新著ブログ公開:『爽やかな風ー宗教・人権・部落問題』(第6回)



         爽やかな風


     −宗教・人権・部落問題ー


              第6回



   第一章 対話の時代のはじまりー宗教・人権・部落問題


    (前回のつづき)


  第4節 「対話の時代」のはじまり


   1 「宗教と部落問題」再論


      (一) 昔と今と


 多くの人々が、日々の暮らしをまもりながら、犠牲を犠牲ともおもわず、山積みされた諸課題の解決のために、ともに力をあわせて頑張ってきました。一九六〇年だったとおもいますが、亀井文夫監督が手掛けた有名なドキュメンタリー映画「人間みな兄弟」を御覧になった方も多いでしょう。近畿地方が多かったようですが、各地域(当時はまだ「未解放部落」と呼ばれていました)にカメラを持ち込み、淡々と当時の厳しい生活のありさまを、白黒画面で映し出していました。「六〇年アンポ」世代に学生生活を過ごしたわたしたちにも、この映画は大きなインパクトを与えたものです。当時、NHKの人気アナウンサー宮田輝のあの語り口とか、失業対策事業で働く母親たちや夜なべ仕事の様子とか、中卒の女子生徒が就職差別を受けて自殺した場面など、さらには京都市内の地域でしたか、ドロボウを鉄道つたいに追っかけるところなどが、いまでも断片的に思い出されます。


 神戸の同和対策事業 わたしたちの神戸でも、かつて三〇近い同和地域があり、それぞれの地域で地道な改善の取り組みがつづけられてきました。戦前の水平運動なども一定の足跡を残していますが、取り組みが本格化するのは、全国の多くの地域と同じように一九六〇年代以降のことです。それまでの積もり積もった、まさに積年の悲願が一気に吹き出したような高揚した時がそのころでした。


 特に神戸では、一九七一年になって地域の全世帯を対象とした大掛かりで総合的な実態調査が実施されました。当時まだ、住宅環境をはじめ部落差別の傷跡がいたるところに残り、日常生活の隅々まで「差別の厳しさ」が存在していました。この実態を正確に把握し、それぞれの地域に即した改善計画をつくりあげるための基礎資料をえることを目的とした調査でした。神戸市は、この調査を受けて地元の関係者はもちろん行政・議会・学識経験者などで構成する「神戸市同和対策協議会」をつくり集中的な論議を積み重ね、一九七三年には綿密な「同和対策長期計画」が策定されました。


 このころは御存じのように、全国的にはすでに解放運動が混乱しはじめ、一部に暴力的な糾弾闘争が繰り広げられていました。そうしたなかで、科学的な調査を踏まえた具体的な総合計画が策定されたことの意味は大きく、それ以後の神戸における「同和対策」が、大きな歪みや混乱もなく着実にすすんでいく「指針」となりました。


 以後、ほぼ一〇年ごとに、改善のすすみぐあいを検証するための実態調査を繰り返し「長期計画」の「見直し」作業がおこなわれてきました。また、市民意識調査なども実施され、各分野の専門家を交えた「市民啓発専門委員会」をつくって検討を重ねてきたのでした。


 こうしていくらかの試行錯誤もあったかもしれませんが、二八年にわたる特別法のもとでの特別対策を終え、神戸市も新しい時代を迎えようとしています。


 「阪神大震災」以後 あの震災のときも、神戸市は早々に、同和地域の復興のあり方を検討するための委員会をもうけ、「同和対策」としてではない「一般対策」で、復興のまちづくりをすすめることを確認しました。そして、兵庫部落問題研究所には付属機関として新しく「NPO神戸まちづくり」がつくられたり、地域と関係の深いかかわりをもって活躍してきた「神戸労協」「高齢者事業団」「教育文化協同組合」、震災後に立ち上がった「建設労協」、さらには幅広い人々の参加を得て結成された「兵庫高齢者協同組合」など、次々と復興にむけた取り組みが継続発展しています。このようにして、これまでの部落解放運動も、新しい時代にふさわしい飛躍をなしつつあります。


