賀川豊彦の畏友・村島帰之(13)−『賀川豊彦病中闘史』(12)

 村島帰之・しづゑ共著『愛と死の別れー野の花にかよう夫婦の手紙』において、しづゑの絵と共に「うた」が収められています。

 今回はこの共著作品の最後として夫人の「うた」と巻末に記されている村島の「鎮魂歌―妻よ、やすらかに眠れ」を掲げさせていただいてから、今日の本題に進みます。

     耐えがたきこと耐えゆかん春とならん
       夜半の嵐を中空に聞く

     この寒さいかにしのがん一冬を
       衰えてわがほとほと苦しき

     君が住む心の国にわれもまた
       参ぜんと思うたどたどとして


      鎮魂歌ー妻よ、やすらかに眠れ
                          
                    村 島 帰 之

 真理子からはたんに肋膜炎を併発しただけだと報じて来たが、看護婦の戸田さんは「結核の肋膜とは違って、癌のあとの肋膜は安心していられません。」と語った。それでも、結核性肋膜炎の先入観のあるわたしには、それぼどとは思わなかった。
 しかし、いつも手紙を出せば、こだまのようになにかしらの返事をよこした妻の手紙が、この数日、さっぱりなく、そのうえ、たまに来る真理子の代筆もただ「心配はない」一点ばりなのも不審である。わたしはにわかに胸さわぎがしはじめてきた。わたしはただひたすら祈った。そのやさき前ぶれもなく、突如として真理子の婿の鵜飼広がわたしの病室へはいって来た。
 「とうとう、いけませんでした。残念でした。」
 と、うつむいて涙ぐみながらことば短く語った。真理子は、わたしのべッドの足もとにくずれて、顔も上げえないでいる。
 聞くと、六日、肋膜に水がたまり、呼吸困難のため酸素吸入を始めていたという。小水の出ないため全身にむくみがきて、あらゆる手をつくしたが、十二目尿毒症を発し、ついに十二日正午ごろ、昇天。
 そのまま茅ヶ崎へ送っては、わたしがまた大きなショックをうけるからと松沢教会の後藤、賀川、杉山、菅沼、牧野各長老の好意あるおはからいで、なきがらはとりあえず、賀川邸に移し、通夜を行なうことになり、賀川家の一家も快く承諾してくださいました。
 十三日、これから同教会で納棺式を取り行ない、焼き場に送ります。すべてわたしへのショックをおそれて旧友が取りはからってのことですと語って、二人はすぐしづゑのなきがらのほうへとって返した。わたしもいっしょについて行きたい衝動にかられた。
 わたしは呆然とした。わたしだけがただ一人、地球上に取り残されたという思いがして、二人の去ったあと、さめざめと泣いた。
 でもまだ、遺骨なりと目で見るまでは夢かもしれぬ、という信ぜられない思いが少しばかり残った。
 しかし、夢ではなかった。最近数日間に出した妻へのラブレターは一まとめにされて「退院」という付箋つきで茅ヶ崎へ返されてきたではないか。
 退院! 妻は病院を退院した。正門からではなく、裏門退院で――。
 四月十三日の夜、主治医、息子夫妻、娘夫妻が勢ぞろいしてわたしの病室へはいって来た。その息子の胸には、すぐそれとわかる金の十字架を飾った黒布の箱。
 ああ、とうとう奇跡は起こらなかったのか。まだ一縷の望みを神に求め、名医たちに期待していたのに――。
 わたしは長男健一を手まねきして、その「黒布の箱」をわたしの手に受けとった。
 妻のからだは、もうこの小箱におさまって、つめたく、ものも言わないのか。
 わたしは、妻の骨箱をやさしく抱いた。そして愛撫した。
 “ながいあいだ、苦労をかけてすまなかったね”そう心の中で思っただけで、涙があふれて、わたしの周囲にいる子らの顔も見えなくなった。
 “しづゑよ、なぜわたしより先に、天国へ旅立ったのか、わたしひとりを残して――”
 “しづゑは六十三歳、わたしは七十二歳。九つも若いのに。そのうえ、わたしは十年以来の病臥の身なのに″
 “でも結婚四十年はしあわせだったね。わたしの病気をのぞいては”
 “この骨箱はつめたい土の下や納骨堂(もう賀川夫人のところに予約してあるけれど)におさめないで、わたしがやがてしづゑのあとを追うときまで、わたしの枕もとに置くよ”
 “同意なのか、不同意なのか、返事のないのがさびしい”
 “そういうわたしだが、それをことばに出していえば、わたしも泣き出してしまうだろう”
 “いまさらながら、しづゑはよき妻であった。もっと、もっと愛すればよかったのに”
 “もっと、もっと、愛すればよかったのに。どうか、カンニンねーー。


