賀川豊彦の畏友・村島帰之(10)−『賀川豊彦病中闘史』(9)

 村島帰之・しづゑ共著『愛と死の別れ―野の花にかよう夫婦の手紙』において、しづゑさんの絵が収められていて、毎回冒頭にそのひとつをUPさせていただいています。上の絵は、99頁の「ダリア」です。

 加えて今回は、同書91頁から99頁までの村島帰之文章をまず収めてみます。「妻との出会い」と「新婚時代の思い出」の小見出しのある部分です。

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 妻との出会い

 妻はその土地の小学校(熱海尋常高等小学校)を優等で出た。そして、奈良女高師を出た姉の世話で大阪のプール女学院に入学した。同院はイギリス聖公会系のミッションスクールで、院長の宣教師トリストラム嬢は妻をとくに愛してくれた。そのことは、わたしたちが東京に移るときも、老躯を提げ、わざわざ茅屋をたずねてくれられたことでもわかろう。トリストラム嬢は妻の偶像に近かった。妻が敬虔な信仰をもちつづけたのも、克已心や友情にあつかったのも、イギリス貴族の生まれだったトリストラム嬢の影響にちがいない。わたしが賀川豊彦氏の影響下に立ち、多くの感化を得たのとよく似ていると思う。
 トリストラム嬢は、妻を女医にする希望をもっていられたが、妻自身は教育者を志望し卒業とともに学校にとどまって、国語や絵や習宇の先生のお手伝いをたらしいが、しばらくして実姉の一家に病人が出て、その看護にあたらせられることとなって、志なかばで学院を去らねばならなくなった。                    
 妻は、その後健康をすこし害したため、水治療法をうけかたがか、神戸にある義姉の野間菊子女医の私宅にきていた。
 そのころ、わたしは大阪毎日新聞社社会部に籍をおくかたわら労働運動に没頭していた。大正八年、大阪の各大工場は労働争議の大旋風におそわれた。争議団がわのリーダーは鈴木文治、賀川豊彦西尾末広などだった。わたしもこの旋風に巻きこまれて、過労から湿性肋膜炎と高熱を発した。わたしは医師に肋膜の水をとってもらった。すると、そこへ賀川氏が、わたしが倒れたと聞いて駆けつげて、「肋膜の水をとるのには水治療法をするにかぎる。さいわい神戸の友人に野間菊子というクリスチャンの女医だが、その療法をやっている友人がいるから、その病院にはいろう。わたしも肋膜をやったとき、そこへ入院していたのだ。」と賀川氏は熱心にすすめた。しかしわたしには、「クリスチャンで女医」という点が気になった。「貧民窟の礼拝所からも近いんだよ。」わたしはそれでもウンといわなかった。「でも、夜具ももって行かねばならぬだろう」というと、ひとあし前からきていた西尾末広氏が、「わしがはこぶ。阪神電車ならわしの顔が利くさかい。」と組合の親方の彼までが入院をすすめる。
 こうして、のちの副総理に夜具をかつがせて、わたしはキリスト教の女医野間菊子氏の経営する茸合区旗塚通りの水治療法の病院に人院させられてしまったのだ。わたしがのちにキリスト信者となり、また野間女医の義妹の夫となる機縁となるのも、ここから出発しているのである。
 女医氏は、「水治療法」の著作をするため、わたしの協力を求めた。そして義妹のしづゑ をその助手として紹介し、「この人は女学校で国語の先生の助手のようなことをして、村島さんの方面にすすみたい考えをもっているようですから、指導してやってください。」とたのまれた。人はむずかしい医術の訳語を、字引をひっぱって解明したり、水治療法をやさしく解説して、これを、わたしに関係ある週刊誌「サンデー毎日」に掲載したりした。わたしは妻の人柄が気に入って、プロポーズしようとしたが、わたし自身、まだ病余の身である。ます医師であり、また義姉としての野間さんに相談してみることとした。野間さんは、九州にいる母や親威の了解を得ねばならないが、「医師として、村島さんはもう大丈夫。しづゑさんだって強くないが大丈夫。似合いです。ぜひもらいなさい。」とすすめてくれた。わたしは、彼女と同窓であり、わたしの友人でもある由紀しげ子さん(のちに作家)に相談したり、入院している気のあった人たち(このひとたちはいまも「あのころ会」といって集まったり、便りをしたりしている)に相談した。

