賀川豊彦の畏友・村島帰之(14)−『賀川豊彦病中闘史』(13)

 只今村島の名作『賀川豊彦病中闘史』を連載中ですが、ここまで数回にわたって村島夫妻の著作『愛と死の別れ―野の花にかよう夫婦の手紙』の中からご夫妻の絵や歌、そして文章を取り出してみました。

 今回は、賀川が昭和2年に雑誌「中学世界」に連載した立志小説『南風に競ふもの』(神戸のイエス団にかよったオリジン電気社長の後藤安太郎がモデルといわれる)が昭和3年1月に「東京・博文館蔵版」として刊行され、その表紙裏に、村島宛の賀川豊彦のサイン――「敬意もて 村島大兄 豊彦 一九二八・三・四」−−がありました。



 なぜこの村島所蔵の古書が、神戸三宮の後藤書店に在ったのか、その経緯はわからない。(賀川も若き日からよく通った老舗古書店の後藤書店はいまはない。個人的にも御世話に成った大切な古書店でした)

 なお、ここに写真を一枚収めておきます。写真集『KAGAWA TOYOHIKO』に入っている「大正8年 友愛会関西労働同盟会結成」の折の賀川豊彦・鈴木文治(前列右二人)と共に収まる村島帰之(後列右二人目)。



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      賀川豊彦病中闘史(第13回)


     六 療養生活

       自然療法の実践

 賀川の簡易生活は、同時に自然療法であった。月一円の家賃の古家は、そのまま空気療法の道場であった。盗まれる品もないのだから、戸締りの必要もなく、夜も昼も開放の生活である。夜気を恐れる人もあるが、戸外で夜気に触れる場合はともかく、室内で夜気を呼吸することは、夜は塵埃が収まって、空気が浄められているだけ、衛生的であった。まして、寝苦しい夏の夜、外の冷気を呼吸しながら眠るよろこびは、密閉した病室で不眠をかこつ者の味い知らぬところである。夜も開放して寝る癖のついた者は、戸を締めては寝苦しくて眠れない。賀川は「密閉した部屋で寝ることは罪悪である」とさえいっている。

 しかし、賀川の自然療法も、はじめから軌道に乗っていたわけではなかった。家賃月一円のボロ家は、風の吹く夜は空気療法も行き過ぎとなった。過ぎたるは及ばざるがごとしで、そうした吹きさらしの中に眠って、よく風邪をひいた。そこで、彼は風が通りぬけて、体温を持って行かないように、風上の戸や障子は締めて、欄間をあけることとした。

 昼間は、もちろん、開け放して大気を思うまゝに吸いながら、本をよんだり、原稿を書いた。

 賀川は単調な生活をまぎらわすために、大八蜘蛛を五匹も軒に飼って、その生活ぶりを観察したり、野良犬や野良猫をつれて来て可愛がったりした。

 こうして空気に親しみ、日光に親しんで自然療法を実践したが、賀川の見解に従えば、こうした自然療法は一つの精神療法の発展であった。自然のうちに神秘を発見し、宇宙の創造者の言葉を聞くつもりで自然に接近すれば、自然療法は全く精神療法と一致するのである。賀川は記している。

「若くして肺を悪くした哲人ソローは、米国のマサチューセッツ洲郊外のコンコード町から少し離れた森林に隠れて、森の中の鹿や栗鼠を友とし、有名な「森林生活」を書いた。自然療法と精神療法が一致した場合、自然はわたしの霊魂のために新しい衣となり、神の御殿の窓枠にも似て来る。自然療法をしていながら、自然の神秘に思い至らず、文明から見捨てられたような気持になる人は禍である。」

        療養生活九ヵ月

 しかし、学業なかばにして、独り田舎へ来て療養していることは、たとえ、燃えるような信仰をもっているにしても、一沫のさびしさを禁することができなかった。賀川はそのさびしさを、こう歌っている。(以下に引用されている賀川の二つの詩は、原詩『貧民窟詩集 涙の二等分』に忠実に表記しておく。鳥飼注)

   夢も結ばす、
   熱もさめず、
   たゞ思ふ――
   わが生命の
   夢と浮ぶを。

   立ち上り 
   筆を求めて書く、 
   わが身薄命 
   神何をか
   我に求むと。

   筆は走らず、 
   思は 乱れて、 
   涙のみ せく、 
   時に 夕陽の 
   憎く 笑ふ。

   五才の秋 
   父母に別れ 
   十六 
   兄を失って
   孤独!

   身はイエス
   生きんとすれど、 
   貧しき者は 
   天国に遠し
   肉は(ああ)亡びぬ。

   他に霊もらん、
   器もなし、
   眼をすえて、 
   自滅の最後、 
   笑んで 待つ

 これは「薄命」と題したものであるが、また「絶滅」と題してこんなのもある。

   晴れて 
   また降る 
   友なし 
   淋しき。

   血尽き、 
   肉 枯れ、 
   救ひなく 
   亡びん。

   ままよ 
   生命を 
   死より
   産まん。

   愛は 
   輪廻よ、 
   十字架は
   救ひ。

   絶滅 
   そこに 
   生命は 
   輝く。

 「薄命」といい、「絶滅」といい、賀川は神を信じつつも、病苦の重圧に、己が運命を顧みてさびしさの中にあったのであろう。

 一月に来て、春のうちに健康を取戻し、四月には徴兵検査を豊橋で受けたが丙種で徴集は免除となった。夏になるといよいよ好調で、漁師にすすめられ、田原の沖まで打瀬網に乗って出かけるようになったが、徹夜の出漁にもあまり疲労を感じないようになった。そこで四十一年九月、九ヵ月間の療養生活に一まずピリオドを打って、再び神戸神学校の寄宿舎へ帰って来た。

       鼻と痔ろうの手術

 病気をしていると、いろいろとほかの病気が出て来るものである。鼻が悪くなったので、神戸へ帰ると、県立病院で診て貰ったが、結核性だといわれ、上顎の肉を削り、骨に穴をあけて膿を出したが、手術後五日目頃から出血が激しく、一升近くも血を失って貧血のため失神したことさえあり、一時はどうなるかと危ぶまれたが、幸い入院一ヶ月内外で全治退院した。

 鼻が癒ったと思う途端に、此度は痔瘻である。これは前々からあった結核性のもので手術を要するという。そこでマヤス博士らのすすめで京都の五条の教会に宿をとり、大学病院に通って手術をうけた。直腸の中にガーゼを一丈近く挿入したりして、憂鬱だっだが、気をまぎらすために、読んだウェスレーの信仰日記は、賀川の貧しき人々への献身を促がす大きな刺戟とたった。

 こうして賀川は度々の、そしていろいろの病気に見舞われたにも拘らず、いつも不思議に支えられた。神は賀川に對し何ごとかを期待し給うと見えた。賀川はその神の摂理を堅く信じた。

 「やがて死ぬ自分だ。むざむざと死んではならない。死ぬ前に少しは善いことをしのこして行こう。命を死より生もう。」

 幾度か死線を越えた多感の青年賀川豊彦は、蹶然として立ちあがったのである。

      (つづく)