新著ブログ公開:『爽やかな風ー宗教・人権・部落問題』(第9回)



         爽やかな風


      −宗教・人権・部落問題ー


            第9回



   第二章 新しい歴史の創造とわたしたち


   (前回の続き)


     第3節 新しい歴史の創造


      1 現代神学の根本的な隘路


 ところで、現代神学の状況と問題点について、延原は「バルト以後」〔『福音と世界』1975年10月〕で次のような概括を行っている。(これらはあまりに略述されていて、しかも部分的引用で解りにくいかも知れないが、いわゆる「理論と実践」「根源的本質と歴史的本質」の区別と関係の解き方に関したものとして重要である)


 現代神学は、「『個的実存から政治的構造へ』および『理論から実践へ』という二つのモチーフ」のもとに、「『希望の神学』(モルトマン)、『神の死の神学』(ハミルトン、アルタイザー)、『革命の神学』(ゴルヴィツァー、コックス)、『解放の神学』(ラテンアメリカ・メデリン会議)、『黒人神学』(コーン)、『歴史の神学』(パンネンベルグ)、そして『政治神学』(ゼレ)へ」と動いてきた。しかしこれらの「から――へ」の主張は、けっしてその「実在的転轍点〔基軸と動力〕」を明示しているとはいえず、モルトマンは「宣教へと駆り立てるものと歴史的地平に生ずる限りでの実在的変化との本質的区別を十分見極めているとは言い難」く、ゼレは「万物の解放と言うが、その根源的本質的意義と歴史的本質的意義とを神学的に峻別し得ているわけではない」と。〔傍線は本文傍点〕


 この指摘は、われわれがもっとも注視して踏まえるべき「第一歩」の、ぬかしてはならない基礎視座がなお曖昧である点をつくものである。またこれは、瀧澤がこれまでもたびたびわれわれに、西田幾多郎の次の言葉を引用して、注意を促した点にかかわる問題である。


 「問題の対象を新(あらた)にすることは、直(ただち)に思惟を新にすることではない。又問題が具体的だということは、直に思惟が具体的だと云うことにはならい。」〔『哲学論文集』第三,序〕


 この点、J・H・コーンの『黒人解放の神学』の興味深い刺激的な諸論文においても、この隘路を超克する視点は未だ闡明にされているとは言えない。とくに、既存の解放運動とたんに順接的・連続的な結合関係のみ強調する同一化論に落ち込んでいることは、きびしく検討を加えなければならない点である。この問題性は,われわれの陥りやすい問題性でもあるので,いっけん真実そうに見える次のようなJ・H・コーンの主張を、あえてあげておきたいと思う。これは、根源的基点にふくまれる構造・文節・力学,「神ノ業」《Opus Dei》と「人ノ業」《Opus hominis》の区別・関係・順序が闡明でないことから結果する問題性である。〔以下いずれも「解放の神学―黒人神学の展開」新教出版社〕。


 「『解放神学』は、抑圧された社会の諸目標に無条件に同一化し,その解放闘争の神的性格を解釈するようにつとめる神学である。」


 「黒人神学の思惟と行動を導く原理はただ一つ、世界における神の解放の業に照らして自己の実在を規定しようとしている、黒人共同体に無条件に自己投入すること――ただそれだけである。」


 「はずかしめられ、しいたげられた人々に無条件に同一化しないキリスト教神学というものはありえない。」


 神学は、現代の激動する「歴史」「革命」「解放」「政治」の状況と無関係にあるのではない。むしろ、現代の状況を,根源的基点・根本状況《Grund−situation》において、真に科学的に明晰判明にすることにこそ、神学の課題があるのである。その場合、必ずたんなる同一化の視座は超えられているのである。


    2 「小さなしるし」=瀧澤神学


 ここで、再び瀧澤「神・人学」の展開に注目しなければならない。周知のとおり、瀧澤の場合、西田哲学・バルト神学・久松禅学・浄土真宗等々との折衝をとおして、人間成立の根源的基点にふくまれる構造・文節・力学を愈々闡明にして今日におよんでいるのである。


 瀧澤の新著『宗教を問う』〔三一書房〕は、先年《1974〜75年》ドイツに招かれて当地でおこなわれた講義・講演等を収めたもので,解り易い筆致でこれまでの思索の後がたどられている。次にその一部を引用したい。先のJ・H・コーンの言葉とは、大いにその響きを異にしているものである。


 「人間がそのなかに住んでいる世界、この世界のなかの一々の存在者、おのおのの自己そのものは、まさにその成立の根底において一つの揺るがすべからざる堅い止め・運動の条件をもっています。〔中略〕わたしたちがそれを知るかどうかにまったく関わりなく、人間の生もしくは人類の歴史にとっては、その始めから終わりまで一つ無条件の決定――が支配しています。〔中略〕歴史的・現実的な何ものも、この一つの根源的な・人間のものではない決定の枠の外で生起することはできません。」〔40〜41頁、傍線は本文傍点〕


 人間の新しい思惟と新しい行為は、この堅い止め・運動の起点・無条件の決定(「第一義の神・人の原関係」)と「不可分・不可同・不可逆」の根源的関係において成り立つ表現・徴表《Symptom,Zeichen》〔「第二義の神・人の統一」〕として生起するのである。この一見、われわれの目に難解にみえるこうした表現も、人間の事実存在の真相を探るものには自ずと気付かされてくる単純で解り易い真実である。


