えるだろうという。五丁四方に二千戸(八千人)だから、一丁四方に四百戸(千六百人)となる。その密集状態が窺われるではないか。もっとも、東京でもその頃は下谷区万年、入谷、龍泉寺、金杉、山伏の五ヵ町に貧しい長屋の世帯約二千八百、人口約一万を数えたというが、この五ヶ町の廣さは新川などとは比較にならぬほど廣いものだったから、密集状態が新川ほどでなかったことも容易にうなずけるだろう。

 何しろ新川には「二畳敷」とよばれる二畳一間づつを一軒に仕切ったハ軒乃至十軒長屋が八十何戸も建ち並んでいて、その一軒一軒に三人、五人、甚だしきは一家九人の家族の住っているのさえあった。厩にしても、もう少し余裕があり、また綺麗に掃ききよめられてあるだろうに、そこは人間の住む場所としては余りにも狭く、あまりにもむさくるしいものであった。でも、そこに住む人々は一向平気だ。順応性の働く結果であろう。

 賀川はこうした場所に来て路傍説教を試みようというのだ。左を見ても、右を見ても、知らぬ顔ばかり、いや、どの顔を見ても、みな一くせありげな、こわい顔、ゆがんだ顔、さびしげな顔、顔である。

 が、思いきり大きな声を張りあげて讃美歌をうたい出した、ボロをまとった人々が何事かと周園を取巻いた。賀川はゴクリと唾をのみこんで、やおら、声高く話し出した。ふり仰ぐと、夜空には星がきらきらと光って、しっかりやれ!と励ましてくれているように思われた。

 聴衆−−というよりは群衆といった方がよかりそうな――は一向判ってくれそうにもなかった。「なに、ぬかしてんね」といって、そのまま行ってしまう者もあったし、「アーメンかいな」と、ひやかして通る者もあった。

 でもその夜の路傍説教で一人の友達ができた。彼は十五歳の時、此処の六軒通へ放火して懲役九年に處せられ、最近出獄して来たという男だった。目に一丁字もたかったが、獄中で教誨師からイロハも教えられ、聖書を貰ったとかで、ひとかどの信者らしい口をききながら近づいて来て、自ら進んで証言を述べたりした。

 怪しげな信者ではあったが、知った顔一つない新川部落に馴染んで行くためには、この男の力を借りることが近道のように思われて、知りあったその日、早速申込まれた金五十銭也の無心も快く聞きいれてやった。

         元町の路傍にたおる              

 賀川はまだ貧民窟専門に路傍傅道をするまでに決心がつかなかった。湊川公園は傅道館の人々に遠慮したが、新しく元町を開拓しようと考えた。

 元町というのは、神戸駅の東、相生橋の東詰から西に向って元居留地のあたりまで伸びた数丁の商店街で、いわば「神戸の銀座通」だった。年若い市民たちは、此處を散歩道路としていて、夕方から夜へかけ、人の流れがつゞいていた。賀川はこの元町通の中間、元町二丁目の市田寫真館の角に立って、九月五日から約一ヵ月間、独りで毎夜、路傍に立って神の道を説いた。

 或夜、その日は生憎、昼から雨もようの空で、気分も重かったが、毎日同じ處で話しているのに、たとえ一日でも休んでは申し訳けがないと思って出かけた。すると、今にも降り出しそうになっていた雨が、ついに説教のなかばから降り出した。でも、聴衆が小雨の中を踏みとどまってくれたので、それに勇気づけられて話しつづけた。すると、急に脊骨を氷のような悪寒の走るのを覚えた。そして見る見る、身体がふるえて来た。

 「熱が出たな」――そう思った。けれども心中の熱は、からだの熱をおさえた。
 「僕はたおれるまで福音を説くのだ。神は愛だということを、この人たちに判らせるために・・・」

 幾度がたおれそうになったが、ついに話を終りまで持って行くことができた。語り終ってホツとすると同時に、くらくらと目がくらんで嘔吐が来た。

 どうして、どこを、どう歩いたか判らなかったが、やがて、瓦斯会社出張所のショーウインドーの前で、雨の舗道の上にたおれている自分を意識した。

 「行きだおれじや」「どこの人?」「元町で辻説法をしている若い男や」自分を取巻く群衆の声が耳に這入って来た。

 昏倒から覚めても、なお十分間あまは、そこを動くこともできたかった。「行きだおれか」とふり向く者はあっても、手を貸して医者の許へかついで行ってくれる人とてはなかった。賀川は、苦しいよりも、むしろ寂しかった。雨のしずくよりも、人情の方が冷たく感ぜられた。

 その夜遅く寄宿舎へ戻って熱を測ると、四十度という高熱、どうやら肺炎の兆候があるという。
 「これは、なかなかの重態です」
 と医者はいった。マヤス博士たちも、此度こそは賀川もだめだろうと思った。

 十月十六日の夜、賀川の枕許で、マヤス博士や友人たちが集って祈り会を催した。

 賀川も始めのうちは、いよいよ自分も駄目かなと思った。だが、駄目、というのも、死ぬことではなく、自分のからだでは、路傍傅道ぱ無理、という意味の方が勝っていた。のみならす、日がたつにつれ、絶望感や引込思案に反撥するように、勃然として勇気の湧き上がって来るのを覚えた。