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       賀川豊彦病中闘史(第12回)

     
六  療養生活
       

  貧民窟を慕うて神戸へ

 その頃、明治学院の宣教師の間に、南長老派と北長老派とがあって、前者は後者の諒解の下に独立して、神戸神学校を創立することとなった。賀川を始め幾人かの神学生は、南長老派のフルトン博士に従って、新設の神学校にはいるため、明治学院を去った。賀川としては必ずしもフルトン博士と行動を共にしたいというわけではなかった。そこには恩師マヤスが徳島から移って来ていたし、また貧しい人々への奉仕をはじめるのには宇治川や長田や葺合新川などの貧民窟の存在する神戸に移るのが便宜だと思ったからであった。彼はそろそろ、自ら日本のバーネットとなり、トインビーとなる準備をし始めたのである。

 明治四十年九月、賀川は神戸下山手通にあった神戸神学校の寄宿舎にはいった。学校は変わったが、彼の健康状態は変わらなかった。行李を解くや、解かずの四日目、またしても喀血である。それから後暫く、血痰は止らす、熱も午後になると、きっと三十八度以上にのぼった。

 マヤス博士は心配して、また豊橋の二の舞をやってば大変だというので、神戸布引にあった神戸衛生院に入院させてくれた。此處はセブンスデー・アドペンチスト教派(基督の再臨をそのまま信じ、土曜日安息日を守る新教の一派)に属し、後段述べるように水治療法を施す病院だった。

 水治療法は一種の温湿布療法でもあるが、その温湿布は快かったが、その後で、全身に冷水と温水の噴霧器でスプレーをかけられるのが彼には苦手で、ついにこれがため風邪をひき、血痰は却って噌加して行った。これはたまらぬと思って、院長には無断で、病院を逃げ出して、学校の寄宿舎に帰った。

 血痰の止まっていない患者に、スプレーをかけるのは乱暴すぎる。後年、賀川のすすめで、筆者も衛生院に入院したが、その時、院長野間菊子に賀川の逃亡の条を話と、野間女史は笑いながら話した。

 「あの頃はわたしもまだ若かったし、それに、水治療法を習い始めたばかりだったので、あんな乱暴をしたのです。賀川さんが逃げ出したことは適切な處置でした」

 一方で病院を逃げ出して、寄宿へ帰った賀川は、その後も血痰はとまらす、熱も一向下らない。そこで友人たちは、明石の湊病院に這入るように勧めた。入院費がないというと、友人たちは古本などを売って、入院料を調達してくれた。

 賀川は友人の親切を感謝しつつ、明石の湊病院へ入院したが、数日を経た深夜、ひょっこりと寄宿舎に痩せ衰えた姿をあらわした。友人たちは、幽霊ではないか、と驚いた。

 「どうしたのだい。よくなったのかい?」  
 「いいや、あまり病院が寂しいので、たまらたくなって、ちょっと帰って来たんだよ」
 とさびしそうにいった。明石海峡を隔てて呼べばこたえんばかりの淡路島の眺めは美しかったが、夜となれば、島の燈台の灯が明滅し、潮騒の音が枕にひゞいて来て、旅愁に似たさびしさが、ひしひしと追って来る。その上、湊病院は古い病院で何となく陰鬱な気がただよい、その頃十人くらいの入院患者がいたが、多くは重症で、彼が入院して三四日しかたたぬのに、そのうちの何人かが死んで行った。それらを見聞きしていると、さびしがり屋の賀川はむしょうにさびしくなって、居たたまらなくなったのだ。

 そんなわけで、賀川は湊病院に在ること四ヵ月で退院し、此度は三河蒲郡に転地療養を始めることとした。蒲郡を選んだのは、マヤス博士がその頃豊橋に居られたからと、さきに豊橋で病んだ時、軽快したら、ほど近い蒲郡へ行って静養したいと思いながら果せたかったからであった。