 しかし他方では、急速に解消してきた歴史的な成果と過程をあるがままに受け入れることができず、大震災のときも「被差別部落」に集中的に襲来したかのような「予断」のもとに救援活動を組織しようとした人々や「同和対策」での復興をもとめる動きも一部にみられました。マスコミや宗教界の一部にも、そうした動きに呼応するものもありました。


 大震災は「同和地区」であったかどうかにかかわりなく、老朽した無数の家屋や町工場をことごとく壊滅させ、多数の高齢者や障害者、病気の人、低所得者など社会的に弱い立場におかれていた人々を容赦なく襲い、絶望的なダメージを与えました。そして、復旧・復興のテンポを見ても、これらの多くの被災者の切実な叫びは、しかるべきところに届くこと少なく、希望のそがれる日々を強いられつづけています。こうして震災後まる二年が過ぎ、いま三度目の寒い冬を過ごしているのです。


 (まる二周年のこのとき、神戸市長田区にある神戸協同病院院長・上田耕蔵氏の『医療から見た阪神入震災―まちづくりの始まり』ができました。上田氏は神戸大学の学生時代から、地域でのセツルメント活動にも参画し、以来現在まで下町の医師として親しまれ、震災後は「まち」に出て、意欲的に仕事をすすめておられます。これはその二年間の総括的なまとめで被災地の「いま」を確認し、明日の課題を明らかにした好著です。)


       (二) 宗教界の現在


 わたしは日本キリスト教団というところに所属していますが、かつて一九六〇年代の早い時期から、教団関係者を中心に、部落問題の解決をめざす自主的な活動が行なわれた歴史を持っています。そのころはまだ法的な措置も何もないときでしたし、差別の実態が色濃く残されていたなかで、現在とは違った意味での、幅広い人々の関心と支持が寄せられていました。


 しかし、それが一転するのは、六〇年代後半からの解放運動の分裂と「差別糾弾闘争」の激化が広がり、それがそれぞれの「教団闘争」とも連動していくころからです。それも、特定の立場を各教団が選択し、強引に引き回していくかたちが支配して行きます。こうなるとどうしても、各教団の主要な力点は、「運動」への対応を基本にした「ミニ運動団体化」の傾向が生れます。


 ある教団の幹部の方が、或るとき自嘲気味に「今やわたしたちは解放同盟の<教団支部>ですよ」と話していましたが、こんにちではむしろ解放同盟の人々さえも、宗教界内部の異常な動向に対してある種の「危うさ」さえ感じているともいわれています。


 「間」の取り方 では、宗教界がいま抱え込んでしまっている問題は何なのでしょうか。一、二上げてみれば、まず第一は「運動」との「間」の取り方、距離の取り方の歪みがあります。


 宗教界の場合、部落問題に限っていえることですが、いつも特定の運動に「同伴」もしくは「後追い」ばかりになっています。かつて日本のキリスト教も近代化に向けて一定の先駆的な役割を果たしてきました。しかしこの三〇年ほどの激動期から現在まで、日本の宗教界は、部落問題の研究において、また解決のための実践的な先駆性において、いかほどの貢献をしてきたのでしょうか。「反省と懺悔と、そして運動への対応だけは上手になったが、それもだんだんと冷えていく」と「運動関係者」から公然とイヤミを言われても、反論のできない現実があるのでしよう。


 しかしおそらく今後、積極的な意味で、宗教や哲学といった分野の仕事が、残された部落問題の解決にも一定の貢献をするのではないかおもわれます。けれども残念ながら、現在の「宗教教団」には「新しさ」も「創造性」の芽も、まだ深い深い土の下に潜っているかのようです。もちろんいま、宗教教団にはそれがまだ見当たらなくても、あちこちにすでに、それが芽ぶきつつあるようにおもわれます。


