新著ブログ公開:『爽やかな風ー宗教・人権・部落問題』(第5回)



     爽やかな風


     −宗教・人権・部落問題ー

       
               (第5回)


   第3節 「人間の権利」つて何だろう


      1 人間の尊厳 


     (一) マルクス鈴木大拙
 

 前節で、宗教の「基礎」について考えてきました。ここでは「人間の権利」つまり「人権」について考えてみたいとおもいます。


 最近、人権問題について語りあわれた座談会の記録のなかにこんな発言を目にしました。


 「……基本的人権を考えると、天賦人権説といった形で生れなからに与えられているという考え方についても、気になっているところです。つまりこれはレトリックとして『生れなからに』といわれるものにすぎないだろうと思います。あるいは、これはイデオロギーだろうと思います。」
 現代を生きるわたしたちにとって、「天賦人権説」などもはや受け入れられるものではない、人間は人間として自立し、独立した人間として自らの「権利」を闘いとっていくものであって、はじめからそんなものかあるのではない、昔の人がそう感じ取ったように「天」から「与えられ」たりするようなものではないのだ。そうしたものは「レトリック」であり「イデオロギー」にすぎないのだ。普通このように考えられています。ですから当然のことながら、人間が「自由である」とか「平等である」といっても、それは単なる「観念」であり「理想」に過ぎないというふうにおもわれています。


 最近「人権法」に関する法律家の専門書を読んでいましたら、その本の書き出しにはこんなことが書かれていてたいへん驚きました。「本書では『人権』の基礎づけについての議論には立ち入らず、『人権』とは『ただ人が人であることによって、生れなからにもっている譲りおかすことのできない権利』と解することで満足しておくことにする」と。


 「人権法」を銘打って書かれた著書であれば、「人権」とか「基本的人権」ということについての、それなりに立ち入った概念規定や探究がなさるべきものと期待して買いもとめて読みはじめましたのに、このようにして「満足して」おかれては、読者にとってはいちばん基本的な問題をはぐらかされたようであり、拍子抜けしてしまいます。


 それにいたしましても現在、「人権」は「二一世紀のキーワード」などと叫ばれる割には、あまりに曖昧なままに用いられています。「レトリック」や「イデオロギー」にすぎないことばが、「二一世紀のキーワード」としたらどうでしょうか。


 「人権」への疑問符 ところで、あらためて申し上げるまでもありませんが、「人権」ということばには、哲学的にも歴史学的にも広い学際的な吟味をくわえなければならない課題が含まれていることは確かなことです。


 西欧において「人権」が強調されるようになりましたのは、それまで個々の人間よりも国家や教会(宗教)或いは諸伝統などに絶対的な価値基準が置かれていたなかから、それらをその根本からとらえなおして、「人間の権利」の新しい回復(発見)へと時代をすすめてきました。そして、この「人間の権利」を法的にも徐々に確立させてきた歴史が刻まれています。それは、西欧ばかりではなく、わたしたちの日本を含めて世界の歴史の歩みでもあります。


 別の言い方をしますと、特にこの近代の歴史は、かつての「他律的」な考え方・生き方から「自律的」な考え方・生き方へと大きく変貌を遂げるものでしたし、日本の近代のことばで申しますと「他人本位」から「自己本位」への歩みでもありました。


 しかし、この「自律的」「自己本位」の「近代」以後、つまり「後近代(ポスト・モダン)の「現代」を生きるわたしたちにとって、問題はここからはじまります。「近代の危うさをどう乗り越えることができるか」、これがわたしたちの先輩たちの苦闘の歩みでもありました。


 たとえば、そのなかで貴重な開拓的な仕事を後世に残した先達のひとりカール・マルクスは、いまわたしたちが問題としています「人間の権利」もしくは「人権」に含まれている根本的な問題性に、はっきりと気付いていました。近代を乗り越える重要な指摘がここにすでになされていたことがわかります。


 彼の有名な「ユダヤ人問題によせて」(『ヘーゲル法哲学批判序説』所収、大月書店文庫版)にはつぎのような箇所があります。


 「いわゆる人権なるものは、市民社会の成員、換言すればエゴイスト的人間、人間からまた共同体から切り離された人間、の権利にほかならなぬという事実を確認しよう」(三〇四頁)。