 ――血痰ぐらいにへこたれてどうするのか。足にとげがささったって血は出る。内臓に小さなとげがささったのだと思えば、喀血だって、血痰だって、あえて怖るるには足らぬではないか。

 ――メソジストの創始者ウェスレーだって結核だった。たびたび血も啖いた。けれども、あれだけの仕事をしたではないか。自分にそれができないというわけはないではないか。

 ――どうせ、ひびの這入ったこのからだだ。六十、七十の長壽は望めないし、望みもしない。それなら、短い余命を、最も有意義に使用すべきではないか。

 ――自分は少年の日から、トインビー・ホールのセツラーの働きを胸に描いて来た。一生、貧しい人々の友となろう、と決心した筈だった。自分が親戚の反對を押しきって上京して、明治学院に入学し、苦学をつづけて来たのも、そのためではなかったか。

 ―−そうだ。神が自分に課し給う使命は、貧しい人々の救いにある。自分は長からぬであろう、残る生涯を、貧しい人々のために献げよう。そして死なう。病気がよくなったら、本式に腰をすえて、貧民窟伝道と貧民救護に手を着けよう。

 ――もう元町の伝道はやめた。これからは専ら新川の貧しい人々に働きかけよう。

         死んでもいい、貧民窟ヘ!

 こう決心すると、気持がサラッとして楽になった。賀川は床の間の柱に、電燈の光が鈍く反射するのを、じっと眺めていた。

 一分、五分、十分、二十分、……

 すると、凝硯する光の一点が、虹のように見えはじめた。ついで、自分の今臥っている部屋が天国のように感ぜられて来た。まとっている垢だらけの蒲團までが、錦襽どんすのように思えて来た。そして、自分が神のふところに抱かれているような喜びの実感が湧き上って来るのを覚えた。

 うれしい、ああうれしい。

 賀川は病気のことなど、すっかり忘れて、法悦の境に浸った。すると、不思議、熱が嘘のように下り、脈もほとんど平常のそれのように、正則に力強く打ち始めているではないか。嘗て、蒲郡で、夕焼け雲を凝観して経験したのと同じ経験が再び訪れたのだった。彼はなお瞑想をつゞけて行つた。

 ――自分は血を吐いてそのまま死んでもいい。貧民窟へ行く。いいや、もう自分は一度ならず、二度、三度、死んでいるのだ。今在るこの命は、いわば、ひろいものをしたようなものだ。そうだ。僕は「死線」を越えたのだ。

 ――死線を越えた者に、何の死の怖れがあろう。自分は貧民窟へ行く。そして残る生涯、そこに住んで、貧しい人々の善き隣人として働こう。

 ――人その友のために死す、これより大たる愛はなし・・・ああ少年の日から持ちつづけて来た夢が、ついに今まさに実現されようとしている。感謝だ、感謝でなくて何だ。
 
 ――神さま、ありがとうございます。わたしは、ますらおの如く、腰ひっからげて、貧民窟へ、まっしぐらに進みます。

   ・・・・・

 賀川の半生の羅針盤は、ここにピタリと進むべき針路を決定したのであった。

 かくて病床にあること三週間の後、彼は再び起き上ることができたが、この病臥中、新川の貧民窟に這入ろうという決心が、ついにハッキリとついた。

 初めて外出ができるようになった日の午後、賀川は待ちかねたようにして、かつての日知り合った怪しげな信者植木の家を訪ねて行った。植木はあいにく衛生掃除のゴミ引き(塵芥集め)に行って留守だった。仕方がないので北本町の方へ露地を出ようとした時、蝉丸のように飛んで来たこどもがつまづいてたおれた。急いで起こして見ると、額から血が出ている。こどもは大声をあげて泣き出した。賀川はハンカチを取り出して血を拭い、その児の家へ送って行った。

 この児の家に行ったというよりは、たえず賀川を守り導き給う神が、そこへ行かしめ給うたという方が当っていよう。なぜなら、その児の家こそ、新川の大親分の家で、そしてこの大親分の世話で、彼の新川入りの道が開けるようになったのだから――。

 こどもを送り届けたことが奇縁となって賀川は親分の信頼をうけた。親分は彼が新川に自ら住みこみたいという希望をもっていると聞いて、ポンと膝をたたいた。
 「そうや、わしの持家に一軒空家がおます。それを貸したげよう」           
 まさに渡りに船である。さっそく借りたいと頼むと
 「けんど、その家にはな、少しわけがごわしてなア」
 そのわけというのは、その家は、前の年の暮に、わすか二十銭の祝儀のことから殺人が行われた家で、それからというもの、幽霊が出るという噂が立って借手がない――というのである。

 幽霊の出る家に住むのも一興だ。賀川は親分からその家を借受けることとした。
 六カしいと思われた貧民窟入りの道も、こうして易々と開けて行った。
つた。
 

      (つづく)