 宗教教団のあるべき「間」の取り方の回復に関連することとして、わたしたちが神戸に「研究機関」を設立した意図と役割について付け加えておきます。


 「神戸部落問題研究所」が設立されたのは一九七四年のことです。現在は「社団法人兵庫部落問題研究所」と改称されています。当然のことながらこの研究機関は、同じ部落問題の解決という目的をもつとはいえ「運動」や「教育」や「行政」の下請けのような付属機関ではなく、民間の独立した研究機関として、自由な科学的な研究を推進するために設立されました。「運動」に対しても「教育」に対しても、そして「行政」に対しても自由に批判的な検討をおこなうことを任務としてきました。どれだけそれが成功したかは、わたしたちの判断すべきことではありませんが、「相互批判」の場所として、神戸における「運動」や「行政」の切瑳琢磨には、一定の役割を果たすことができたのではないかとおもいます。


 宗教も本来、万人(万物)に「開かれてある」もので、宗教固有の場所から、自由で独自な貢献が期待されています。同時に、科学的な探究にもつねに開かれており、科学の発展にも大いに寄与するものでなければなりません。


 実際、宗教の分野にも、いや宗教の分野こそ、禅の大家として知られる芭蕉のあの一句


    よくみれば薺(なずな)花さく垣ねかな


 のごとく、「よくみれば」いちいちの門徒・信徒をはじめ、僧職にある人々個々人は、黙々と持ち場持ち場の自分の「垣ね」で、ひと知れず、ひそと「花さく」素敵な「薺」であるといってもいいとおもいます。ほとんどの方々が、現在のような宗教教団のあり方に、けっして満足しておられるのではないでしょう。不信や疑問をいっぱい抱いたまま、いまは黙っておられるに過ぎないことは、おそらく教団政治に携わる人々自身がハッキリと気付いていることだとおもいます。


 新しい見方 ここではもうひとつ「部落問題の誤解」について付言しておきます。それは、部落問題をあたかも「運命的な熔印」でもあるかのような受け止め方がされる問題です。二〇年ほど前に『私たちの結婚−部落差別を乗り越えて』(兵庫部落問題研究所刊)という小さな作品の編集にかかわり、その巻頭に「結婚と部落差別」という短いものを収めました。そこでもこの問題に触れましたが、いまだにこの基礎的な問題が十分に解かれていません。この問題は、いまでも見えにくい「落とし穴」になっています。


 現在では非常に少なくなりましたが、自ら「出身」を名乗り、特別の「会」を組織している場合があります。かつて神戸でも、進路保障の取り組みで「出身生徒」の「優先入学」の要求が出され、これに対して強い批判をあびたことがありましたが、宗教界の一部ではいまだに同種の要求が論じあわれることもあるのです。


 部落差別が厳しかったころ、これを跳ね除けるために、自らの辛かった苦しい秘めごとを社会的に訴えてきました。それは「部落」とか「出身」とかいう差別を一日も早くなくすためのものでした。それも、あくまでも「部落問題の解決」という目的のためのものでした。こうして現在、特別の「同和対策」を終結する時代を迎えているのです。ですから、すでに「同和地区」かどうかといった枠組自体が、いま意味を失う時が到来しているのです。


 部落問題の解決の出発点は、こうした枠組がはじめから無意味であることをハッキリと捕らえて、その不当性を正していくところにありました。早い段階からこのことは「国民融合」ということで表現されてきたことです。もちろんこれには、社会的に隔離・分離していたものを融合する意味もありますが、基本的な出発点にあるものは、融合の「もと」に立ち戻ることでした。2節で記したように、宗教はこの融合の「もと」(基礎)を明確に指し示すものです。


 ところが現状は、単なる「現実の差別」を出発点として、それに引き回されながら、その危うさにも気付くことなく「出身」に呪縛されて、無用に過熱してしまうことがおこるのです。「部落解放」をめざすその人が、それから未だ解放されていないことを公言しているような、分かりにくい偽善を演じてしまうことが、時として起こります。そうなるとますますそこから抜け出られなくなるのです。