 「自由の人権は人間と人間との結合ではなくかえって、人間の人問からの隔離にもとづく。……自由の人権の実践的適用は私的所有の人権である」(三〇五頁)。


 この簡単なことばだけからもわかりますように、彼は「人権」が主張されてくるその根本的な基礎を問題にしています。「人権」が主張されるその基調に、彼は「エゴイスト的人間」が残されている「事実を確認しよう」と注意を促すのです。「人権」の主張の豊かな実現のためにも、「人権」に含まれている根本的な問いをここで提出しているところが、きわめて重要なのです。


 「自由の人権は……私的所有の人権である」として、近代市民社会の基本である「私的所有」「自由の人権」について静かに深く、そして大胆に、率直な「疑問符」を投げ掛けているのです。


 もちろん彼に、こうした指摘が可能となったのは、人間の本来的な基礎への目覚めがそこに裏打ちされていたからにほかなりません。ですから、こうした指摘につづいて最後に、「私的人間」からの本当の「解放」を、次のようなことばで積極的に示すことができたのです。


 「あらゆる解放は人間界を、世の中のあり方を人間そのものへ引き戻すことである」(三一三頁)。


 「……個体的人間として……類的存在者となったとき……このときにこそはじめて人間的解放の成就があるのである」(同頁)。


 少しむずかしい言い回しですが、彼が言わんとする「感じ」はお分かりいただけるとおもいます。この「私(わたくし)された人権」の問題性についての指摘は、「近代の落とし穴」から抜け出す重要な足場(基礎)の発見でもありました。


 「人間主義」「ヒューマニズム」が近代の新しいスタートであることは誰しも認めるところですが、しかしここに隠されている大切な問題、解かれることが待たれている課題を、ごまかすことなく真剣に間いつづけ、特に経済学の分野で悪戦苦闘した先輩のひとりがこのカール・マルクスでした。


 「世の中のあり方を人間そのものへ引き戻す」などといわれても、また「類的存在者となったとき」などといわれても、何のことかさっぱり分からないといわれるかも知れません。けれどもこれは、わたしたちの日常の生活のなかで、誰でも抱えている問題で、それぞれに発見され、気付かれることが待たれていることですから、見方によればいちばん見易い、子どもにもすぐに分かるやさしいことだといえることだとおもわれます。


 漱石の「則天去私」 またご存知のように、近代日本の代表的な文学者のひとりとして多くの人々のこころをとらえつづける夏目漱石は、先の「他人本位」から「自己本位」へ、そしてそこから「後近代」を模索して苦闘した先達でした。『こころ』や『明暗』などよく親しまれている作品ばかりでなく、奥さんの『漱石の思ひ出』や息子さんの『父・夏目漱石』、小宮豊隆森田草平、津田青楓や内田百輭ら弟子たちの残した漱石にまつわる作品を読んでみましても、漱石という一人のひとの「生涯」というもののかけがえのなさが、あらためてよくわかります。


 近代の壁を乗り越えて、ひと本来の「大きな自然」に開かれていきる彼の「則天去私」の世界は、五〇年の生涯の最晩年の「発見」であることは、あまりに有名な事実です。


 念念刻刻 漱石は参禅の経験をもっていますが、世界的な禅仏教徒として知られる鈴木大拙の著作も、世界で幅広く親しまれています。講演テープも発売されていますから、彼の声にも接することができますが、一九六〇年少し過ぎたころ、京都の岡崎にある京都会館大ホールで親鸞聖人大遠忌の記念の集いが開かれ、鈴木大拙の講演を一度だけ聴講したことかあります。そのときすでに九〇歳を越えておられましたが、瓢瓢とした話ぶりとあの夜の雰囲気は、今でも忘れないでいます。それから数年後に「人間尊重の根底にあるもの」という素晴らしい講演がおこなわれて、その記録が残されています。そこに次のようなことばがあります。