 1976年7月より福岡で開催中の瀧澤ゼミ=「マルコ福音書の研究――田川注解の触発による」は、現在「盛況の中にすすみ、内に鋭い迫力を受けつつ、今、状況の真中に立っている」〔世話人・村上一朗書簡〕という。われわれが「神戸自立学校」で以前から瀧澤の著作をとりあげ共同研究をすすめていることもあって、幸いこのゼミの収録テープが届けられ、いま共に学ぶ機会を得ている。田川健三の労作『マルコ福音書 上巻』〔新教出版社〕を吟味・批判しつつ、氏の「神・人学」がいちだんと厳密な表現をもって展開されつつあるのである。


 瀧澤は、その初期の段階より,従来の「哲学」「宗教」のいわばその底を割ったところの根源的基点からの新しい思惟の展開として、哲学、宗教、経済学、国家論、家族論等々のはばひろい論究をすすめてきた。しかも、当初から日本の枠をこえて、世界での交流を、ことにカール・バルトとの長期にわたる学問的折衝のなかで育ててきたのである。この点,先の日独教会協議会〔1976年2月〕でのW・ベトヒャーの次の発言「日本の神学――ドイツの論議の中で」(『福音と世界』1976年9月号)は印象的である。


 「私の見るところでは、滝沢氏の神学は一つの特別な、また不可欠の貢献をなしております。」「『神われらと共にいます』という仲介の原事実によって仲介されているので、〔中略〕彼には、自分に高値をつける必要、自分を広げる必要、自分を偉大に見せる象徴を持つ必要は全くありません。彼はこの自分の場において、ただ、自分が本当にそうである、そのものであればいいのです。」

  瀧澤は、再びこの3月〔1977年〕から満1年、マインツ大学その他の招きでと渡独の予定という。この静かな、そして「小さなしるし」(ベトヒャー)である瀧澤「神・人学」は、それが「神の足台」(マタイ5・33)から湧出する創造的表現であるかぎり、現代の危機を超克し,全人的解放をうながす「神ノ業」に反響する、明るいこだまとして響きつづけるに違いない。


   3 創造的世界は始まっている


 さいごに、瀧澤の原理論的論究をふまえつつ、独自な「組織論的理性の模索」を精力的に追求する延原の神学にふれておかねばならない。


 彼は、はじめにも述べたように、10数年前〔1964年〕から「巡礼者キリスト教」を善しとして歩みだした開拓的実験者であるが,2年ほど前〔1974年〕から自覚的に「在家基督教の産声」(『在家基督教通信』無風庵刊)をあげ、教派・教団・教会の底を破って「在家基督者」を見定めるにいたるのである。彼のいう在家基督者とは,「先ず第一義的に実在により裏打ちされ,定義され,充実している」「実在的大衆生活者」(前掲「バルト以後」)であり、「同時代者と共苦する個人」〔バルト〕の謂である。したがってそれは、教派・教団・教会にも不可避的にふくまれる「基本単位」であることが確認される。


 「もしわたしたちが視野を己の生きるそこに勇気をもって転ずれば,『教会にいっているから』信ずるのではない、生きるから信ずる、自活・自修の途に立つ在家基督者である自分に気付くはずだ。瀧澤の発見した『教会の壁』の外に(も)横溢する神人の原事実は、そのような信徒の発生を促してやまぬ」〔前同,傍線は原文傍点〕として、瀧澤原理論を組織論的に読み替えるこころみを展開するのである。そして、彼はさらにこれを「在家キリスト教テーゼ」及び「在家基督教教程〔草案〕」並びに「現代牧会批判テーゼ」などで、吟味徹底させる。


 同時に他方、彼は1972年秋、WCC〔世界キリスト教協議会〕「教会と社会」部門の主催する国際専門家会議「暴力、非暴力、社会正義のための闘争」で出合った「平和学」のヨハン・ガルトゥングとの思想的対決折衝のこころみを「平和研究における暴力概念」及び「平和の神学・素描」などで展開してきた。


 こうして、延原は今、南部カリフォルニア大学クレアモント神学校の「現役牧師のための宣教学博士課程」に学び、「日北米両教会における宗教革命」の論題で、当地の「プロセス神学」と瀧澤哲学を折衝させつつ、原理的・歴史的・教会社会学的に検討をくわえる仕事に専念している。


 次々と、思いがけないかたちで,われわれの生活の途上において「出合い」が起こる。そして、つねに今ここにおいて、新しく生きることを学んでゆくのである。


 「新しい思惟と行為の根源的基点」は、けっしてわれわれの所有物にはならないし、してはならないのである。いかなる素晴らしい理論でも実践でも、つねに新しく根源的基点から検討され、批判・吟味されてゆく。われわれにとって、われわれの旧い思惟と的はずれの行為が、この根源的基点によって新しくされ、正されてゆくことほど幸いなことはないからである。


 われわれの生きている世界は、すでに堅い根源的基点に裏打ちされており、万物はすでに「インマヌエルの原事実」〔瀧澤〕、「創造的世界」〔西田〕によって、絶対の背後から支えられているのである。


 すべての人が、絶対無償の愛によって新しくされており、行き易い道が、すでにそのつど新しく備えられているのである。だからこそ、われわれは、現代の危機にもかかわらず、その危機のなかで希望をもって生き続けることができるのである。


 「新しい歴史の創造」は、すでに絶対の背後で始まっており、そこからこだまする「小さなしるし」は、われわれの予測を超えたところで、力強く噴出しつつあるのである。それもつねに、多くの人の目には隠されながら。


     (つづく)