     2 「対話の時代」のはじまり


      (一) 「合って話したい」


 部落問題がここまで解決してくるためには、確かに長い歳月を要しました。けれども、ここまでくるにはもっともっと長い日々と、困難なたたかいが求められるだろうと、わたしはおもっていました。解決の最終段階がこんなに早くきたことに驚いています。ただ、上記のような問題がなお残されていますから、この問題も「新しい部落問題」のひとつだと考えますと、まだ暫く時を要するかもしれません。この新しい問題を解決するためには、従来の「同和対策事業」による取り組みとは違ったレベルの別の取り組みが必要になっています。


 「対話」の大切さ 先日のNHKテレビで二時問の特別番組「聖書の大地」が放映されました。作家の加賀乙彦氏の旅と解説で、現代に生きる宗教者の姿が映されていました。そこでも強調されていたことのひとつが「対話」の大切さでした。


 一九六〇年代の前半に開催された「第二バチカン公会議」で、カトリック世界が「対話」にむかって大きく変革を遂げていったことは広く知られていることですが、現実にいま「仏教とキリスト教の対話」をはじめ「諸宗教間対話」が世界の趨勢となっています。


 ひとはそれぞれに信じるところの思想・信条・宗教にしたがって生きています。そして多様な価値観や異なった考え方に接しながら、戸惑いや対立を経験し、またそこで新しい「出合い」がはじまり、「友だち」もそこから生れてきます。いま所属している宗教教団を、第一義的に絶対最高のものとするところには、他の宗教との「対話」ははじまりません。排斥・否定して強引に撲滅するか、折伏して自分の陣営に取り込むかして、つねに「宗教戦争」の火種の絶えることがありません。この愚かしさは第2節でみたとおりですが、解放運動のなかでもけっして他人ごとではなく、自分たちの考えを暴力をもって貫こうとして引き起こした、あの解放同盟による組織的犯罪「八鹿高校事件」についても、そこで言及したとおりです。


 「真理・真実」を私物化した「宗教」や「運動」は内側から腐食していき、外見の勇ましそうな装いとは裏腹に、崩壊への道を突きすすみます。まえにも指摘しましたが、一方的にお前は「差別者だ」「差別教団だ」などと断罪されたり、「学習」と称して不本意な「確認・糾弾」などされれば、恐怖と緊張で正常な判断が難しくなるのが普通です。そして、そのような経験をへた後は、「糾弾」する側への「対応」と内部の「研修・啓発」に追われてきたことも、これまで無数に生み出された不幸な歴史的事実です。その結果、そこにはいつまでも、相手側の意向に添った一方的な情報のみ受け入れて、いっそう「対応」もいびつなものになっていきます。


 「賀川豊彦全集」のこと 情報の制限ということで、大変驚いたことがあります。東京に「キリスト新聞社」というのがあります。神戸の地域とも馴染みの深い社会運動家で牧師の賀川豊彦が一九六〇年に没してすぐのことです。この新聞社で、賀川の全二四巻におよぶ膨大な著作集の刊行が準備され、その当初から彼の著作のなかの差別的な記述をめぐって検討がおこなわれ、第一版の刊行にこぎつけました。


 ところが、一九八〇年代に入って「部落問題フィーバー」の時節を迎えて以後、この問題が再燃します。それから延々と「問題提起」する人々との「話し合い」といわれるものが継続されてきました。これらの詳細な経過や問題点に関しては、一九八八年に『賀川豊彦と現代』(兵庫部落問題研究所刊)として出版し、問題解決へのささやかな試みをいたしました。その三年後、新聞社編の『資料集「賀川豊彦全集」と部落差別』を刊行されるということで、刊行前に新聞社の方と合う機会がありました。