 「生は永遠性のもの、絶対性のもので、普通に、生まれたというときだけ生まれたのではなくて、われわれは念念刻刻に生まれつづけているのです。そいつが大事です。……われわれは念念に生まれている。すなわち生は絶対無限なものです。…天地の初めから天地の終りまで、ズーツとぶっとうしていくという絶対矛盾の自己同一的人生観が、そこで確立するのです。これをつかむときに本当に尊いものが感じられるのです。


 お釈迦さんだけに天上天下唯我独尊を独占させるんじゃなくて、こうしてお互いに顔をつき合わしておる、いわゆる『凡夫』なるものが、そのまま、それぞれ唯我独尊というものを持っているのです。それで生きていく。それで生きていくからして、なにもむずかしいことはないのです。人間尊重の真の意味をここまで持って行かぬと、根なし草の感じがするのです。」(『東洋の心』春秋社、一九六〜―九七頁)


     (二) 人問の尊厳性


 わたしたちは普通、「人権」とか「民主主義」について、あらためて問い直すことをしないでいます。多くの曖昧さをもつものだということも忘れて、それがいまや世界の共通語になって久しいのです。


 しかし、さきほどマルクス大拙の指摘にもすでに明らかなように、「人権」とは何かということを、ここで積極的に問い直しておくことが必要ではないでしょうか。これまでのところ「人権」については、対国家的・対社会的・対人的な「諸権利」が論じられてきました。言換えれば、先の『人権法』の書物で見ましたように、法的なレべルでの「人間の権利」の歴史的な発展過程や今日的な「人権保障」の実際が、内外の現状を踏まえて論じあわれてきました。このことはもちろん重要な仕事であり、いっそう厳密におこなわれる必要があります。


 しかしいまここで、あえて強調させていただきたいのは、さきにも触れたような「人間の尊厳性」を、そもそも基本的にどう受け止めたらいいのか、どう受け止めることができるのかというレベルのことを抜かしてはならないということです。つまり「人権」を「人間の尊厳性」と同義としておさえて、その基本的なことをここでは見ておきたいとおもいます。


 「授かり物」 わたしたちはこの世界に生き、存在しています。いま・この世界のなかで「生れ」「生き」「死んでいく」存在です。そしてさらに近年では、『生きるということ』(人文書院刊)や『経験と自覚』(岩波書店刊)などで有名な哲学者・上田閑照氏は、この「世界」のとらえ方を一歩すすめています。上田氏によれば、「世界」は「限りない開け」においてあり、わたしたちの存在は「限りない開けにおいてある世界においてある」のだとして「二重世界内存在」ということを『場所』(弘文堂刊)という作品で主張しています。「なるほどそうだな」などと分かったような気になったりいたします。


 よく言われることですが、この世界に生れ出たわたしたちは、誰でも自分の両親を選ぶことはできませんし、生れる場所も時代も選べません。もちろん自分の名前も自分では決められません。また、父と母が我が子を生むのですが、親たちが子どもを生むことのなかには、単に親が勝手に「生む」のではない「生まれる」という受動的な「授かり物」というニュアンスが常に含まれています。「いのち」に対する、こういう昔からの変わらない基本感覚のような、或る種の慎みのようなものを、人間は誰でも持ち合わせています。


 単に自分の思いではないかたちで誕生し、そこで、そのつど「いま、ここ」にあって、ものの道理・道にしたがって、日々力をあわせて歩むことができるように生れ出ています。ですから、人間が存在すると、間髪をいれず「被決定」(「決定するものなき決定」といわれます)という事実が含まれています。


 その意味では、この世界に生れ出るのに、わたしたちにまず何かの「権利」があって、というのではありません。存在するに価する何らかの価値がまずこちらにあるから、こうして存在しているなどとはいえないのが実際のことです。ですから、本当のところは、全く無理由にこの世界に生れさせていただいたのです。「決定するものなき決定」によって、誰とてもみな、絶対無条件に、ありのままに受け入れられ、積極的に肯定されて生れ出ているのです。


 一切衆生悉有仏性 ところが、どういうわけかこの幸いな事実を忘れて、忘れていることさえ忘れてしまって根なし草のようになり、「わたし」だけがポツンと勝手に存在しているかのような錯覚に陥るのです。


