賀川豊彦の畏友・村島帰之(12)−『賀川豊彦病中闘史』(11)

 村島帰之・しづゑ共著『愛と死の別れ―野の花にかよう夫婦の手紙』において、しづゑの絵と共に「うた」が収められています。

 今回も「絵」(ひとりしずか)(128頁)と「うた」を少し収めさせていただいてから、今日の本題に進みます。

     ゆれうごくわが心かもいささかの
       希望よりまた絶望の果て

     朝々の床の離れの苦しさよ
       眠れぬ夜の疲労の果て

     耐えがたきこと耐えゆかん中空の
       風音ばかり夜もすがらなる


       ♯             ♯

  
      賀川豊彦病中闘史(第11回)


     五  死 線 を 越 ゆ

        路傍説教四旬の後たおる

 明治学院に入学して三度目の夏−−明治四十年八月が来た。神学部の最上級生というので、此度は豊橋市東八丁にある日本基督豊橋教会の夏季傅道の応援に行くように、学校から命ぜられた。賀川はよろこんで出かけて行った。教会といっても、小さな一般の民家で、階下が説教所に充てられ、階上には牧師の家族が住まっていた。賀川はその二階の一室に寝起きして、夜になると、聯隊前の札木という繁華な町へ出かけて路傍説教を試みた。孤軍奮闘である。それが四十日間、一晩も欠かさずにつづけられた。まだ十分健康の回復していない賀川にはそれは無理だった。果して四十一日目には発熱気味で、咳をすると、血痰が出た。「これはいけない」と、路傍説教も一応中止し、教会の二階の一室で安静を守ることとしたが、血痰はとまらす、熱もどうやら次第に昇って行くらしい。

 「ことによると、此度はいよいよ死ぬのかな」                        
 そんな予感がした。だが、そう思うだけで、別に死に對する恐怖はわいて来なかった。
「死んだっていい。神のふところに帰るんだから。エホバ与え、エホバとり給う。エホバの名はほむべきかな」

 自分でもふしぎに思うほど平静である。
 十日あまりが夢のように経過した。熱も下らす、血痰も止らない。その上、呼吸困難を覚えるようになった。医師は絶對安静を命じた。彼は手も、足も、首も、いや眸さえ動かさずに、ただ静かに息を吸い、そして静かに息を吐いた。まるで、母の胎盤に吸いついているかのように。

 医師は「肺壊疸」と診断した。肺えそというのは、腐敗性気管支炎、格魯布性肺炎、肺及諸器の膿瘍等に因って肺組織が死朽し、腐敗性分解を示す病症で、患者はとても臭い悪臭のある呼気や痰を出し、胸痛や、呼吸困難や、全身の倦怠や強度の喀血を伴う。
 賀川のえそは、既に呼吸困難を来しつつあって、重病である。

 「かわいそうだが、まずむづかしいと見なければたりません。親戚や友人へは急いで電報を打って知らせた方がいいでしょう」

 隣室で医者がひそひそそと話しているのが聞える。一体、呼吸器疾患にかかったものは、異常に神経が鋭くなって、平常なら聞えないひそひそ話が、聞きとれるのである。

 「そうか、いよいよいけないのか」

 賀川は自分に對する絶望の宣告を、まるでひとごとのように聞いていた。それでも、自分が死ぬのだという切実な感じは一向にわきあがっては来ない。熱は高く、胸がしめつけられるようで息苦しく、その上、吐く息の臭いことが、自分でも判った。

 彼は化石のように動かずにいたが、いつの間にか、うたたねをしたらしい。ふと眠りから覚めると、あたりは夕方になっていて、西日が赤々と部屋の窓を染めていた。

       法 悦 の 凝 視

 賀川はふしぎなほど落ちついていた。そして、上代の佛像のように目を半眼に開いて、じっと夕焼け窓を眺めていた。夕日は目に見えない足取りで、一刻一刻、山の向うに落ちて行きつつあった。彼は細目のまま、いつまでも、じっと凝視していた。
 静かな夕暮だ。体内をめぐる血液の循環が、はっきりとわかるほどの静けさだ。

 やがて、夕日は山の端にかくれて、美しいあかね色の空も、次第にその輝きを薄らげて行った。その間、約一時間半、賀川は身動き一つ、またたき一つせすに、夕焼雲を恍惚として凝視しつづけていたのであるが、その恍惚境の中にいて、全身がしびれるような、そして、光明が全身を包んで、地上にいながら、からだが、ふわりふわりと、天の方へ飛んで行くような、うれしい感じがするのだった。

 賀川は呼吸の困難すら忘れて、その喜び――法悦とでもいうの――の中に浸っていた。
 全身がしびれて、感覚を失っているので、ちよっと、からだをひねらせて、感覚を取り戻したいような気もするが、今、からだを動かしては、うれしい気持ちも一緒に消散してしまうように思われて、じっとしたままで、空へ浮きあがるようなうれしい気持ちを、守るつづけて行った。

 夕日はもうほとんど西へ没して、その名残が、匂うように雲をわずかに染めていたが、賀川は、まだ同じ方向、同じ一点を凝視しつづけているのだった。

 その時、賀川は急に咳がしたくなった。実は咳をすることを怖れて、じっとこらえていたのであったが、思いきって咳をした。すると、ぬるり、とした感じのするものが、舌頭へ来た。痰壷に吐いて見ると、血のまじった黒い塊りが、痰壷の半分ぐらい出た。そして、悪いものをみんな吐き出してしまったあととでも言いたい爽快感が訪れた。