 初校段階の確定稿を拝見してまず驚いたのは、この問題に関連した文献は、わたしの書いた関係論文や著作が除かれていることだけであればまだしも、ほかにも歴史研究者をはじめ数多く発表されているにもかかわらず、それらの文献名さえ『資料集』には上げられていないことでした。加えての驚きは、三〇年近い双方の「話し合い」の経過が記録され、それがそこに公表されていることでした。貴重な資料には違いありませんが、公表するには余りに無残な記録です。


 さらに重ねて驚いたのは、この三〇年間、ずっと部落問題をめぐって、また「賀川と部落問題」について「話し合って」きたはずなのに、関連資料の収集も、部落問題関運の資料や情報も、あまりに偏ったものでしかなかったことでした。これは極端な例外的な事例といえるかもしれませんが、唖然とする経験でした。


 この問題には、わたしにとってひとつ悔いを残す出来事がありす。実は一九八九年の段階で、この新聞社にあってこの問題で苦悩を強いられていた担当の方から親書を受け取っていたのです。この親書には率直に「思考錯誤」(「試行」ではなく「思考」として太く傍点が付されていました)を重ねてしまった無念さが記され、「機会を得て合って話したい」とも書かれていたのでした。しかし、お互いに出合う機会もつくれず時が過ぎ、一九九一年のこの『資料集』刊行の時にはこの方は社を辞され、不帰の人であることを知らされ、愕然としました。同氏がもしこのときまでご健在であれば、はたしてこの出版はあったのかどうか。


      (二) 解放運動や研究分野の課題


 ところで、部落問題の分野における「対話」の現状はどうでしょうか。部落問題の分野といいましてもその範囲は広く、「歴史」「現状」「理論」とか「運動」「行政」「教育」、また「福祉」「住宅」「文化」など「まちづくり」の課題など多岐にわたります。


 そしてこの間、解放運動のなかでも学問研究のなかにおいても、活発な「論争」もおこなわれてきました。わたしたちもこの三〇年近くの間、地域にあって、また研究機関の裏方にあって、たっぶりとその醍醐味を経験いたしました。例えば、五〇〇頁にのぼる大著の『杉之原寿一部落問題著作集』全二〇巻の完成という大きな仕事もそのひとつで、既刊一三巻につづいて一九九七年度には、この四月から第二期刊行分として全七巻を刊行し完成にこぎつけることになっています。


 これまで仕事の上で、大切だと考えてきましたことは、実践(運動)は実践(運動)として、研究(理論)は研究(理論)として区別しながら、その独自な使命を自覚するということと、その上で各々独自に苦労を重ねつつ、相互に自由に「対話・交流」するよろこびを共有するということでした。


 神戸ではあの「八鹿高校事件」以後、地域の運動がまるごと「解放同盟」を離脱し「正常化連」(現在の(全国部落解放運動連合会)へ移行し、神戸市の行政もあの時点で明確な「公正・民主」の姿勢をしめすということもあって、わたしたちの研究活動も基本的にはこれを促進・発展させる課題をになって出発したのでした。(その後、神戸市にも「解放同盟」の組織がつくられましたが、同じテーブルで協議がおこなわれてきました。)


 「小さな出合いの家」 あらためていま「開かれた対話」がもとめられ、期待されています。「対話」はとうぜん「相互批判」が含まれます。お互いに「閉じた」関係のもとでは「対話」にはなりません。まして一方的な「糾弾」は「閉じた」関係を、癒し難いかたちで増幅させてしまいます。


 むかし学生時代、一九六〇年代のはじめごろ、戦後ドイツの復興に大きな働きをしたという「ターグング」の運動が日本のキリスト教界で注目され、興味深い「話し合い」運動がすすめられました。現在も、京都の修学院にある「関西セミナーハウス」などがこの試みを継続していますが、ここでの「話し合い」とか「対話」とか「出合い」が、わたしにとって強いイメージとなりひとつの契機となって、卒業後赴任した琵琶湖畔の小さな農村教会に「出合いの家」の名前を付けたのでした。そして一九六八年には「番町出合いの家」という六畳一間の「家の教会」が誕生して、わたしたちの地域との日常的な出合いがはじまりました。