 新婚時代の思い出

 大正十二年十二月八日。わたしたちは、神戸の教会堂で賀川先生ご夫妻の媒酌で結婚式をあげた。ちょうど、関東大震災の直後で、賀川先生は東京本所の焼けあとで救護事業にいそがしかったが、とくに日を割いてくださった。そのかわりというわけではないが、二人は震災に遠慮して新婚旅行をとりやめ、賀川先生の震災救護の手つだいに行った。いっしょに苦労するのもたのしいものだった。
 翌年一月、わたしは大阪本社から東京へ転勤(大阪毎日新聞から、支社の東京日日新聞社社会部へ)を命ぜられた。
 わたしは、月給約百二十円、生活はらくでなく、わたしはアルバイトに雑誌の原稿も書いた。二人は大森に家を借りて住んだ。わたしは賀川氏らの救援事業を主として相当したから、しぜん賀川氏の仕事に協力することとなった。わたしは賀川氏の講演や説教や各区教会での説教などをぜんぶ筆記し、これを妻が浄書して賀川氏の個人雑誌「雲の柱」に無償で提供した。これはわたしには、知らず知らずのうちに聖書を勉強する結果となった。夜、電灯のもと、ひとつ机に向きあって妻と二人、聖書をひもといたり、聖句について討議したことは、新婚のたのしい思い出である。   
 そのうち、大正十三年の春、賀川先生はアメリカ伝道のため渡米された。渡米のときの約束では、あちらから毎号「雲の柱」に通信を送るから、ということだったが、ニューヨークで病気をされて、公約はまったく不履行。まさか休刊とするわけにはいかず、古い講演や説教を埋めるが、たとえ三十二ページの小雑誌でも全文を一人(二人)で書きあげるということはたいへんだった。あるときは、半分を自分の社会問題の原稿で埋めたが、それでは信仰的賀川氏の個人雑誌の色をなさないし、原稿を何百枚と書いても一文にもならない。奉仕のためとはいうものの、これでは他誌のアルバイト原稿も書けず、台所のほうから異議が出そうだ。しかし、すこしも泣きごとをいわない。こんなとき、二人むかい合って原稿を書きながら、二人の口から出る讃美歌(536番)があった。
 「むくいをのぞまで、人にほどこせ、こは主(キリスト)のかしこきみむねならずや、水の上におちて流れしたねも、いずこの岸にか生い立つものを。」
 二人は涙半分でうたった。後年、平和學園を設立し、たまたま生徒がこれをうたうとき、いつも涙ぐんでいる自分を発見するのだった。
 いくどか雑誌編集をやめて休刊にしようとしているとき、朗報があった。先生は病いも癒え、ヨーロッパを一周し、原稿袋をふくらませて帰朝されるというのだ。これで二人は最後の勇気を出してがんばった。
 帰朝後、賀川先生は腎臓炎を病んだが、しかし、もうへっちゃらだ。先生は病臥中、著作を思い立った。松沢の森の家にわたしを呼んで、口述筆記をさせられた。『愛の科学』の前のほうがそれだ。この本はひろく訳され、訳書は戦時中も敵国人の著書として、各国でベストセラーとなった。わたしは賀川先生とごいっしょに昭和六年(1930年)渡米のおり、今井よね氏にともなわれ、ある図書館に行ったが、「この本の第一ページを開いてごらんなさい。」といわれた。”Love-Law of the Life”「この書を可能とした村島帰之氏に感謝する」と全ページにのっている。たぶん世界の十数国語でも同様書かれているのであろう。この書を可能としたのは、村島ひとりではなく、大森の新婚の家庭で、夫とむかいあって浄書をひきうけてくれた妻の内助の力のあったことは厳粛な事実である。
 妻よ、むくいをのぞまなくてよかったね。おまえの名も賀川先生によって世界の十数ヵ国に、たった八字(ローマ字で書いたわたしの姓名の半分)だが、感謝されているのだから。


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      賀川豊彦病中闘史(第9回)