       蒲 郡 の 療 養 生 活

 蒲郡での療養生活は賀川にとって、この上もなくたのしいものだった。血痰も止り、午後の熱もさほど高くのぼらなくなったからでもあるが、それよりも、そこの生活が楽しかっかからである。

 賀川は漁師の家の離れの六畳を月家賃五円で借りて住んだが、暫くして粗末な古い家を月一円で借りた。そこには畳がなかったので、むしろを敷き、その上にござをしいた。何もないので、空箱をすえた。

 彼は、国木田独歩が嘗て田山花袋と二人で日光の寺で、一ヶ月六円の生活をしたのに倣って、最も安價な簡易生活をそこで送ろうともくろんだ。もちろん自炊である。

 漁村へ来ても、依然たる菜食主義だった。しかし、これは行き過ぎで、漁村に来れば魚肉をとることが望ましかった。彼は前に記すように、菜食が栄養的であるとして肉食を避けたというよりはトルストイに倣って生物を憐れむ気持から肉を喰べなかったので、これをすべての病者にすすめる考えはもっていない。魚肉が安く手に這入る病者が、わざわざ肉食を避けて菜食にすることは賀川としてもすすめてはいない。彼は自らを「条件附きの菜食論者」だとさえいっている。

 蒲郡へ来て、賀川は何を食べていたのだろうか。彼は独歩の例に倣って野菜のほかに豆腐を多く摂った。当時、一丁一銭五厘だった豆腐を、毎日のように数丁離れた豆腐屋まで買いに行って、これを味噌汁に入れたり、醤油で煮たりした。なお動物性蛋白質をとる必要があるというので、卵をできるだけ沢山買った。時には果物も買って来た。金がなかったからでもあるが、間食は一切しなかった。



   

 療養生活といっても、親切な看護婦かいるわけでなく、また身辺に家族一人いないのだから、賀川は身の廻り一切を自分の手でやらねばならたかった。そこで、生活必需品を、自分のまわりの、手の届くところへ並べることとした。

 二六時中、病臥しているのではないので、机を中心に品物を円形に配列した。最も近いところに火鉢があり、炭入れがあり、本があった。そしてその後方に七輪、鍋、まな板、土鍋、土瓶、茶瓶が分列式を行っていた。バケツと米櫃だけがお寺における「おびんずるさま」のように障子の外に置かれてあった。

 ちよっと手をのばしさえすれば、立ちどころに一切の用が便じた。「おい、何を持って来てくれ」などと、他人を労することは少しもなかった。いや、「おい」と呼ぼうにも、周囲に一人の人もいなかったのである。(挿入した前頁の画は、当時の有様を賀川自らスケッチしたものである)

 もちろん、米とぎから飯焚きまで、自分の手一つでやって行った。彼の詩集「涙の二等分」の中には「米とぎ」という一篇がある。

  美しい水を汲みあげて 桶に注ぐと 糠が動く
  いやいやながら 手を入れて米をとぐと 妙だね だんだん白くなる
  洗いきって 水を入れると 米も光るが 水も光る
  お月さまが 空に白く輝く
  きたない井戸端が 急に可愛くなる

 こうした簡易生活によって、独歩の六円までは切りつめられなかったが、一切合財で一ヶ月十五円で事足りた。今から四十年前の明治四十一年一月−−九月の事である。

 しかし月十五円の生活が、果して健康の上に善い結果を齎らしたかどうか、それは疑問だった。さなきだに、消耗性の病気である。そして善き指導者たる医師もいない。これが今日だったら、彼は公立の結核療養所に入って、気胸療法でも試みたことだろう。費用も、彼のような家庭条件なら、生活保護法の適用をうけて、療養費は一切公費で賄われたであろう。それに進駐軍の好意で、主食物も一般人よりも多く配給され、バタその他の栄養品も豊かに配給せられるから、彼の病状をよりよくした事であろう。が、それらの事の何一つない当時である。

 ただ当時の賀川の不完全な療養生活の中において、何よりの栄養であり、薬であったのは、その自然療法と、そして彼の信仰だった。この二つがあって、はじめて、彼の療養が成果をあげたのである。

     (つづく)