 その後、地域の環境整備の進捗にあわせて一九七四年には「仮設住宅」へ、一九八一年には高層の市営住宅へと安住の場所を移してきました。ところが、大震災によって一四階建ての高層住宅が全壊し、ついに避難暮らしとなり、新しく名付けたのが「小さな出合いの家」でした。


 この名前は大いに気に入り、同じ名前を発行所にして岩田建三郎さんの『いのちが震えた』とやまがみえいこさんの『ふうちゃんとじしんかいじゅう』という地震に関係する二冊の絵本が出版されたりもいたしました(発売元は兵庫部落問題研究所)。


 いずれにいたしましても、現代は「対話の時代」です。どの時代にあっても「怒りを遷さず」「敵のために祈る」ひとりひとりの「開かれた勇気」が、確かな明日を切り拓いてきました。これまで人々を縛ってきた暴力や憎悪、独善や利権の呪縛から解き放たれ、清朗な息吹きが満ち溢れるときが、いまも待たれています。


 いよいよ残された余白がなくなりました。一九九七年の年頭の思いを、一気にはきだしたようなことになりました。当初「宗教・人権・部落問題」という主題で書きすすみ、書名を『「小さな出合いの家」から』としていましたが、結局御覧のように『「対話の時代」のはじまり』ということになりました。わたしがいまここでとくに強調したかったことも、人と人との「小さな出合い」を楽しむことであり、多様な価値観をもったひと同士の心を開いた打ち解けた「話し合い」であり、お互いに真理・真実の前で厳しく切瑳琢磨し合う幅広い「対話」の実現にありました。


 「対話の時代」に関する世界的な名著は、日本でもよく知られているマルティン・ブーバーの『我と汝』Ich unt Duで、『孤独と愛−我と汝の問題』として邦訳されています(創文社刊)。宗教に関連する「対話」の試みは近年旺盛ですが、例えば日本でも南山宗教文化研究所編『宗教と文化−諸宗教の対話』(人文書院刊)やジョン・B・カブ・Jr著『対話を超えて―キリスト教と仏教の相互変革の展望』(行路社刊)など多数の好著が生れています。


 もうそれこそ三〇年近くも続いていますが、一〇人余りの友人たちが毎月いちど顔を合せては自由に学び合う「神戸自立学校」という場所があって、これもわたしたちにとっては「笠木透と雑花塾」での楽しみと同様に「出合いと対話」の大切なトポス(場所)となっています。いまあちこちで無数に、こうした「場所」が生れ、「対話」がはじまっているのでしょう。


               あとがき


 我が家は「出合いの家」などと呼んでいますが、特別何をしているわけでもなく三〇年近い歳月を重ねただけです。震災の避難先が、須磨と垂水の美しい海を目前にできる山陽電車滝の茶屋駅」すぐのところで、九八年の正月には再建住宅が完成し、新築の「番町出合いの家」に戻れます。


 避難先での最後の正月をゆっくりさせていただいて、前から与えられて果たせなかった宿題を仕上げてみました。お蔭で今年の正月は毎日が暖かく、うれしいことに休暇が九日間もありました。まとまったゆっくりとした時間の大事さを知らされた正月でもありました。


 部落問題のことだけならともかく「宗教」だの「人権」だのと大袈裟なことに手を出して、独り善がりなことを書いてしまいました。我が家の愛猫ピコにも見せて批評を仰ぎたいところですが、あいにく彼もこの地が気に入ったと見えて、先般愛妻をもとめての家出となりました。


 芭蕉の「古池」の句の哲学的な新しい解釈を、先輩から聴いて「水の音」の深い意味を、ちょっとでも味わいたいものとおもいたち、決意も新たに書きすすみました。はたしてこの小著が、めでたく「水の音」たりえますかどうか。新しい年のはじめ、どうぞお元気でよい日々を!    


                       (一九九七年正月)