    三 発病・献身

       七才から数度の赤痢

 賀川はどうして結核をわずらうようになったのだろうか。
 都会の子は、小学校を卒える頃までに、全員の七割は結核に感染する。もちろん、感染は発病とは違う。もし、その子の環境がよく、養生がよかったら、感染はしても大部分の者はそのまま癒って発病しない。それで今日では、感染していない学童は、ホウソウのように、B・C・Gを接種して、わざわざ結核に感染させ、冤疫体を作らせる。賀川の少年時代は、B・C・Gなどはなかったのみか、結核に對して世間は全く無関心であった。

 賀川はきびしい祖母や義母の下で、日陰の子として育った。従って、彼は日陰の植物と同じように、青白い、ひよわい子であった。

 その頃、阿波地方には赤痢の風土病が流行して、賀川は七歳の頃、はじめてかゝり、それからもたびたびかかった。十二歳の時にかかった赤痢は大患で、生死もあやぷまれたほどだったが、幸い助かった。ところが、二年を経て十四歳の時−−その頃はまだ徳島中学校の二年生で寄宿舎にいたが、またもや発病した。しかし、此度は赤痢ではたく、神経衰弱のような症状たった。家運はいよいよ傾き、破産の一歩前にあることを薄々感じて彼は人知れず心を痛めていたのだが、そうしたことも原因したのであろう。栄養不良でひどく痩せて、元気がない上に疲れやすく時には軽いせきさえするようになった。医者に診てもらうと「肺尖カタル」という診断であった。事実は結核だったに違いたい。

 「学校を暫く休んで、田舎へ帰って養生しなさい。それでないと、だんだん悪くなるから――」

 賀川は黙然として返事をしなかった。たとえ、病気がこれ以上悪化しても、あの義母の許へは帰りたくない、と心中でそう思いながら――。

 賀川は病んでも十分、療養を加え、いたわって貰える温柔郷を持たなかったのだ。ただ家族関係を離れ、温い手をさしのべてくれる家が一軒あったほかは。

 賀川は英語の勉強が目的で教会へ行きはじめたのだが、次第に足繁く教会へ出入して、いつしか宣教師マヤスの家へも顔を出すようになった。マヤスは賀川の頭のいいのを知って、十五歳の時に、プリンストン大学總長パトンの神学緒論を原語のまゝで教えた。その上、賀川のさびしい身の上を聞いて心から同情し、家庭的の愛をもって、彼を包んでくれた。

 どこにも温柔郷というものをもたない天涯孤独の賀川は、この家を唯一のオアシスとし、博士夫妻を生みの父母以上に慕った。マヤス夫人はやさしい女性で、この上もなく賀川を愛し、同家の食卓にはこの少年の席と、専用のナプキンが用意され、いつ彼が顔を出しても、家族の一員として遇してくれた。

 こんなこともあった。或る日、マヤスの許に英語を習いに来ていた賀川は、何を思い出したのかうつむいて涙ぐんでいた。マヤスはだまってそれを眺めていたが静かに近づいて来て「こっちへ、いらっしゃい」 
 といって戸外へ連れ出した。外は夕暮れで、からすが啼きながら塒(ねぐら)へ帰って行くのが見られた。入日はあかあかと西の山の端を染めていた。マヤスは何ともいわず、ただやさしく彼の肩に手をおいて「賀川さん、あなたの顔の涙を、夕日で蒸発させましょう。そして、すっかり涙が乾いたら、また英語の勉強をつづけましよう」

 それでなくとも、感激に富む少年である。マヤスが、この涙の子を叱らずに、夕日で涙を乾かせとやさしくいってくれたその慈父の愛に、一層熱い涙が流れ出るのをどうすることもできなかった。

       十六才、初めて喀血

 叔父の家に寄食するようになってからも、肺尖カタルと診断されたような病身だからといって、特別に栄養と休養とを与えられるということもなかった。叔父の家は徳島隨一の素封家ではあったが、金持であるだけに、却って食事は質素であった。明らかに結核に感染しているのに、休養もとらず、その上、適当な栄養もとらなければ、結核は発病せすに居る筈はなかった。結核は火事と同じである。初期に手当をすれば、ボヤのうちに消し止めることもできるが、大したことにはなるまいと油断して放って置けば悪化するのは知れている。

 なお悪いことには、彼は人一倍勉強好きだった。学校の圖書館の書籍や、マヤス博士の書斎にある書物は片っ端から読破した。トルストイの著作など、中学の二年の頃から読みはじめ、日露戦争の勃発した時、四年生だったが、トルストイに倣って非戦論を唱え教師や生徒を驚かした。またラスキンに傾倒し、中学卒業前「胡麻と百合」を翻訳して土地の新聞に寄稿したりした。