 ホーッ、と深い息を初めてはいた。呼吸の困難も解消して、鼻から息がするすると通って、何の障碍も感じない。今まで胸を圧していたいやな気持もなくなっている。頭が軽くなったようだ。食慾さえ出て来たらしい。満二日間、全く食慾がなく、断食同様だったのに――。

 賀川は合掌したいような気持になった。そこへ医者が顔を見せた。死亡診断書を書くつもりで来たのであろう。彼は賀川の様子を見て、解しかねるような顔をしたが、念のため検温して見ると、少し前まで四十度を越えていた熱が、なんと、三十七度五分に下っているではないか。

 「不思議だなあ、これなら、もう大丈夫」
 
 医者はむしろ失望したような表情をして、すごすごと帰って行ったら 実際、これは奇蹟というに近かった。しかし、これはあり得ることだった。強い精神力は、肉体の病いを征服して、奇蹟ならぬ奇蹟をあらわすものだから―−。

       再生力を信じ、おそれるな

 賀川はこの時の経験を、後年に至って次のように記している。

 「豊橋の教会の二階で肺えそとなって、医者が近親に電報を打つようにといっているのを知った時、もし、わたしがその医師の言葉につられて、自分は助かるまい、などと思ったら、多分、わたしは死んでいたに違いない。わたしの生きた秘訣は、ここにあった。医者が匙を投げても、また自分でも病気が苦しいと感じても、生きる力のあることを信じ、生きていて、なおなさればならぬ使命のあることを信じていれば、そう易々と死ぬものではない。
 医者が病気をなおすとか、薬の力で病気が軽くなるというが、医者や薬は病気の治療に当って、ただ補足的な役目をするだけで、病気そのものは、人間の身体自体が治すのだ。手近な例でいえば、皮膚が傷ついて血が出た時別に薬の力を借りなくとも、大怪我でない限り、繃帯さえして置けば自然に治るものである。内臓の病気でも同じことで、喀血したような場合でも、血液は、この傷口を癒着するために活躍して止血させるのである。
 この自然の治癒力、再生力こそ、生命の根本となるもので、それを考えずに病気を治そうとするのは無理である。医者や薬の働きは、ただ、この再生力を保持して、外部四障碍壹除くのが目的だのだから、どんなに熱心に手当をしてくれるにしても、自らの再生力を働かせなければ、何の役にもたたない。わたしはこの再生力を信じることこそ、肺病征服の秘訣だといいたい。(今日、結核の治療法として廣く行われる胸廓成形術にしても、気胸療法にしても、その手術そのもので結核が癒るのではなく、その手術によって、自然の治癒力、再生力の働くのを都合よくするのである)。                              
 再生力を信じることは、病気を怖れぬ人にして初めてできる。病気を怖れるとは、死を怖れることだ。死を怖れぬためには、死んでも悔いぬだけの心の用意が必要である。つまり、信仰がなければ、死を怖れぬということはできるものではない。信する者にして、はじめて怖れはない。唯一、絶對の信仰に生きる者には、絶望というものはないのだ。
 肺を病む者の一番いけないのは、小さい病状を気にすることだ。それをなくするには思いきって馬鹿になる必要がある。それは、もちろん、文字通りの愚かになる意味ではたい。己を捨てて宇宙の力に同化することである。天地を創造し、われわれの運命を左右する神の力に比べたら、われわれの考えや努力は取るに足らぬものであるということを知ることだ。つまり、人間の子としては馬鹿になり、神の子としては賢くなることだ。そうなって、初めて達観ができ、無用の心配をしなくなり、従って血行を増すことにもなる。精神の安静が大切であるというのは此處だ。わたしが瀕死の重病を切り抜けて今日まで生きのびた秘訣は、要するにこれだけのことだったのである。・・・」

 賀川が死線を越えた秘訣は、この再生力を信じて、精神を安静にし、死ぬも、生きるも神の聖旨のままと、絶對者に委せきったところにある。彼は夕日に染った雲を凝視していて、少しもおそれず、あせらす、ただ、絶對者の為すままに委せていたところから、死を起し生を回すこととなったのである。彼はこれを「凝視療法」と呼んでいるが、これは文字通りに受取っては危険である。むしろ精神安静療法というべきである。凝視療法というからといって、夕日を凝視するものと速断しては大変である。夕日そのものを直接凝視しつづけたら、血痰の止る前に、眼の網膜を焼いて盲人になるであろうし、精紳の安静を得ずに、ただ形だけの凝視をつづけても甲斐はない。賀川のいわゆる「凝視療法」は、白隠禅師の内観の法と同じ行き方の、精神的安静療法で、再生力を信じ、病をおそれす、絶對者に委せきって、自然の治癒力の活躍にまつ方法である。

 こうして賀川は瀕死の病床から再起した。いわゆる「死線」を越えた。尤も、血痰はその後もつづいたが、峠を越せば、小血痰ぐらいはさほど意に介するには及ばない。

 病気が治ると、賀川は自伝小説を書き始めた。原稿用紙をもたないので、手許の古雑誌の上に毛筆で書いた。それは「鳩の真似」と題してあったが、その後「新生」と題を改め、十年を経て大正十年に、さらに書き加え「死線を越えて」と題して出版した。死線を越えての題名は、この豊橋での起死回生の経験によってつけたものである。
 死線を越えた賀川は、どこへ行こうとするのか?

        (つづく)