 前にあげました鈴木大拙は同じ講演のなかで、仏教では「山川草木、山でも川でも岩でも木でも、なんでもすべて仏性がある」(一切衆生悉有仏性)ことに触れたあと、人間と人間以外の違いは「知恵」のあるなしだとして、次のような話をしています。


 「人間には動物と違った知恵があります。この知恵かあるがためにいろいろな悪いこともするのです。たとえばここに松の木がある。このへんの松の木はみんなまっすぐに生えていてスーッと伸びております。木は自分の性格通りに正直にスーッと伸びています。……人間は素直にスーッと伸びているかというと、そうではなく、もういろんな悪いことをして素直に伸びられない。人間ほど悪いことをするものはないですな。猫ならお隣の魚をとって来てもべつに悪いとも思わない。要するにあたりまえなんだから。ところが人間は、隣の魚をとってきちゃならんぞということを知っておって、なにか機会があるというとスッと取って知らん顔しておるですね。」(『東洋の心』一七五〜一七六頁)。


 ここにあげられているのは「悪知恵」ですが、人間には幼くしても年老いても、男でも女でも、どこか素直でない、正直でない考え方や行ないが、いつもつきまといます。それには、積極的な理由は何もないのですが、一生人間には悪や虚偽のいざないがつきまといます。


 しかし、如何なる悪に落ち込んでも、はじめの「絶対無条件の肯定」は確かなことですから、そのドン底から新しく元気を取り戻すことが出来るわけです。人間は、幸いなことに、生れてから死に至るまでつねに、この「尊厳性の確かさ」に支えられているからです。


 この「確かさ」は、はじめにも触れました宗教の「基礎」の確かさと同じで、この「基礎」「支え」は、どんなことがあっても揺らぐことのないものです。


     (三) 「憲法百四条」


 「人間の尊厳性」(人権)の確かさが曖昧になり、それがレトリックであったりイデオロギーであったりして、深い経験的事実としてとらえられない危うさが誰にも何時でもあることは、さきに触れました。そして、近代の入り口に立った人として知られるデカルトは、「われ思う、故にわれあり」という有名なことばをもって、人間の理性を基礎にした見方を切り開いていきました。


 しかし現代においては、こうした人間の理性を基礎にした平等主義では、「人間の尊厳性」について正確に理解できたと言えないことがはっきりしてきました。人間に「理性」があるかどうか、「考える力」があるかどうかで人間の価値が決まるわけではないからです。まして、人の持ち物(財産、学歴、職業、宗教なども含めて)で人間の価値が定まるわけではありません。人間の価値は、持ち物ではなく、存在そのものにかけがえのない価値が与えられているのです。


 近代的な考え方や感じ方に馴れてしまったわたしたちは、いつ知れずどこか傲慢な「意識的なわたし」を先立てて毎日を暮らしています。「考える」ことは人間の大事な働きですが、そのことで人の価値が決まるわけではありません。


 宮沢賢治の手紙 生誕一〇〇年を迎えた作家・宮沢賢治の魅力はますます大きくなるばかりですが、彼が三七才の短い生涯を終えようとする一〇日前、病床にあって教え子に書き送った有名な手紙が残されていることは、皆さんもよく御存じのことでしょう。一度読んだら忘れられない内容です。


 賢治はここで、自分の「惨めな失敗」は「今日の時代一般の巨きな病、「慢」というもの」だと自らを省みています。これは期せずして、現代に生きるわたしたちへの大切な「遺言」として響いてきます。彼はつづけて次のように記しています。


 「僅かばかりの才能とか、器量とか、身分とか財産とかいふものが何かじぶんのからだについたものででもあるかと思ひ、じぶんの仕事を卑しみ、同輩を嘲けり、いまにどこからかじぶんを所謂社会の高みへ引き上げに来るものがあるやうに思ひ、空想をのみ生活して却って完全な現在の生活をば味わふこともせず、幾年かが空しく過ぎて漸くじぶんの築いてゐた蜃気楼の消えるのを見ては、ただもう人を怒り世間を憤り従って師友を失ひ憂悶病を得るというやうな順序です。あなたは賢いしかういふ過りはなさらないでせうが、しかし何といっても時代が時代ですから充分にご戒心下さい。風のなかを自由にあるけるとか、はっきりした声で何時間も話ができるとか、じぶんの兄弟のために何円かを手伝へるとかいふやうなことはできないものから見れば神の業にも均しいものです。そんなことはもう人間の当然の権利だなどといふやうな考では、本気に観察した世界の実際と余り遠いものです。どうか今の生活を大切にお護り下さい。上のそらでなしに、しっかり落ちついて、一時の感激や興奮を避け、楽しめるものは楽しみ、苦しまなければならないものは苦しんで生きて行きませう。いろいろ生意気なことを書きました。病苦に免じて赦して下さい。それでも今年は心配したやうでなしに作もよくて実にお互い心強いではありませんか。また書きます。」