 こういう風に、病身の賀川が、万事不自由な寄食生活をつゞけつつ、人一倍勉強しようというのだから、結核菌にとってはベスト・コンディションである。果然、十六歳の春、病気は悪化し初めて喀血を見、あまつさえ、四十度近くの高熱である。熱を伴う喀血は警戒せねばならなかった。医者もこれは安心がならぬといって首を傾けた。幸い喀血は間もなくとまり、わすかの期間の安静で熱も下って、奮に復したように見えたが、癒ったというのではなく、進行を止めたというに過ぎなかった。医者は前回と同じように、「暫らく休学して、田舎へ行って、のんきに暮していらっしゃい。それが、将来のためです」とすすめたが、賀川の返答は前回同様だった。馬詰の家へ帰れば、美しい自然が彼を慰め、健康な大気と日光が、彼の病状を好転させるに違いなかったが、冷たい義母の眼を思うと、帰郷の決心は鈍った。同じ冷たさなら、このまま祖父の家にいて、一日も早く中学を卒業したい、そう考えて医者のすすめる田舎行をやめて中学へ通った。それが無理だった。翌年の春三たび喀血した。

 賀川は結核の烙印を押された。そしてこれが彼に生涯附いて廻ることとなった。しかし既に信仰を持った彼は、さして驚かなかった。神は二羽一銭の雀をすら活かし給うのだもの、まして神の子の人間をむざむざと死なしめ給うことはない。御旨ならきっと癒やされる、とそう確信した。そして信仰を持つことのできた自分の幸福を神に感謝した。

       貧民窟奉仕を志す

 賀川は既に中学の五年生になっていた。或る日、マヤス博士の書斎から取り出して読んだ書物の中に英京ロンドンのトインビー・ホールに関する記述があった。それが彼を動かした。

 「呪われたるロンドンの嘆き」といわれたイースト・エソドは「ポリネシアの蛮人でもこれはどの不潔はない」といわれたほどの地域で過群生活が営まれていた。それを見て起ったのが、これまで約十年間、ロンドンの最悪地区セント・ジューズ教区を受持っていた牧師サミュエル・バーネツトだった。彼は一八八三年十一月、オックスフォードの若い大学生の一團に、貧民救治策としての隣保事業の必要性を説いた結果、学生等は進んで貧民窟内に進出し、貧しい人々の教育と、市民的指導と、社会調査に当ることを決心した。若き経済学者アーノルド・トインビーもその中の一人であった。そして彼等の或る者は、大学卒業後もそこに踏み止って、バーニットの指導下に働に働いた。かくて此處は英国のあらゆる社会運動の根源地となり、バーニットに次いでトインビーが事業を継承して、世界的な隣保施設となった。今日トインビー・ホールと呼ばれるのがそれである。

 「そうだ! わたしは日本のバーニットになろう!」
 賀川はそう決心した。
 「わたしは中学を出たら、基督教の学校にはいろう。バーニットがそうしたように――。そしで貧しい人々のために一生を献げよう。そうだ、わたしの行く道はこの道以外にはない」

 賀川は明治学院高等部に入学することに決めて、叔父に打ちあけた。叔父は彼の将来に少なからぬ期待をかけていた。帝国大学を卒業させて、父に劣らぬ高等官に仕立てたいと考えていた。ところが、叔父の考えとは凡そかけはなれたミツション・スクールに入学し、あまつさえ、将来は耶蘇教の伝道師なたりたいという。何というたわけだ! 叔父は失望したというよりは憤った。

 「勝手にしい! わしはもうお前の面倒は見てやれん。この家も出て行ってもらおう。わしは耶蘇は嫌いじゃ」

 叔父の家を放逐されて賀川はどこへ行くのか。どこもない。天が下、ただマヤス博士の温かい灯の下のほかは。

 マヤス博士夫妻は快く賀川を迎えてくれた。そしてその日から、よる辺なきこの少年を、マヤス家の一員に加えてくれた。

 明治三十八年三月、博士夫妻の庇護の下に徳島中学を卒えた賀川は、さらに博士の補助をうけて予ての志望通り、東京の明治学院高等部神学科に入学した。

      (つづく)