賀川豊彦の畏友・村島帰之(11)−『賀川豊彦病中闘史』(10)

 村島帰之・しづゑ共著『愛と死の別れ―野の花にかよう夫婦の手紙』において、しづゑの絵と共に「うた」が収められています。

 今回もその「絵」(さんきらい)(123頁)と「うた」の少しここに収めさせていただいてから、今日の本題に進みます。

     健やかに在りし日には気づかざりし
       細かき思い夫に寄するも

     傍らに主の眼差しの常にあれば
       安らかにあり病むといえども

     わが願い小さかれどもなかなかに
       許されがたく一と夜の眠り


       ♯            ♯


     賀川豊彦病中闘史(第10回)


    四 菜食主義の神学生

       貧しき給費生々活

 明治学院に入学した賀川は、博士からの仕送りだけでは学資が足りないので、給費生となって月十円の支給をうけることとなった。在りし日の素封家の子息も、アルバイト生活にはいったのである。(その頃の学生は一ヶ月の学資二十円乃至三十円で足りた)

 中学上級生時代に再度喀血した賀川の健康は、明治学院に入学してからも思わしくなかった。今日なら気胸療法によって浸潤のひろがりを食いとめ得たろうが、当時はそうした事もなかった上に、十分の養生もしなかったこととて快くなるはずはなく、二年生になった冬またしても血痰が出はじめた。苦学生の身ではあり、十分の栄養も薬も得られず、彼はただ神の前に祈るよりほかなかった。夜半、冷たい寄宿舎の煎餅蒲團の中で、同室の学友に知れないように祈った。以前、叔父の家でひそかに祈った時と同じようにして――。

       トルストイの菜食主義にならう

 賀川は明治学院の寄宿舎へ行ってから、菜食主義を実践していた。食堂に出る食物の中でも、肉類は一切口にしないのである。寄宿生たちは、賀川の肉と自分の野菜とを交換するために、彼の隣席に座ることを競争した。賀川は隣りの友の皿から野菜をもらって、そのかわりに、彼の皿の肉を与えた。

 明治の中葉に生まれた青年の誰もが経験したように、彼もまた中学生時代にトルストイに心酔した。彼のトルストイアンは、哲学的に深く堀り下げて行ったために、単なるトルストイの愛読者にとどまらず、彼の思想の私淑者、実践者となった。菜食主義もトルストイの感化の一つであった。

 初代基督致会時代、教会内部には肉食派と菜食派とが對立し、マルション派と呼ばれる一派は肉食を排斥し、ひたすら菜食をとった。ロマ書は当時の事を記して「或人は凡ての物を食うをよしと信じ、或人はただ野薬を食う。食う者は食わぬ者を蔑すべからず、食わぬ者は食う者を審くべからず、神は彼を容れ給えばなり」といっている。トルストイはこのマルション派の流れを汲んで、菜食主義を唱道し、実践した。トルストイに私淑する賀川は、その菜食主義にも共鳴したのであった。

 しかし賀川の菜食主義の実践は、トルストイ主義から来たばかりではなかった。彼は十七才の頃、山崎今朝彌が、アメリカの水治療法の泰斗ケロッグ博士著「粗食論」を訳したのを読み、美食の有害なことを知り、殊に肉食の害を知って菜食主義に傾倒した。「粗食論」には、肉には死毒があって有害であること、肉食者は菜食者に比して短命であること、傷をしても化膿し易いこと、美食よりも粗食の方が栄養に富んでいることなどを挙げていたが、賀川はこれに共鳴するところがあったのである。

 賀川はこうして中学生時代既に菜食論者となっていたが、菜食主義実践者となったのは、明治学院に入学してからであった。

 しかし、肉食を排し、菜食のみをとって果して栄養が摂取できたであろうか。問題は、肉食に替って摂った菜食の内容如何にかかっている。賀川は後で療養生活に這入ってからも、菜食主義を実行したが、その時は豆腐などの、栄養に富む菜食を十二分にとった。豆腐はいうまでもなく、大豆の蛋白質を集めたものであるが、その大豆は「畑の肉」ともいわれるほど栄養に富む食物である。大豆の蛋白質量は牛肉の四・二、鶏肉の五・八には及ばぬとしても、鶏卵の二・七、豚肉の一・五を凌駕して、三・六を示している。だから蛋白質を摂取するには、大豆は卵や豚肉よりも好適で、牛肉をも凌がんとしているのである。尤も、蛋白質はあっても、豆腐や大豆には他のヴィタミンなとが欠けているから、これを補うために、新鮮な野菜をとらねばならない。

 明治学院時代の賀川の食餌が果して、十分の栄養をとり得たか。それでなくてさえ、栄養の足りない寄宿舎の食事だのに、その上、たまに出る肉類をとらないで友人の野菜と交換した当時の彼の栄養が良好だったろうとは、どうしても考えられない。肉類がないと、栄養がとれないというのではない。肉を除き去ったあとの、寄宿舎の食事たるものが、どう考えても、栄養價値のあるものとは考えられないからである。

                            
 果して賀川の健康状態は悪化して、ともすれば発熱し、血痰が出た。喀血性の患者はビタミンCをとるため、新鮮な野菜や果物が必要だったが、寄宿舎ではそうしたものも得られなかった。咳もひっきりなしに出て、啖も切れなくなった。

       保養かたがたの夏季傅道

 明治三十九年の夏休みが来た。賀川は保養かたがた三河の岡崎の教会を助けるために出かけて行った。神学部の学生には、こうして夏休みの中に、どこかの教会を助ける義務があった。

 教会の仕事は主として日曜日だけで、他の日は暇があるので、賀川は岡崎から遠くない蒲郡での保養が許された。彼は心からそれを喜んで、傅道のプランと、静養のプランに胸をふくらませていた。ところが、岡崎へ着いて三日目、またしても喀血した。彼は暗然となった。血を見て怖れたのではない。折角、伝道と保養のために此處まで来ながら、働くことも、たのしく保養することもできなくなったのを悲しんだのである。勢いこんで驀進して来た車は、目的地近くまで来て、信号の赤に止められたのである。己むを得ない。信号が青にかわるまで、そこで停止していなければならたかった。

 それでも、幾分加減のいい日曜日の朝は、自分の課せられた教会の仕事を手傅った。それはもちろん無理だった。無理だとは、自分でもわかっているが、手をこまねいて、じっとしているわけには行かないのだった。

 仕事と病気の二筋道を掛けている病者―−特に、余裕のない無産の病者――には、みなこの悩みがある。他人は「無理をしないがよい」「疲れたら休むがいい」というが、それは責任のない他人だからいえるので、当事者には、それは「できない相談」である場合が多い。この「出来ない相談」を親切そうにいわれて、苦笑する病者が世間にはどんなに大勢あることか。

 賀川は、病気に對し、ほとんど怖れというものを持っていなかっただけに、無理をした。無理を通そうとした。そのために、彼の病気は、次第に悪化の一路をたどって行った。筆者は、読者がこの点だけは、賀川に見習わざらんことを切望する。

     (つづく)