 「人間の尊厳性」がこうして新しくとらえなおされますと、単なる人間中心・自己中心の見方が根本的に正されてきます。人間の尊厳性は「自然の尊厳性」「地球の尊厳性」へと開かれてきます。ですから、単に人間のものだけでなく、先に上田閑照氏のいわれる「二重世界内存在」にもありましたように、人間が生きている世界(宇宙)の「基礎」の探究もいま、盛んに究められているところです。


 こうした多重的な深みをもった「基礎」の上に、また単なる人間中心の見方を超えた、広がりのある開かれたとらえ方が、人々のなかにいきづきはじめています。最近日本でも「山や海にも生存権がある」という「自然の権利」が裁判で争われることがありますが、山や海たちは、わたしたちを見て、やっと人間たちもそのことに気付いてくれたかと、悲哀をこめてこれらを見つめているに違いありません。


 新しい地球倫理 確かに「自然の尊厳性」が踏まえられなければ「人間の尊厳性」もありえません。数年前になりますが、わたしの親しい先輩がアメリカ宗教学会に出席した折に人手したというハンス・キュンクの新著『A Global Ethic』(地球倫理)を取り上げていました(延原時行『地球時代のおとずれ』創言社刊、一九九五年)。この書物は「世界宗教会議」での「宣言」だそうで、次の四つの条項が根本的なコンセンサスとして上げられているようです。


  第一条 新しい地球倫理なしにどのような地球の政治秩序もあり得ない
  第二条 根本的な必要事項――即ち万人が人道的に扱われなくてはならない
  第三条 四つのどうしても譲れない方向づけ
     ①暴力の文化と生への畏敬をまもりぬくこと
     ②連帯の文化と公正な経済秩序をまもりぬくこと
     ③寛容の文化と誠実な生き方をまもりぬくこと
     ④平等な権利の文化と男女間のパートナーシップをまもりぬくこと
  第四条 意識変革


 「日本国憲法第百四条」 いままさに「地球倫理」が求められています。再び笠木透さんの歌ですが、「みんな生きている海」というタイトルで「日本国憲法第百四条」と副題がついている美しい作品があります。そのおわりのところに、次のようなセリフがついています。日本国憲法は第百二条までですから、この「第百四条」は新しい条項です。


 「日本国憲法第百四条/人問は たとえ/自分にとってよいことでも/家族にとってよいことでも/会社にとってよいことでも/国家にとってよいことでも/地球にとってよくないことはしてはいけない」



    2 「人権の享有」について


      (一) 「わたしの夢」


 「人権とは何か」などという理屈っぽいことを取り上げてみましたが、大事なことは、わたしたちがそれぞれに、その持ち味を存分に発揮するということ、つまり「人権を享有する」ことが促され、期待されているのです。


 人権の「享有」ということばは「エンジョイメント」で「楽しみ味わう」ことですが、これも先の先輩から教えられたことで「受用」とも訳されるようです。つまり、過去の一切の経験から受けとる面と、受けたものを新しく用いる面とがあるようです。たいへん示唆に富んだ言葉です。


 大阪堺市の病原性大腸菌O157による集団食中毒は昨年大きな問題になりました。多くの感染者が出て、小さな子どもたちが重症になったり死亡したりしました。小学校五年生の女児がこの病原菌で死亡した報道で、ある新聞は『「見えぬ敵」少女の夢砕く』という大きな見出しをつけ、絵のはいった少女の作文を載せていました。


       わたしの夢


    わたしの夢は大人になったら花屋になりたいです。
    わたしは、花屋になるためにいろいろな種類の花をしりたいです。
    そしていろいろな花を家にかざりたいです。
    それによって家がとってもきれいになります。
    そしていろいろな人に花をうってよろこばせてあげたいです。
    きれいな花が人好きです。
    だから花屋になりたいです。
 

 少女は、この世界に生れ出て、美しい大きな夢に出合い、その夢を実現させようと、よろこんで学んでいる様子がとてもよく書かれています。こんな記事をよむと、わたしのような冷淡・薄情な男でも、何度も何度もこれを読んでは、無念な思いにさせられてしまいます。


      (二) 「たったひとつの 生命よ燃えろ」


 このごろ『ソフィーの世界』が広く読まれたりして、新しい哲学ブームがおこっているようですが、二〇世紀の日本が生んだ最大の哲学者・西田幾多郎の名前は誰でも知っています。彼の著書はとても難解で有名です。しかし、じっくりと繰り返して読んでいると、大切な宝物に出合います。たとえば、「人権の享有」の関連で一節をあげてみますと、彼の初期の名著『善の研究』のなかに、こんな言葉があります。


 「……善とは自己の発展完成 self-realization ……竹は竹、松は松と各自その天賦を充分発揮するように、人間が人間の天然自然を発揮するのが人間の善である」(岩波文庫、一八〇頁)


 彼にとって「自己の発展完成」が善で、それを妨げるものが悪であるようです。また、「人間の天然自然を発揮する」のが善で、それが出来ないのが悪のようです。


 昨年の「星祭りコンサート」で「Human Rights」という歌を聞きました。これも笠木透さんの詩で曲とうたは岩田美樹さんでした。そのとき、岩田さんは「わたしは Human Rightsの意味は、まだよく分かりません。でも、いきいきと楽しく、伸び伸びと生きること、それが人権だと思います。いま母はからだが不自由になっていますが、それでも不自由なままで、母は少しでも楽しく生きたいなと思っているとおもいます」とスピーチして、この歌をうたいました。この歌のリフレインのところはこうなっています。


   Human Rights 人間の権利
   かけがえのない ひとりよ輝け
   Human Rights 人間の権利
   たったひとつの 生命よ燃えろ


       (三) 人権問題とは


 以上、手短かに「人権」についてのあれこれを綴ってきました。「人権問題」を考えるためには、これらのことがどうしても踏まえられる必要があると考えたからです。どの場合も同じことかもしれませんが、物事を見たり取り組んだりするとき、わたしたちはまず、より積極的なより確かなものを見出すことにつとめます。そして、そこからそこに向かって、間違いを繰り返しながらも、一歩一歩新しくあゆんで行きます。そしてこれまで、「人権の享有」について考え、この「享有」を妨げるものが悪であることまで見ることができました。


 そこで最後に「人権問題」とは何かについて、短く取り上げておきます。といいましてもわたしの場合、「人権問題」のひとつである日本の部落問題を次節で言及はいたしますが、「人権問題」に関する新しい見方を示すほどのものをいま用意できていません。したがって、ここでは、近年「人権問題とは何か」について吟味を重ねてきている杉之原寿一氏がまとたものを紹介して、みなさんの検討の素材を提供いたします。


 次の「解説」は『部落問題用語解説(改訂増補版)』(兵庫部落問題研究所刊)のなかの「人権問題」の項目に記載されたものです。


 「人権問題とは、人間の不断の努力によって、すべての人に平等に保障されなければならない基本的人権の享有とその工場が、何らかの理由によって妨げられたり、あるいは奪われたりすることである。したがって、基本的人権の享有と向上が、自然的・生得的差異、社会的後天的差異あるいは人為的な架空の差異を理出に不当に、かつ具体的・直接的・実質的に制限されたり侵害されたりする差別が、人権問題であることは言うまでもない。しかし差別問題だけが、人権問題ではない。公害問題、老人問題、環境問題、過労死問題、単身赴任問題など、基本的人権の享有とその向上が政治的、経済的、社会的要囚によって妨げられたり制限されたりする問題も、差別問題に劣らず重要な人権問題である。」